聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記30章25節‐31章16節 2011年2月17日

 創世記30章25節‐31章16節 2011年2月17日
 ラケルとの子どもであるヨセフが生まれるや否や、ヤコブは故郷に戻る事を決意します。それはラバンとの争いの始まりを意味していました。ラバンはヤコブに対し、巧妙で注意深い言い方によって彼を引き留めようとします。ヤコブは20年もの間、ラバンのところで働いてきました。もともと7年の約束であったわけですが、それが14年に延び、その後さらに6年間ラバンの家に留まって働いていたのです。これは現代的には不正就労と言えるでしょう。リベカを嫁にやったのだからもう少し働いてくれ(・・と言った」かどうか分かりませんが)そのままヤコブを働かせていたのです。14年がもともとの労働契約であったのが、ラバンの巧みな言葉に言いくるめられたのです。
 ラバンは不正に働かせることによって多くの恵みを受けました。当時は多くの財産を得ることは、その家が祝福されている証とされましたから、ヤコブによってもたらされた恵みは、そのままラバンへの祝福となったのです。しかしラバンはここで得たものをヤコブと分け合おうとしませんでした。ラバンは得た恵みを全て自分の懐に入れようとしたのです。現代的には「業務上横領」的な悪だくみであります。そのやり方はまさに詐欺的な掠め取りでありました。
 ヤコブの願いは愛する妻子たちとの独立でした。所謂「暖簾け」を求めたのですが、これは、当時としてはごく自然に行われていたものと考えられます。かつてアブラハムの僕達と甥のロトの僕達との折り合いが悪くなった時、ロトへ暖簾分けとして「肥沃な土地」を選ばせたアブラハムの姿に私たちは感銘を受けました。アブラハムは本家の優越を捨てて、分家に選択権を与えているのです。自分の場所はどこでも良いから、これからの(若い)人「ロト」のために、好きな場所を選ばせたのです。
 しかしこの箇所でラバンが行なった暖簾分けは、ラバンにとって格段に有利であり、ヤコブにとって不利な条件が提示されています。ヤコブは自分の置かれている立場上、強く権利を主張するわけにもいかず、不利な条件を飲むしかなかったのでしょう。本来ヤコブは、彼の功績から言って、ラバンよりも多くの財産を分けてもらう権利をもっていました。しかしラバンに有利なものにしておかないと、独立する承諾を得られないと考えたのでしょう。ヤコブはこの不利な条件を自ら提示したのです。ここでラバンとヤコブとの間に不平等条約が結ばれました。
 ここで出されたのは、羊とヤギの、しかも黒みがかったもの、まだらとぶちのある見た目によごれのあるものだけを下さい、というものだったのですが、しかしラバンはそれすらも渡す事を惜しんで、裏工作を行い、息子たちにそれら黒味がかった家畜たちをあらかじめ手渡していたのです。あたかも現代の欲深な資産家が、儲けの大半を税金に持っていかれることを拒んで、家族に別会社を作らせ、そこに資産を分けて脱税するかのように、巧みなやり方で、一つの財産も渡すものかと躍起になっている様子を見るのです。
 
 ヤコブはラバンにとって義理の息子であり家族であります。勿論、当時の家や結婚の感覚が、今の企業間の買収とM&Aの関係などに似ている、と何度も言ってきましたが、その観点から鑑みるならば、娘の夫であるヤコブは他の企業の社長であり、ラバンの実の息子たちが「ラバン ホールディングス」の系列会社ということになります。ですから出来るだけ財産の流用を押さえたい、という思いが働いたのでしょう。しかし誰のおかげでここまでの財をなしたのかを考えれば、ヤコブの功績を認めれば良いと思うのですが、彼はそうしませんでした。ラバンはそれを失うことが惜しかったのです。ですから彼は占いの結果とでも何とでも言いながら、ヤコブに労働力として留まらせるように説得したのです。
 しかしヤコブに対する主の導きはラバンのところに留まることではありませんでした。あくまでも悪条件を提示してまでも独立することだったのです。32節以下に書かれているヤギと羊の条件に対してラバンは息子に税金対策的な策略を施すのですけれども、それに対して37節でのヤコブはそれよりも一枚上手であったことが分かります。しかし「ポプラとアーモンドとプラタナスの木の枝を取ってきて皮をはぎ~」と書かれているこの行為は、一種のおまじないのようなもので、これをしたから効果があった、というものでありません。しかし彼は神の御手に従って、圧倒的に強い叔父ラバンの策略をかいくぐって、自分たち家族の独立と財産分与のために戦う姿を見ることができます。結果的にここで起こったのは、白いヤギと羊から、黒みがかったものと、まだらとぶちのあるものが多く生まれ、それが全てヤコブのものとなっていった、という事が示されます。人間の策略の中に生きたラバンと、神の導きに生きたヤコブの対照的な結果が表されます。
 
 さて31章に入りますと、今度はラバンの息子たちがヤコブに言いがかりをつけています。「父のものをごまかして、あの富を築き上げた」とは、随分な言い掛かりです。むしろヤコブのものをごまかしてあの富を築いたのが父ラバンであることに息子たちは気付いていないのでしょうか。しかしその後「故郷に帰りなさい」という主の言葉を聞いたヤコブは、その決心を固めていきます。「わたしの報酬を10回も変えた」と言われているのは、ヤコブに約束された条件(黒みがかったとか、まだらだとかいう条件)をコロコロと変えている状況が言われています。ラバンはその都度条件を変え、「やはり黒みがかったのは私のだ」とすれば今度は白い羊ばかりが生まれ「やっぱり白いのが私のだ」と条件を変えれば黒いのしか生まれてこなくなる、という状況を言っているのでしょう。つまりヤコブの策略ではなく、創造者である神様が為さりたいようになさった結果が示されているのです。
 確かに人間の目には明らかに神がかった出来事ですからラバンの息子たちは不正と受け取ったのでしょう。しかしこれこそが神のなさったことであったのです。つまりヤコブをもといた故郷に戻すための準備をなし、そのための蓄えと、それ以降の生活のための備えをさせていたのです。
 今日の箇所で最も印象深い言葉は「私はあなたと共にいる」という言葉と、そして2節と5節にある「あなたたちのお父さんは、私に対して以前とは態度が変わった」という言葉であります。ヤコブはラバ
ンを主人としてこの20年間働き続けてきました。しかしいざとなるとラバンは、自分の私利私欲のために条件を変え、何とか自分の私服を肥やし、一生懸命働いたヤコブのためには何もしませんでした。最終的な暖簾分けの時でさえも裏工作をして、実の息子たちにあらかじめ財産分与をし、財産の流出を押さえようと躍起になったのです。その条件は自分の有利なように、10回も変え続けたのです。自らの利益のためにコロコロと蝙蝠のように条件を変え続けるラバンの姿(人間の姿)をここに見ます。聖書は、は「あなたたちのお父さんは私に対して態度が変わった」という言葉に示されるように、これこそが「人間の主人である」と言っているのです。
 しかし神は如何なる方であり給うのか。神は我らと共にいまし、今いまし、昔いまし、永遠に居まし給う方。「草は枯れ、花は散る、しかし私たちの神の言葉は永遠に変わることがない」と言われた、変わらぬ真実と真理をお持ちの主人。この方こそが「我々の神である」と聖書は言うのです。
 そして今や、ヤコブは20年もの逃れの生活終止符を打ち、故郷に戻る事を決意するのです。それは「父と母の待つ場所」を意味しません。母はもうおらず、衰えた父と、自分を憎む兄の待つ困難な場所。諍いを投げ出して逃げてきたあの場所、一度時間の止まったあの場所に、和解と悔い改めを求めて、もう一度戻る事を決意するのです。これまでの経験と導きが、ヤコブをどのように変えたのか。果たしてエサウの怒りと憎しみはどのように変えられたのか。もしくは変わっていないのか。その場所に向けて、決して容易ではない場所に向けて歩みだすのであります。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記27章46節-28章22節 2011年1月13日

 創世記27章46節-28章22節 2011年1月13日
 41節~45節の内容によって、エサウの怒りの様子が分かります。45節’「1日のうちにお前たち二人を失うなどどうしてできましょう」とは、殺された者は当然のこととして、殺した者が死罪にあたる、という当時の風習に習っています。
 そのためリベカは、ヤコブを守るために、46節のようにイサクに言って、ヤコブを逃亡させる口実を作ります。あるいは、26章34節-35節にあるように、本当にリベカはエサウの妻のことで、嫌な思いをしていたのかもしれません。いずれにしても、このような逃亡が成立するということは、神様の計らい、ということになるのかもしれません。
 聖書はエサウが選んだ事柄が、すべて軽率であったことを暗に示しております。つまり祝福を弟にレンズマメの煮物で譲ってしまったことも、異教の女性を結婚相手としてさっさと決めてしまったことも、それはエサウの軽率な行動が招いた間違いである、という意味であるのでしょう。
 28章に入り、イサクはヤコブを呼び寄せて、結婚相手をカナンの地で見つけてはならない、ということを伝えます。そしてパダン・アラムに住んでいる、べトエル(リベカの父)のところに行き、その息子ラバン(リベカの兄)の娘の中から結婚相手を探しなさい、ということを命じたわけです。
 そしてヤコブは旅立に出るわけです。これによってエサウの怒りの手から免れることができ、またヤコブの人生は、新しい局面に向かって進んでいくことになります。
 しかしここで面白いのは、エサウのとった6節以下の行為であります。つまり、イサクがヤコブに対して命じたことに関して、エサウはそれを気にしているということです。8節「エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかに、もう一人、アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹にあたるマハラトを妻とした」とあります。大した意味を持たずに書かれたのであろうと思いますが、しかしこのようにしてまで父ヤコブの意向に沿って生きようとするエサウの姿を見ますとき、何とも言えない健気さを感じてしまいます。
 これに対して小泉達人氏は、次のように言います。「いかにも単純率直で、物事を簡単に考えるエサウらしい対応です~しかしこれに対して聖書は厳しいのです。~何とか父親の好意を得ようとする~いじらしい努力に対して、聖書は一顧も与えようとしません。むしろいまさら無駄なことを、という嘲笑しているかのようです。~(それは)聖書は~神の恵みに対する軽率さに我慢ならないのです。~エサウは神の恵みを、バーゲンセールの買い物のように簡単に考えています。(それに対して)聖書は批判を止めません」(「創世記講解説教」224ページ抜粋)
 このように厳しい論調で語っています。
 しかし私は、そう簡単にこのエサウの好意を簡単に批判してよいものかと感じます。
 エサウは、ヤコブに対しては怒りと憎しみに駆られて殺そうとまでしていたわけですが、しかし一方で彼は、自分の人生を悔いて、新しい命に向かって歩み始めていた、ということがここで言われているのだと思うのです。そもそも人間とは、決して罪を犯さない者ではなく、罪を犯した後に、どうそれを悔い改め自分を見つめ直して、如何に再出発することが出来るか、ということにかかってくるのではないかと思うのです。
 間違いは犯す。しかしやり直せない人生はない。軽率な行動によって、祝福が自分の手からすり抜けて行ってしまった。しかしそれですべてが終わったわけではない。もう一度再スタートを切ることが出来るのだ。そう聖書は言っているように思います。
 さて、ヤコブは、ラバンのところに向かう道の途中にあったわけですが、この旅の途中で夜を明かします。「石を枕に夢を見る」というのは、大変印象的な一場面であります。多くの画家がこの場面を描いています。ここでヤコブが見た夢は、ヤコブの祈りが天に届いていることを示しています。彼はこのとき、孤独でした。ベエル・シェバからハランまでの道のりは、直線距離にして750キロもありました。東京から下関までの長距離です。もちろん徒歩であったでしょう。しかも彼は全てに別れを告げて、いま孤独の中を歩んでいるのです。
 何度もご紹介していますが、日曜学校誌にはこの時のヤコブの心がうまく表現されています。低学年用の説教例です。
「~この時のヤコブさんの心の中は、寂しさや、悲しみでいっぱいでした。お父さんとお兄さんを騙してしまってごめんなさい、という思い、やさしいお母さんに会えない寂しさ、自分はこれからどうなるんだろう、というふあんなで思い出、泣きそうになっていたのです。そうこうしているうちに日が暮れてしまい~ました。旅館もホテルもありませんから野宿です。寒かったことでしょう。」
 このように書かれています。また、小泉達人さんは、次のように語ります。
「これは恐らく、ヤコブノ祈りの象徴でしょう。天地にただ一人、孤独と不安の中で、生まれて初めて真剣に神に祈ったヤコブ。その祈りが神に達し、また神のかえりみがヤコブに届くことを、天に届く階段と、それを上り下りする天使の姿でイメージしています。祈りの象徴として、これほど深く、これほど美しく、またこれほど壮大な象徴はないと思います。」
 このように語られているとおり、ヤコブの祈りは聞き上げられ、彼に一つの約束の言葉が与えられます。13節~15節の言葉です。特に15節には、「見よ。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」
 このように、神はヤコブに語りかけます。逆境と孤独の只中で神と出会う様子が示されています。これは私たちに与えられた祝福の言葉であります。私たちの人生においても、まことの神と出会うのは、幸せの真っ只中ではなく、むしろ逆境であり、困難であるときの方が多くあります。順境のとき、私たちは、自分の力と知恵とを信じ、それが自分を立たせる最善の力であると、自信にみなぎります。しかしそのようなとき、神は私たちの前にその存在を現されることはありません。し
かし、挫折と痛みと、弱さの中で、自らの力を過信していた自分に気づいたとき、初めて神さまは、私たちと出会ってくださるのです。
 そこには真剣な祈りがあります。「わたしはあなたと共にいる」とお語りになる「インマヌエルの神」は、まさに私たちと共にいまし給う方でおられます。この世と共におられ、私たちの弱さと、また強さの裏にある傲慢と共にいて下さいます。
 ヤコブは神の祝福を兄弟エサウから奪い取りました。それは彼と彼の参謀であり助言者であった母リベカの知恵と力の為した成果であったと言えるかもしれません。けれども彼が本当の意味で祝福を受けるのは、自分への過信を通り超え、肉親である兄からの殺意から逃げ、親からも離れ、初めての場所に行く、不安の只中にいることそれ自体が、神の祝福の場面であったのです。
 アブラハムとイサクの神が、自分の神であることが宣言された。それは、帰る場所が定められた、ということに他なりません。今ヤコブは、行き場を失っています。ハランに行く道すがらですが、しかしそれは一過性の、一時しのぎ的なものであることは、ヤコブの目にも明らかです。それが彼の不安となっていたのです。帰る場所がない。それはあの放蕩息子が、どこにも帰る場所を持たなくて、町中を一文無しでウロウロしているあの孤独にも似ています。自分の撒いた種であることは分かっていても、帰る場所を、つまり希望を喪失していたのです。
 しかし今やアブラハム、イサクの神が、私の神であることが明らかとなった。喪失と失望が、希望と歓喜へと変えられた。それが神との出会いに示されているのであります。
渡辺信夫著「イサクの神、ヤコブの神」では次のように語られます。
「ヤコブに与えられたのは、単に神が共にいます、という安らかさや気強さではありません。将来が与えられ、したがって希望が与えられたということであります。ですから、ヤコブはどんな所へ行っても大丈夫だという自信ではなく、将来があるという希望を持ちました。この地を離れて去って行くのではなく、また帰って来る将来が希望によって見えて来たのです」(同書101ページ)
 私たちの希望はここにあります。いつでも主のもとに帰ってくる安心。いつでも主の下に帰ってきても良い、と許可されている確信。それが私たちへの祝福なのであります。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記26章1節-35節

 創世記26章1節-35節 2010年12月16日
 ここでは、既に見られた物語がもう一度出てきます。「自分の妻を妹であると偽る話」は、12章と20章にありました。そして26章では、20章のそれと同じように、アビメレクの名前やゲラルという地名においても重複する内容と言えると思います。多くの旧約学者は20章と26章は同じ文献の枝分かれしたものとして考えられる、と言います。しかも20章が先にあるのではなく、26章がオリジナルで20章はそこから出来た、と言います。
 しかしだからと言って、この26章が無意味な重複文章であると言って片付けることは出来ません。むしろ、わざわざ同じ物語をもう一度使っていることの中に、著者の意図を読むことが出来ると思います。
ここで語られている「イサク」という人物は、皆さんにはどのようなイメージで映るでしょうか。そもそも私たちは「族長物語」として12章のアブラハムの旅立ちから、創世記を読み進めていますけれども、アブラハム、イサク、ヤコブと続きますが、中でも一番影の薄い人物がこのイサクであると言ってよいと思います。先週の箇所25章に関しても、イサク物語でありながら、内容を占めていたのは、ヤコブとエサウのやり取りでありました。イサクは脇役に過ぎません。

 しかしこのようなイサクですけれども、多くの聖書学者や、注解者たちは「平和の人イサク」と彼をそう呼ぶのです。確かに事を荒立てないところなどを見ると、彼の平和主義的な性格を読み取ることが出来ると思います。
 この箇所で、イサクは一切逆らっていません。神に対しても、アビメレクに対しても、彼の人生に対しても、全く逆らわずに、神の命ずるままに生きているのです。それが彼を平和の人、と言わせるゆえんであるのかもしれません。
 しかし見方を変えてみると、イサクは優しい平和主義者であると同時に、非常に頼りない人物であると言うこともできます。たとえば、井戸の話なんかはそれが強調されます。中東という場所は、ご承知の通り水が命です。しかしイサクたちは15節以下にあるように、ペリシテ人たちの妨害を受けて、アブラハムから受け継いだ井戸を悉く塞がれてしまいます。しかしイサクは一切憤慨することなく、淡々としています。そしてペリシテの王アビメレクから「どうか、ここから出て行っていただきたい」と、追放勧告を受けるわけです。それに対して17節で、また淡々と「イサクはそこを去って~」と、何事もなかったかのように、アビメレクに従います。
 そして移動した場所で、もう一度井戸を掘って水が豊かに出始めると、またゲラル(ペリシテ)の羊飼いから妨害を受けて、井戸を占領されてしまいます。聖書には、その井戸を「エセク」とか「シトナ」と名づけた、とだけ書かれていますが、つまりその井戸は奪い取られたということを意味します。しかし最終的に「レホボト」という井戸が掘られてから、妨害されることなく、ようやく自分の水を確保することが出来るわけです。この間、イサクは一切怒りませんでした。これは大変に穏やかな人である、という評価と共に、イサクの家の人たちからすれば「何と頼りない主人だろう」という思いをもたれても仕方ないようにも感じます。水の確保は生きるか死ぬかの生死の分かれ目ですから、それをいとも簡単に奪い取られて「取られたから次の井戸を掘りましょう」と言うことでは、あまりにも頼りなさ過ぎです。
 さらにイサクの頼りなさは続きます。26節以下の、アビメレクとの条約の締結であります。ここではアビメレクが突然イサクのところにやってきて「主があなた共におられることが良くわかったので、あなた方とお互いの不可侵条約を結びましょう」という、自分勝手な条約締結を要求したわけです。しかも29節でアビメレクは「以前我々は、あなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました」と言っています。普通ならばこんな勝手な話はないと思います。イサクを妬んだペリシテ人たちが、主の祝福を受けているイサクに嫉妬して「ここから出て行ってくれ」と言ったのに、29節では「あなたがたには迷惑をかけていません」と言ってのけるわけです。
 普通なら「とっとと帰ってくれ」と、そんな条約を結ぶはずもないと思いますが、イサクは違います。これまでのケジメをつけることなく、あっさりと友好条約を結んで、一緒に食事をして、帰らせてしますのです。こんな頼りない主人はいません。こんな上司、こんな夫についていく、とするなら、少々戸惑ってしまうかもしれません。
 けれども、この人の良さと穏やかさをもっても、イサクは約束が成就されていくのです。それが26章全体を通して書かれている内容であります。26節以下のアビメレクの提案は、なんとも図々しく、自分たちが優位に立っている、という前提で提案されております。しかしイサクは徹底して争わず、従っています。穏やかであると同時に頼りない。あまり物事を考えているとは言い難い。それがイサクです。しかし聖書は「これもまた信仰者である」と言うのです。それがここに書かれている重要なメッセージであるのです。
 私たちはこれまでアブラハムの信仰についてみてまいりました。そして今後ヤコブとヨセフについても見ていきます。それらの族長たちと比べると、没個性であり、力がなく、弱々しく、しかし徹底した平和主義者であり、悪く言えばあまり深く考えていないこの人物。これが神に守られ、祝福された信仰者の一つの姿であると聖書は言うのです。
 今日の箇所26章全体を貫いて語られていることがあります。それが「神の祝福」であります。2節で飢饉が起こったとき、イサクは「そこに留まるように」と主に命ぜられ、「祝福を得る」と約束されます。12節以下では、イサクがそこの土地に種を蒔くと100倍の収穫を得、主の祝福を受けた、と書かれています。井戸を掘ったときも、何度も奪われながらも、イサクは豊かな水を掘り当て続けます。これもまた主の祝福の徴です。24節でも、29節でも「祝福されている」という言葉がイサクに告げられます。つまりこの26章は、神の祝福を受けた者は、どう生きるのか、について示しているとも言えるのです。神の祝福とは、人間の判断を超えたところに生きるということを意味します。飢饉が起きたとき、人間の考え
では、肥沃な土地エジプトに行くことが最善であります。しかし主はそこに留まりなさいと命ぜられ、それを守ります。それが祝福を確保するのです。井戸を取られたとき、人間の考えでは、戦うことが最善であるように感じます。武力でなくとも何とか交渉してその場所の権利を奪い返すのです。それが自分の命の担保となるからです。しかしイサクは、神が必ず井戸を掘り当てさせてくださる、という確信を持つゆえに、奪われたままにされ、もう一度掘り続けます。そしてそれによって神の祝福は確保されるのです。アビメレクの横暴な条約締結の申し出に対して、人間の考えでは断ります。それが過去の苦しみを受けてきた事への報復であると感じるからです。しかしイサクはその横暴さを意に介さず、あっさりと締結します。これが神の祝福を確保するのです。
 このように、神の祝福を受けて生きる者は、人間の考えによってのみ生きるのではなく、神に身を任せて生きること、神のなさることに逆らわずに生きることの中に、自分の人生を重ね合わせて生き得る者となるのです。
 身を任せるとは、努力をしないこととは違います。人間の意志や努力を越える神の意図を汲み取り、それに身を従わせることであります。
 「こんな主のはしためから神の御子が生まれるなんて信じられません」と言っていたマリアは神に身を任せました。不貞の罪によって律法に違反したという疑いを払拭しきれないヨセフは、神の御言葉に身を委ねました。ヘロデの横暴により2歳以下の幼子が惨殺されたとき、二人はエジプトに下ることに身を委ねました。それは神の祝福だったのです。
 イサクは確かに頼りない人物として映ります。アブラハムの冒険する心や信頼する強い心、ヨセフの向上心や、何としてでも奪ってやろうという野心は、イサクにありません。しかしこのような没個性的で地味で、目立たない彼もまた、アブラハムやヤコブと同じく神に祝福された一人の信仰者であるのです。
 私たちには、それぞれの生き方があり、それぞれの性格があります。個性的な人も、そうでない地味な人もいます。教会の中でも、目立つ人もいれば、そうでない人もいます。けれども重要なことは、どれだけ目立つかではなく、どれだけ主を信頼し、主の祝福の中に自分の身を投じて生き続けることが出来るのか、ではないでしょうか。
 イサクは人柄も良く、確かに平和主義者です。しかし彼が神の祝福を受けたのは、そのようなパーソナリティによってではありません。むしろどのようなパーソナリティであっても、神は選びの民を選び、自らの祝福の中に、一方的に入れてくださる方なのです。その祝福に自分もまた入れられている、ということを自覚してどのように生きるのか。そのことが重要なのであります。このような私でも、ということはありません。そのようなあなたこそが、神の祝福を受けるべき信仰者なのです。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記25章19節-34節 2010年12月9日

 創世記25章19節-34節  2010年12月9日
 アブラハムの子イサクがリベカと結婚したことは、24章の出来事によって伝えられております。彼らが結婚したのが40歳のころであったと報告されます。しかし彼らには子ができなかったのでありました。アブラハムたちも同じように子ができないことで悩みの日々を過ごしてきたのですが、イサクたちも同じでありました。
 そこでイサクは祈りました。ここで注目したいのは「妻に子どもが出来なかったので、妻のために主に祈った」、つまり「妻のために」祈ったということです。ここにはおそらく、子ができないということによって、周囲からの目や、彼女自身悩みと苦しみを背負ってきたことが伺えます。子が出来ないから、単に子を授けてください、という単純な祈りではなく、このように苦しむ妻への慰めと平安を与えてください、という祈りではなかったかと思うのです。そしてこの祈りは主に聞き入れられるわけです。
 少し飛んで26節を見てみますと、彼らに子どもが生まれたのは、イサク60歳のときであった、と書かれています。つまり彼ら夫婦は20年間も主の約束を待ち続けていたことになります。父アブラハムが75歳の時から100歳まで、25年間待ち続けていたのと、殆ど変わりのないほど、長い間彼らは待ち続けてきたのです。
 
 さて、この祈りは聞き届けられましたが、お腹の子達は双子であることが分かります。お腹の子たちが押し合うので、リベカは「これでは私はどうなるのでしょう」と言った、と記されております。この言葉には、今後の兄弟の争いが示唆されています。ここには、今後のヤコブの人生が示されていると言えるでしょう。ヤコブは争いの人生でありました。今日の箇所のように、兄弟エサウとの争いがあり、また彼の妻たちの争いがあり、そこ妻たちのそれぞれの子どもたちが揉めて争いが起こります。ヤコブの争いと諍いの人生を象徴するかのような「これでは、私はどうなるのでしょう」というリベカの悩みの言葉ではないかと思います。
 彼女は「主の御心を尋ねるために出かけた」とありますが、どこに出かけたのでしょうか。場所が明記されていません。イサクが住んでいるとされている「ベエル・ラハイ、ロイ」なのか「マクペラの洞穴」近くの先祖の墓の前か、それは分かりませんけれども、彼女は彼女自身の思いを主に打ち明けるための静かな時を持ったということでありましょう。これは密室の祈りであった、私たちにはとても必要なことであります。自分の思いを確かめるために、主に問い続ける姿勢は、私たちの信仰を吟味し、また客観性をもたらします。独りよがりに、主観的に、自分の思いの中に閉じこもるのではなく、私は何者なのでしょう、と問い続けて祈ることこそが、神からの答えを聞く最良の時間なのではないでしょうか。
 そして、リベカの双子の子は、「エサウ」と「ヤコブ」であったことが24節以下に記されます。兄エサウの踵をつかんでいた「アケブ」ので、「ヤコブ」と名づけられたと言います。
 さて、この双子は大きく成長し「エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕の周りで働くのを常とした」と書かれております。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した、と言われていますが、これは親の偏愛であり、ここからリベカの入れ知恵などが後の問題になってきます。しかしイサクがエサウを愛した理由が、その獲物が好物であったから、というのは、あまり説得力がありませんが、とにかくイサクは狩をして好戦的で男らしく力強いエサウを愛した、ということなのでしょう。
 それに対して、ヤコブは「穏やかな人」という書き方がされています。ですから読者は、この対照的な二人に対して、自分の好みこそあったとしても、それほどの違和感もなく、この聖書の文言を受け入れることが出来るのではないか、そのような書かれ方であるように感じます。
 しかし、このヤコブ物語を読み解くとき、彼らがどのような人であったかが大変重要になってくると思います。
 この箇所を解釈した色々な読み物を見てみると、どうしてもヤコブの人格を正統的に扱うものが多いように感じます。イスラエルの父祖となったヤコブは、神様の約束を受け継ぐ正統者として考えられ、イサクからの家督を軽んじたエサウは、神の祝福をも軽んじる者として悪者的に描かれることが多いのです。
 けれども、色々な本の中で彼らは次のように紹介されます。
「エサウは山野を駆け巡る勇敢な狩猟者に成長しました。イサクは、この頼もしい長男に望みをかけていました。」(林嗣夫著「青少年のための聖書の学び『創世記』」p155)
「~しかしヤコブの欠点が、彼の徳と共に語られている。彼は若くして詐欺の共謀者であり、嘘つきでもあった。後半生においても、神との不思議な出会いを通して性格を変えられ、名前もそれに合わせて改められたが、そこでも彼は模範的とは言えない。彼は子育てでも良い親とは言えず、特定の子を贔屓にして、兄弟間に反目と殺意を含んだ争いを引き起こした。聖書がこの人物をイスラエルの始祖としてこのように描くのは驚くべきことである。」(ジョン・ボウカー著「聖書百科全書」p41)
「やがて兄弟は大きくなりました。お兄さんのエサウさんはスポーツマンタイプで、野山を駆け巡って狩をするのが大好きでした。これに対し、弟のヤコブさんは穏やかな人で、狩のような荒々しいことは好きではなく、羊飼いとなり、天幕のまわりで働いていました」
(井上豊著「日曜学校誌『低学年用、説教2』」2010年夏号 p44)
「~先生はだんぜんエサウさんの方が好きです。エサウさんは男らしく、かっこいいからです。こんなお兄さんがいたら良いなあと思います。それに引き換えヤコブさんときたら、あまりぱっとしない人で、いい年してお母さんにべったり、先生はこんな人は好きではありませんでした。ところが聖書は、ヤコブさんの方が良い、エサウさんはだめだ、と書いているのです。・・いったいなぜなのでしょう。」
(井上豊著「日曜学校誌『低学年用、説教2』」2010年夏号 p47)
 このように見てみますと、エサウに肩入れする人も多くおります。いやむしろ、殆どの解釈者たちがヤコブより、エサウを推しているのです。けれども聖書はヤコブを取っ
ている、ということが今日の箇所での驚きに繋がってくるのだと思います。
 ここで聖書が問題にするのは、「家督相続」という一点のみにある、ということです。確かに、ヤコブの取引は明らかに不当なものです。人の弱み、しかも腹ペコの空腹時という、尋常ではない人間の心理状態に付け込んだ、不法な行為であると思います。しかも「今すぐ誓え」と迫っているわけですから、詐欺的でさえあると言っても過言ではありません。不快極まる行為、赦せない行為、と言えるでしょう。
 聖書は、人間の公平さ、親切な思い、人への思いやり、好意、などを大切にします。ですからヤコブのこうした行為は当然批判されるべき対象なのですが、聖書はこれに目をつぶり、お人よしで軽率なエサウを厳しく責め立てます。つまり聖書が問題にしているのは、人間的な事柄ではなく「長子の権利を軽んじた」(34節)ということ一点への批判であるということです。今後の兄弟間の争いの争点は最後までこの論理で進みます。当時、家督相続、長子の権利というのは、長子の重大な権利であると共に、大切な義務でもありました。また神の祝福でもありました。エサウが長子の権利を受け継ぐことは、アブラハム、イサク、エサウ、と続く筈の、神からの祝福を受け継ぎ、神の使命を存続させることでありました。けれども、エサウはそれを一時の感情と軽率さによって、捨ててしまうのです。それは神の祝福を捨てることになります。
 それに対してヤコブは、いざという時、確かにそれは不当な方法ではありましたし、それは決して赦されうる行為であると言えませんが、渾身の力をもって、小さな知恵を絞って、神の祝福を受け取ろうとしているのです。やり方が詐欺的でありましたから、詐欺行為が赦される、という短絡的な解釈をしてはなりませんが、しかし神の祝福を何とかして受け取ろうという彼の思い、つまり神の祝福を重んじようとしていることだけは伝わってきます。神はそこを見ておられるということです。
 エサウはレンズ豆の煮物に目がくらみました。なぜそんなもので家督を捨ててしまうのか、と私たちは思ってしまいます。けれども良く考えてみてください。レンズ豆に象徴されているものは何でしょうか。
 日ごとの糧であり、命を繋ぐ必要なもの、であると同時に「もっと沢山あればさらに嬉しい物」であり、「それ以上の蓄えを欲したくなる欲求物」であり、「必要最小限の確保に留まることなく、飽き足りることなく奪い合ってしまう財産ともなり得るもの」であるのです。それは究極的に、財産や、土地や、金銭などと同じく、人間の欲を満たすものと神の祝福を天秤に掛け、結果として何を手に入れたか、ということが、ここでの問題となっているのであります。
 神の祝福を二の次にして、それ以上のものを欲することは、主イエスの言葉「二人の主人に仕えることは出来ない」と響き合います。聖書は、何よりもまず決定的なものとして、神の祝福を求めなさい、と語るのです。
 人間は欠点だらけです。弱くみすぼらしく、嘘つきです。しかし神の祝福を第一に求めることの一点において、神はエサウではなく、ヤコブを受け入れているのです。
 先ほどの日曜学校誌の最後の言葉ではこう結ばれております。「エサウさんは男らしく、かっこいい人でしたが、神の祝福を受け取ることが出来ませんでした。ヤコブさんの方が一枚上手だったのです。エサウさんには何が足りなかったと思いますか?ヤコブさんの持っていた、どんなことをしてでも神様の祝福を受け取ろうという強い気持ちがなかったのです」
そして、ジョン・ボウカーは次のように結びます。
「神が弱い者を用いても善を行なうことが出来ることを教える。神と人間との出会いにおいては、理解に戸惑うような逆説が多く生じることを、この物語は明らかにしている」
(ジョン・ボウカー著「聖書百科全書」p41)

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記17章1節-27節

創世記17章1節-27節 2010年9月2日
 16章ではハガルの逃亡と神の祝福について学びました。私たちはアブラハムの一族が、このとき様々な不信仰という試練と、また一族内の諍い(サラとハガルの諍い)を神様によってを乗り越えることが出来、さらにイシュマエルという息子を得るまでに至ったことを前回みてまいりました 。
 その後すぐにアブラハムたちは神の約束を聞いたのでしょうか。16章の次は17章になっておりますから、その後すぐに聞いたように感じるかもしれません。しかし今日の初めの言葉は「アブラムが99歳になったとき」であります。つまり16章16節にある86歳であった、ところから、99歳に、つまり13年間も飛んでしまっているのです。ある注解者は、この箇所に対して、13年間変化がなかったことは、信仰の停滞である、と言いました。イシュマエルは順調に育ち13歳になりました。諍いをおこしたサラとハガルも問題なく同居し、それにアブラハムは満足していたのではないでしょうか。しかしそのような安泰で幸福のときは、時として信仰は停滞するのであります。この生活に満足し、神なしで生きていけるような錯覚に陥ってしまう安定期は、むしろ信仰が研ぎ澄まされない時期であるのです。そのため聖書は、彼らの13年間を無視します。その安定した―ともすれば神なしでも安定しているような錯覚に陥るこの13年間を―まったく問題にしないのであります。
 今日の箇所は13年後、アブラハムが99歳を迎えたその時、突如として神の約束が与えられるのであります。神の御言葉を聞いたのが75歳のときであり、そののち神の約束の言葉を何度も聞きながら、なかなか実現せずに24年間が経ちましたが、その間彼は、徐々に信仰者として深められてきたのでしょう。様々な挫折や罪を経て、自分が尚も生かされていることを実感した彼を見て、私たちは励まされる思いが致します。それは年を取って、全てにおいてきたとは言え、しかし100歳になろうとしている老齢者が、日々神への確信を強められ、高められていることは、私たちを顧みましても、それは恵みとなるのではないでしょうか。体力も健康も衰えるのに、信仰は遅々としてではありますが、高められ、深められていくのです。物忘れが激しく、自分の頭の中から神の存在が薄らいでいくように感じても、決して神があなたから離れることはなく、むしろあなたの中でさらに信仰は盛んになっていくのだ、というメッセージを聞き取りたいのです。
 さて、ここで与えられたものは、神の契約でありました。15節で結ばれた契約をもう一度更新されたということでしょうけれども、しかしここで特徴的なのは、割礼であります。そのことは後ほど見て行きたいと思います。
 神との契約更新に際して彼は、アブラムからアブラハムへと名前の変更を求められます。この意味の違いははっきりとは分かっていないというのが正直なところでありますが、一般的には、アブラムは「高き父」もしくは「私の父は高められる」という意味であり、アブラハムは「多くの者の父」という意味であると言われます。
 そしてサライと呼ばれていた彼女はサラに変更するよう命じられます。これも蓋然性に乏しいのでありますが、サライは「あざ笑いのまと」という意味であり、サラは「王女」であると言われます。この時アブラハムは100歳、サラ90歳と言われています(17節)。しかしこの時からアブラハムとサラは、神の新たな人生を与えられたということであります。
 さて、アブラハムは神の御前にひれ伏しながらも「『しかし笑って』ひそかに言った~」とあります。また「どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように」と神に言ったとありますが、この「アブラハムの笑い」と「イシュマエルへの生き永らえへの言葉」が何を意味するものであるかが重要なポイントとなりましょう。
 渡辺信夫牧師の著書「アブラハムの神」136ページ以下にはこのように書かれております。
「このない老人夫婦が一新に願をかけて子を授けられる、というおとぎ話を私たちは沢山知っています。アブラハムの場合はそれの同類ではありません。彼は理性的な人間であったようです。一念を込めて祈り通せば何でもできる、というような狂信は彼に見られません。すでにイシュマエルが与えられているのだから、それ以上に恵みをむさぼらなくてよいではないか。既に無形の恵みを数多く受けているのだから、有形のものはなくても満足すべきではないか」と、この老夫婦は慎ましく語り合っていたのでありましょう。だがその敬虔な慎ましさは、自分たちの能力についての諦めと結びついております。願ったところで起こりえないのだから、あるがままの恵みで満足し、それを恵みとして精神的に解釈して行こうとしていた~のでした。」
 「~~(138ページ)彼の笑いは、神を恐れない嘲笑ではなく、知恵の浅い者の単純な喜悦でもなく、神の約束を正面から受けず、斜めにかわし、これを神のユーモアとして受け流すものなのです。厳粛なことを厳粛に受け止めないでおこうとするのです。そして話題を変えて、どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように、と願うのであります。すなわち「主なる神よ、あなたの大いなる恵みはわたしども夫婦に十分良く分かっております。イシュマエルをサラの養子にすることが出来ただけで私どもは満足し、感謝しております。イシュマエルが祝福のうちに命ながらえさえすれば、あなたのお約束は十分に実現するのであります。100歳の夫と、90歳の妻に子供が出来るというユーモアは、お志だけで十分感謝でございます。」という意味になるでありましょうか。主の御言葉を文字通り受け取って、約束がその通り実現するのを待つならば、躓きになるに違いないと考え、躓きにならないように上手に解釈しようとしたのであります。」
 「私たちにもそのような解釈が必要な場合があります。というのは、人間の文字の表現は不完全なもので、その不完全さから神の御言葉を自由にする処置は必要だからです。けれども御言葉と正面から取り組むことを避け、それに「然り」とも「否」とも言わなくてすむようにすることは、御言葉の正しい解釈ではありえないでしょう。すなわち、御言葉は私たちは立たせるか、躓かせるか、どちらか一方の事しかしないという性格を持って迫って来るものだからです」
 このように言われておりま
した。洞察力に富んだ読み方であろうと思います。
 さらに言いますと、この「イシュマエルが御前に生きながらえますように」の言葉は、人間の可視的な性格が示されております。それは「割礼」の必要性を促すものであります。割礼というのは、それを受ければ救われるというものではなく、一つの神の選びの(救いの)「しるし」として与えられるものであります。しるしが必要か否かは聖書全体を通して議論されるところでありますが、しかし人間は、それを見なければ救いを確認することが出来ないほどギリギリのところで信仰が試されることがあると思います。そのとき自らに刻まれた割礼の事実を神の救いのしるしとして実感するとき、自らを支える可視的な救いの確証となるのだと思うのです。翻って考えると、私たちが洗礼を受けたという事実(しるし)において、今にも倒れそうなときに救いの確信を持ち続けることがあると思うのです。私たちの弱さは、目に見えないと信じることが出来なくなるところまで弱まります。そのとき可視的な確証が信仰者を支える事があると思うのです。
 未だ見えないイサク誕生の約束を信じることが出来なかったアブラハムに対して割礼が与えられることは、見える息子イシュマエルの将来だけを考える彼に対して、最も適切な可視的な祝福のしるしとなったのであります。
 割礼というはそもそも古代エジプトで始まったものでありまして、主が異教の風習を取り入れたということであります。15章で私たちは契約を結ぶしるしとして獣を真っ二つに裂いてその間を通り抜ける方法を採用したことを見てきましたが、それも異教の古い儀式を用いての締結でありました。つまり我々人間の側が最も分かり易い形でそれを可視的なものとして見せるために、主は自らを低め給うてそうなさったのでありましょう。
 また割礼に関して言うならば、普通家督を継ぐことや、土地や財産の相続をするとき、その人の子である(子孫である)ことによって無条件に相続が出来るものでありますが、しかし信仰においては全くそれと異なっております。14節には、「無割礼の者の裁き」が記されていますけれども、それは全員が個人個人が神と向かい合うことを示しているのであります。つまり聖書の信仰は世襲ではなく、神との関係は一代ごとに新たに更新されるべきものであることを示しているのです。
 また、割礼を受けるものは、社会的な地位や名誉を受けたものではなく、12節「直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆」割礼を受けねばならないと命じられ、結果的に26節以下「アブラハムと息子のイシュマエルは、すぐその日に割礼を受けた。アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷もみな、共に割礼を受けた」、言われていることは、注目に値いたします。それは神が全ての命に対して目を留められているということだからです。当時、奴隷に人格はなく、命も軽んじられ、所有物として扱われていた彼らでありますが、ここでは神の御前に主人と同等な位置にあることが言われているのです。99歳の主人も、その家督を継ぐことになるはずの13歳のイシュマエルも、使用人とされてきた奴隷も、全ての命ある者が平等に扱われ、神の御前に深くひれ伏すことを求めることの中に、神の思いの深さを感じるものであります。
 またそのことは、アブラハムの信仰とその継承が、血縁の中で受け継がれ守られていくもの(血縁共同体)ではなく、神の恵みによって結ばれた信仰共同体(礼拝共同体)であることが示されています。アブラハムの子孫だけが主の救いを受けるのではなく、主の約束を受けた者が救いに入れられるのです。主の救いとは、決して選民的で独善的な、救われる人が決まっている救いなのではなく、全世界的に広がる主の賜物なのであります。
 ここに集う私たちもまた、血縁ではなく、信仰共同体として益々強められ、お互いに高められる教会員として生きることが求められているのではないでしょうか。99歳のアブラハムも13歳のイシュマエルも、90歳のサラも、男女の奴隷も、年齢も性別も、環境も違う全ての者が、同じ条件で主の救いを与えられる、その神の下で私たちは憩うのであります。