2018.05.06の説教から

 
56日の礼拝説教から>
『昔の人の言い伝えに従って歩まず』
         マルコによる福音書71節~23
                             牧師 三輪地塩
 の箇所を読む上で二点の事が前提となる。まず「コルバン」とは神殿に献げる「穀物」の事を言う。もう一点は、当時のイスラエルには「両親の扶養義務」があったことである。この義務はモーセの律法にも出てくる。だがこの扶養義務からズルをして逃れたいと思う者たちも少なくなかったという。どのようなズルかと言うと、「これは神への捧げ物、コルバンとして捧げるので、親を扶養する事は出来ません。神様に捧げる為に、親には捧げられません」と言って扶養義務を逃れるのである。現代社会でもこのようなグレーゾーンを渡って法律の穴を逃れようとする「輩」が後を絶たないが、2000年前の人間も全く同じであった。
 このような背景によって、9節以下の言葉を考えると、よく理解出来る。十戒の第4戒に「あなたの父母を敬え」とあるが、ここから理解されるのは「両親の扶養義務」である。更に広い意味で捉えると、健常者や経済的裕福な者たちは、弱者に対する相互扶助や支援の責任・義務を負う、というのが当時のルールであった。だが、「神へのコルバン・神に捧げるから」という理由をつけて、神の名をみだりに唱えつつ、実際は、自分の懐に財産をしまい込んでいる人も少なくなかったのである。イエスが告発し、暴露しているのは、このような、ズルをした者たちが、「神の名をみだりに使っている事」であった。
 イエスは群衆を集め、15節で言う。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。これは、多少解釈が難しいが、律法の食物規定を考えても、神の作り給う被造物に汚れはないことと、汚れは「我々の心」が作り出すものだ、と述べている。すなわち汚れは「罪」の問題に由来する。「心」とは何か。それは、「人間の正しさによってではなく、神の正しさによって、正しく神に向かう思い」。それこそが、我々の言うところの「心」の正しいあり方だとイエスは言うのである