2023.11.26 の週報掲載の説教
<2023年9月17日説教から>
『今や、救いは近づいている』
ローマの信徒への手紙13章11節~14節
牧 師 鈴木美津子
私たちが生きている今は、どのような時なのか?ひと言で言えば、「終わりの時」である。私たちは「終わりの時、時代」を生きている。なぜ、私たちは終わりの時代に生きていると言えるのか?それは、主イエスによって、神の国が既に到来したからである。主は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた(マルコ1:15)。それゆえ、私たちが生きている今の時代は、終わりの時代であると言えるのである。その一方で、私たちが生きている時代は、主イエスが天から来られるのを待ち望む時代であるとも言える。なぜなら、主イエスが再び来られることによって、神の国は完成され、私たちは完全な救いにあずかることができるからである。
「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている(11b)」という言葉によって、パウロが、主イエスがすぐにでも来られると考えていたことが分かる。救いが近づいている、それは主イエスが栄光の主として来られる日が近づいているということ。「私たちが信仰に入ったころ」とは、私たちがそれぞれに「イエスは主である」と公に言い表し、洗礼を受けた日のことである。
私たちは、この手紙が書かれてから2000年ほど経った時代に生きている。だから、私たちは、2000年たってもまだ「その日」が来ないのだから「主イエスが来られるのは、まだ先のことだ。自分が生きている間は来ないのではないか」と考えるかも知れない。確かに、その可能性はあるだろう。主イエスがいつ来られるかは、誰にも分からないからである。しかし、私たちは、主イエスが自分の生きている間に来られることを祈り、また期待すべきである。なぜなら「主イエスは、自分が生きている間に来ないのではないか」と考えるならば、私たちは眠り込んでしまうからである。そして、自分が主人であるかのように振る舞ってしまう。しかし、主イエスが来られることを祈りつつ、待ち望むならば、私たちは目を覚まして、賢い忠実な僕として歩むことができる。
私たちが救われたあの時から、神が、忍耐をもって裁きの日を引き延ばしておられる今日までの期間、そして、私たちが今生きている一瞬一瞬、その全てが、救いは近づいている、と謳われる恵みと憐れみの時である。私たちは自分の救いに関しては全く無力である。しかし、その私たちに、救いは近づいている、と御言葉は語る。この福音に目を覚まして、共に奮い立とうではないか。
2023.11.12 の週報掲載の説教
2023.11.12 の週報掲載の説教
<2023年9月3日の説教から>
『隣人を自分のように愛しなさい』
ローマの信徒への手紙13章8節~10節
牧 師 鈴木美津子
この「隣人」とは、一体誰であるのか?それは、私たちの助けを必要とする「すべての人」のことである。「人を愛する」こと、「隣人を愛する」こと、そのどちらも「すべての人を愛する」ことを意味している。また、この戒めは、自分を愛していることを前提としている。イエス様は、山上の説教の結論として、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である(マタイ7:12)」と言われた。キリスト者が行う具体的な愛の基準は、「キリスト者が自分を愛して、自分に悪を行わない。そうであるならば、キリスト者は隣人に対しても自分が人にしてほしくない悪を行わない方が良い。自分が人に同じことをされたら、どう思うであろうか」と、いうことである。
しかし、私たち人間にこの基準を満たすことはできない。なぜなら、私たちは必ずしも自分自身を愛しているとは言えないからである。却って、自分のことを憎んで、自分を破滅させるようなことを行ってしまうことさえある。
しかし、ここで言われている「愛」は、神の愛・アガペーである。私たちが本当の意味で自分を愛することできるのは、神が私たちのために、私たちを愛するが故に、ご自分の愛する御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡してくださったことを知ったことによってである。主イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださった。そのことによって、わたしたちは神から愛されていることを知って、その神の愛を聖霊において心に注がれ、私たちは自分を愛することができる者とされる。そして、その愛で、隣人を、そしてすべての人を愛することができる者とされる。その真の神の愛で、自分を愛し、隣人を愛して生きるとき、私たちは律法を全うしているのである。なぜなら、神の愛の掟は、神の愛でしか満たすことができないからである。神の掟である十戒は神に対する愛と、隣人に対する愛とに要約される。言いかえれば、律法を守るということは、愛を実践することであり、愛を伴わない律法の実践は無意味で空しいことなのである。
愛は律法を全うし、愛だけが神の御心を全うすることができるのである。
<2023年9月3日の説教から>
『隣人を自分のように愛しなさい』
ローマの信徒への手紙13章8節~10節
牧 師 鈴木美津子
この「隣人」とは、一体誰であるのか?それは、私たちの助けを必要とする「すべての人」のことである。「人を愛する」こと、「隣人を愛する」こと、そのどちらも「すべての人を愛する」ことを意味している。また、この戒めは、自分を愛していることを前提としている。イエス様は、山上の説教の結論として、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である(マタイ7:12)」と言われた。キリスト者が行う具体的な愛の基準は、「キリスト者が自分を愛して、自分に悪を行わない。そうであるならば、キリスト者は隣人に対しても自分が人にしてほしくない悪を行わない方が良い。自分が人に同じことをされたら、どう思うであろうか」と、いうことである。
しかし、私たち人間にこの基準を満たすことはできない。なぜなら、私たちは必ずしも自分自身を愛しているとは言えないからである。却って、自分のことを憎んで、自分を破滅させるようなことを行ってしまうことさえある。
しかし、ここで言われている「愛」は、神の愛・アガペーである。私たちが本当の意味で自分を愛することできるのは、神が私たちのために、私たちを愛するが故に、ご自分の愛する御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡してくださったことを知ったことによってである。主イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださった。そのことによって、わたしたちは神から愛されていることを知って、その神の愛を聖霊において心に注がれ、私たちは自分を愛することができる者とされる。そして、その愛で、隣人を、そしてすべての人を愛することができる者とされる。その真の神の愛で、自分を愛し、隣人を愛して生きるとき、私たちは律法を全うしているのである。なぜなら、神の愛の掟は、神の愛でしか満たすことができないからである。神の掟である十戒は神に対する愛と、隣人に対する愛とに要約される。言いかえれば、律法を守るということは、愛を実践することであり、愛を伴わない律法の実践は無意味で空しいことなのである。
愛は律法を全うし、愛だけが神の御心を全うすることができるのである。
2023.11.5 の週報掲載の説教
2023.11.5 の週報掲載の説教
<2023年8月27日の説教から>
ローマの信徒への手紙13章1-7節
『上に立つ権威』牧 師 鈴木美津子
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(1)」
「すべての魂、すべての人間は、上に立つ権威に従うべきである」とパウロは語っている。上に立つ権威に従うことにおいて、キリスト者も例外ではないということである。キリスト者は、主イエスを、キリスト、メシア、油を注がれた王と告白している。主イエスをキリストと告白することは、主イエスが油注がれた王であると告白することであるからだ。しかし、そのように告白するキリスト者であっても、上に立つ権威に従うべきであるとパウロは言うのである。
そこで彼は、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」であると語るのである。しかし、そのことを当の権威者たちが必ずしも知っているわけではない。当然、異教徒である権威者はそのことを知らない。それゆえ、権威者たちは、自分たちを絶対化して、思想・良心の自由を侵したり、あるいは自らの思想やイデオロギーを実現するために、税金を徴収したりすることがある。そのような時、キリスト者は、抗議の声を上げるべきである。さらに、キリスト者は、権威者が神の御心に逆らうことを命じる場合には、抵抗することを命じられている。使徒ペトロが使徒言行録5章29節で「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と、大胆に語ったように、キリスト者は人間よりも、神に従わなくてはならない。
パウロは、5節で、「良心のためにも、権威者に従うべき」であると語っているが、権威者が委ねられた権能を越えて、神のように振る舞うとき、キリスト者は良心のために、権威者に従ってはならない。また、権威者が神の掟に背くことを命じるとき、キリスト者は良心のために従ってはならない。なぜなら、キリスト者の良心の主はイエス・キリストの父なる神であるからだ。キリスト者は、権威者に無条件に従うことが求められているのではない。権威者が神によって立てられ、神に仕える者であるがゆえにキリスト者は、その権威に従うことが求められているのである。
<2023年8月27日の説教から>
ローマの信徒への手紙13章1-7節
『上に立つ権威』牧 師 鈴木美津子
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(1)」
「すべての魂、すべての人間は、上に立つ権威に従うべきである」とパウロは語っている。上に立つ権威に従うことにおいて、キリスト者も例外ではないということである。キリスト者は、主イエスを、キリスト、メシア、油を注がれた王と告白している。主イエスをキリストと告白することは、主イエスが油注がれた王であると告白することであるからだ。しかし、そのように告白するキリスト者であっても、上に立つ権威に従うべきであるとパウロは言うのである。
そこで彼は、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」であると語るのである。しかし、そのことを当の権威者たちが必ずしも知っているわけではない。当然、異教徒である権威者はそのことを知らない。それゆえ、権威者たちは、自分たちを絶対化して、思想・良心の自由を侵したり、あるいは自らの思想やイデオロギーを実現するために、税金を徴収したりすることがある。そのような時、キリスト者は、抗議の声を上げるべきである。さらに、キリスト者は、権威者が神の御心に逆らうことを命じる場合には、抵抗することを命じられている。使徒ペトロが使徒言行録5章29節で「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と、大胆に語ったように、キリスト者は人間よりも、神に従わなくてはならない。
パウロは、5節で、「良心のためにも、権威者に従うべき」であると語っているが、権威者が委ねられた権能を越えて、神のように振る舞うとき、キリスト者は良心のために、権威者に従ってはならない。また、権威者が神の掟に背くことを命じるとき、キリスト者は良心のために従ってはならない。なぜなら、キリスト者の良心の主はイエス・キリストの父なる神であるからだ。キリスト者は、権威者に無条件に従うことが求められているのではない。権威者が神によって立てられ、神に仕える者であるがゆえにキリスト者は、その権威に従うことが求められているのである。
2023.10.29 の週報掲載の説教
2023.10.29 の週報掲載の説教
<2023年8月20日の説教から>
『すべての人と平和に暮らしなさい』
ローマの信徒への手紙12章14節~21節
牧 師 鈴木美津子
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(14)」パウロは、「あなたがたを迫害する者」までも祝福を祈れと言う。なぜ、キリスト者は自分を迫害する者のために祝福を祈らねばならないのか。それは、私たちがかつて神の敵であったにも関わらず、イエス・キリストにあって祝福にあずかる者とされているからである。かつて、パウロ自身が主イエスを迫害する者であったにもかかわらず、祝福を受けた者であった。この私たちも同じである。しかし、その私たちのために、神は愛する御子を十字架の死に引き渡してくださった。だから、私たちは敵をも愛する愛、神の愛に生きることが求められているのである。
また、イエス・キリストを信じる私たちは、だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うよう心がけることが求められている。ここでの善は、神の御心のことである。私たちは誰に対しても、誰の前であっても、神の御心である善を行うよう心がけるべきである。言い換えれば、どのようなときも御言葉と聖霊に導かれて歩むということである。しかし、この世で、すべての人の祝福を祈り、誰に対しても善を行って安寧に暮らすことは大変難しいことである。なぜなら、世はイエス・キリストを憎み、その弟子である私たちをも憎むからである。だから、パウロは、「できるかぎり、あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」、「あなたがたの方からすべての人との平和を乱してはならない」と言うのである。パウロは、この世と妥協することを勧めているのではない。キリスト者は、信仰や真理の問題に関しては、決して妥協してはならない。なるべく争いを避けようとして、神ではないものを神として拝むことはできない。パウロがここで言おうとしていることは、自分で「復讐してはならない」ということである。キリスト者は、自分で復讐して、人々との平和を乱してはならない。なぜなら、神から満ち溢れるほどに愛されている私たちには、自分を迫害する者をも愛して、平和を造り出すことが求められているからである。
<2023年8月20日の説教から>
『すべての人と平和に暮らしなさい』
ローマの信徒への手紙12章14節~21節
牧 師 鈴木美津子
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(14)」パウロは、「あなたがたを迫害する者」までも祝福を祈れと言う。なぜ、キリスト者は自分を迫害する者のために祝福を祈らねばならないのか。それは、私たちがかつて神の敵であったにも関わらず、イエス・キリストにあって祝福にあずかる者とされているからである。かつて、パウロ自身が主イエスを迫害する者であったにもかかわらず、祝福を受けた者であった。この私たちも同じである。しかし、その私たちのために、神は愛する御子を十字架の死に引き渡してくださった。だから、私たちは敵をも愛する愛、神の愛に生きることが求められているのである。
また、イエス・キリストを信じる私たちは、だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うよう心がけることが求められている。ここでの善は、神の御心のことである。私たちは誰に対しても、誰の前であっても、神の御心である善を行うよう心がけるべきである。言い換えれば、どのようなときも御言葉と聖霊に導かれて歩むということである。しかし、この世で、すべての人の祝福を祈り、誰に対しても善を行って安寧に暮らすことは大変難しいことである。なぜなら、世はイエス・キリストを憎み、その弟子である私たちをも憎むからである。だから、パウロは、「できるかぎり、あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」、「あなたがたの方からすべての人との平和を乱してはならない」と言うのである。パウロは、この世と妥協することを勧めているのではない。キリスト者は、信仰や真理の問題に関しては、決して妥協してはならない。なるべく争いを避けようとして、神ではないものを神として拝むことはできない。パウロがここで言おうとしていることは、自分で「復讐してはならない」ということである。キリスト者は、自分で復讐して、人々との平和を乱してはならない。なぜなら、神から満ち溢れるほどに愛されている私たちには、自分を迫害する者をも愛して、平和を造り出すことが求められているからである。
2023.10.22 の週報掲載の説教
2023.10.22 の週報掲載の説教
<2023年8月6日の説教から>
『キリストに倣う』
ローマの信徒への手紙12章9節~13節
牧 師 鈴木美津子
「愛には偽りがあってはなりません。(9)」
「偽りがあってはならない」とは、「偽善的であってはならない」ということ、言い換えれば、「本物の愛で互いに愛し合う」と言うことである。この愛は、神の愛、アガペーの愛である。どのようにして私たちは、この本物の愛を持つことができるのか。この愛は神からの賜物である。私たち人間がつくり出すことはできない。神が先に私たちを愛してくださったので、私たちは本当の愛を持つことができるのだ。つまり、私たちが神に目を留め、神の愛を覚え、神の愛に応答するときに、私たちは、この本物の愛で互いに愛し合うことができるのである。なぜなら、罪人である私たちは、自分の中から本物の愛を引き出すことはできないからである。神の愛をいただいた者として、感謝をもってその愛を喜び、神への応答として、この愛を持つことができるのである。
パウロは、その後に「悪を憎み、善から離れず」と言葉を繋げる。「善から離れず」とは、善にくっつく、善に固着するという意味である。善が自分から離れないように必死にすがるのである。真剣に悪と戦って善を求めるのである。それこそが「偽善的ではない愛」を持つことの意味である。善を求めないで悪と妥協しながら生活を送り、自分の心の中にある悪い思いなどを許すような生活を送ったりするなら、私たちは偽善的な愛しか持てない者になってしまうのである。
私たちは皆、罪人なので、本当の愛を持つための戦いは死ぬ日まで続く。この戦いは、自分の心の中の戦いである。しかし、そうであっても私たちは戦わなければならない。
なぜなら、神が私たちを愛して、御自分の御子である主イエス・キリストを惜しまずに私たちに与えてくださったからである。そのことに感謝するのである。そのことを覚えるなら、私たちは、自分の心にある偽善と戦うことができる。自分の心にある悪に対して戦うことができる。自分の思いの悪いところに対して戦うことができる。本当の意味で悪を憎むことができるのである。真剣に悪と戦うならば、私たちは必ず成長する。真剣に悪と戦うならば、神を求め、愛を求めて歩み続けることができる。わたしたちは、どんな境遇にあっても、たとえもっとも厳しい状況にあっても、またわたしたちが過ちを犯したときも、神の愛は決して失われないことを、わたしたちは知っているからである。だから、私たちは、今日も希望を持って歩むことができる。
<2023年8月6日の説教から>
『キリストに倣う』
ローマの信徒への手紙12章9節~13節
牧 師 鈴木美津子
「愛には偽りがあってはなりません。(9)」
「偽りがあってはならない」とは、「偽善的であってはならない」ということ、言い換えれば、「本物の愛で互いに愛し合う」と言うことである。この愛は、神の愛、アガペーの愛である。どのようにして私たちは、この本物の愛を持つことができるのか。この愛は神からの賜物である。私たち人間がつくり出すことはできない。神が先に私たちを愛してくださったので、私たちは本当の愛を持つことができるのだ。つまり、私たちが神に目を留め、神の愛を覚え、神の愛に応答するときに、私たちは、この本物の愛で互いに愛し合うことができるのである。なぜなら、罪人である私たちは、自分の中から本物の愛を引き出すことはできないからである。神の愛をいただいた者として、感謝をもってその愛を喜び、神への応答として、この愛を持つことができるのである。
パウロは、その後に「悪を憎み、善から離れず」と言葉を繋げる。「善から離れず」とは、善にくっつく、善に固着するという意味である。善が自分から離れないように必死にすがるのである。真剣に悪と戦って善を求めるのである。それこそが「偽善的ではない愛」を持つことの意味である。善を求めないで悪と妥協しながら生活を送り、自分の心の中にある悪い思いなどを許すような生活を送ったりするなら、私たちは偽善的な愛しか持てない者になってしまうのである。
私たちは皆、罪人なので、本当の愛を持つための戦いは死ぬ日まで続く。この戦いは、自分の心の中の戦いである。しかし、そうであっても私たちは戦わなければならない。
なぜなら、神が私たちを愛して、御自分の御子である主イエス・キリストを惜しまずに私たちに与えてくださったからである。そのことに感謝するのである。そのことを覚えるなら、私たちは、自分の心にある偽善と戦うことができる。自分の心にある悪に対して戦うことができる。自分の思いの悪いところに対して戦うことができる。本当の意味で悪を憎むことができるのである。真剣に悪と戦うならば、私たちは必ず成長する。真剣に悪と戦うならば、神を求め、愛を求めて歩み続けることができる。わたしたちは、どんな境遇にあっても、たとえもっとも厳しい状況にあっても、またわたしたちが過ちを犯したときも、神の愛は決して失われないことを、わたしたちは知っているからである。だから、私たちは、今日も希望を持って歩むことができる。
2023.10.8 の週報掲載の説教
2023.10.8 の週報掲載の説教
<2023年7月30日説教から>
『一つの体を形づくる』
ローマの信徒への手紙12章3節~8節
牧 師 鈴木美津子
パウロは、キリストを信じる者たちが形づくる共同体、つまりキリストの体なる教会の中では、「自分を過大に評価してはなりません(3b)」と命じる。自分自身に過大な評価をして、他の人を蔑まないように、謙虚な心を持つようにと命じているのである。しかし、これは「自分を評価する時に、控えめに評価せよ」ということではない。それは言うまでもなく、恵みを与えくださる神ご自身を否定しているのと同じだからである。それは他の人に対しても同様である。そうであるから、パウロは「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき(3c)」である、と語るのである。人間のはかりではなく、信仰のはかりにしたがって、しかも神が与えくださった信仰のはかりにしたがって、慎み深く各自を評価するようにと命じているのである。
これを語るパウロには、教会という共同体が、キリストを頭とした一つの体とする思いがある。人間の体というのは、さまざまな部分から成り立っている。体には手があり、足があり、手には指があり、顔には目や鼻や口があるように、教会に集う一人一人のキリスト者も、そのように一つの体なる教会を造り上げている。しかも、一つの体を構成している部分は多様な部分からなっているが、それぞれの部分同士を比較して、どちらの方が優れている、またどちらの方が劣っている、とは言えない。むしろ、それぞれの部分が互いに他を必要としているからこそ、一つの体としてもっともよく機能していくことができるのである。このようにキリストを信じる者たちが、互いに他を必要とする体の部分であるという認識を持っていれば、そこには傲慢な思いも、蔑む思いも生まれて来るはずがないはずである。だからこそ、互いがそれぞれに自分に与えられた責任を果たすことで、一つの体としてもっともよく成長できることを覚える必要があるのだ。
教会は、キリストを頭として一体性と多様性をバランスよく保ちながら豊かに成長していく共同体である。そして、そのような共同体を自分もまた構成している一人一人であることを謙虚に自覚し、互いに対して果たすべき責任を深く思うことが大切なのである。パウロは、6節以下で、それぞれに与えられる賜物について記しているが、私たちはその賜物を各々慎み深く思い、一つの体なる教会を形づくるために用いていきたいと願うのである。
<2023年7月30日説教から>
『一つの体を形づくる』
ローマの信徒への手紙12章3節~8節
牧 師 鈴木美津子
パウロは、キリストを信じる者たちが形づくる共同体、つまりキリストの体なる教会の中では、「自分を過大に評価してはなりません(3b)」と命じる。自分自身に過大な評価をして、他の人を蔑まないように、謙虚な心を持つようにと命じているのである。しかし、これは「自分を評価する時に、控えめに評価せよ」ということではない。それは言うまでもなく、恵みを与えくださる神ご自身を否定しているのと同じだからである。それは他の人に対しても同様である。そうであるから、パウロは「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき(3c)」である、と語るのである。人間のはかりではなく、信仰のはかりにしたがって、しかも神が与えくださった信仰のはかりにしたがって、慎み深く各自を評価するようにと命じているのである。
これを語るパウロには、教会という共同体が、キリストを頭とした一つの体とする思いがある。人間の体というのは、さまざまな部分から成り立っている。体には手があり、足があり、手には指があり、顔には目や鼻や口があるように、教会に集う一人一人のキリスト者も、そのように一つの体なる教会を造り上げている。しかも、一つの体を構成している部分は多様な部分からなっているが、それぞれの部分同士を比較して、どちらの方が優れている、またどちらの方が劣っている、とは言えない。むしろ、それぞれの部分が互いに他を必要としているからこそ、一つの体としてもっともよく機能していくことができるのである。このようにキリストを信じる者たちが、互いに他を必要とする体の部分であるという認識を持っていれば、そこには傲慢な思いも、蔑む思いも生まれて来るはずがないはずである。だからこそ、互いがそれぞれに自分に与えられた責任を果たすことで、一つの体としてもっともよく成長できることを覚える必要があるのだ。
教会は、キリストを頭として一体性と多様性をバランスよく保ちながら豊かに成長していく共同体である。そして、そのような共同体を自分もまた構成している一人一人であることを謙虚に自覚し、互いに対して果たすべき責任を深く思うことが大切なのである。パウロは、6節以下で、それぞれに与えられる賜物について記しているが、私たちはその賜物を各々慎み深く思い、一つの体なる教会を形づくるために用いていきたいと願うのである。