2024.6.9 の週報掲載の説教

2024.6.9 の週報掲載の説教

<2024年4月21日説教>

『イエス様の言われる神殿』

ヨハネによる福音書2章13節ー22節

牧 師 鈴木美津子

 
この個所は「イエスの宮清め」と呼ばれている。エルサレム神殿境内の「異邦人の庭」で、犠牲に献げる動物が売られ、また外国の貨幣をイスラエル通貨に両替する店が軒を連ねていた。主イエスはこれらから生じた「商売」に怒り、商人たちを追い出したのだ。

しかし、これにはもっと根深い問題があった。神殿を運営している祭司長を筆頭とする「神殿当局者」たちが神殿を食い物にしているという状況がそこにはあったからだ。神殿でささげられる「犠牲の動物」には、厳密な規定がある(レビ記1章ほか)。それらは全て「無傷」のものでなければならない。しかし人々が自宅から「無傷」な状態で保って持参することは大変難しい。そのため、「犠牲の動物」が神殿の境内で販売されていた。更に、神殿で通用する貨幣はユダヤ社会の通貨シェケルに限られていた。「犠牲の動物」を購入するためにはシェケルへの換金が必要な場合が多く、そこで不当な利潤を得るユダヤ人たちが存在した。主イエスはそのような不正を見逃すことができなかったのである。

このような行為に出た主イエスに対し、対立する「ユダヤ人」たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか(18)」、と詰め寄った。一体、あなたにどんな資格や権威があってこのようなことをするのか明らかにせよ、と迫ったのである。それに対して、主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる(19)」、と答えた。しかし、ここで主イエスが新しく建てる神殿は、全く違う「神殿、神の宮」のことである。そして、「神殿、神の宮」とは主イエスご自身のからだ、復活の主イエスご自身のことである。

ここにおいて主イエスご自身こそが真に礼拝されるべき方であるということが訴えられ、ユダヤ教的祭儀の廃棄が宣言されている。復活された主イエス・キリストにおいて、場所にとらわれない、霊と真理からなる礼拝が実現したのである。

2024.6.2 の週報掲載の説教

2024.6.2 の週報掲載の説教

<2024年4月14日説教>

『カナでの婚礼の奇跡 −水をぶどう酒に−』

ヨハネによる福音書1章43節~51節

 
牧 師 鈴木美津子

 
事の起こりは、ぶどう酒が足りなくなったので、母マリアが主イエスに、「ぶどう酒がなくなりました(3)」、と言ったことにある。ぶどう酒が底をついたのだ。この時代の婚礼は、通常一週間続く大きなイベントで、その喜びを祝う席でぶどう酒がなくなった場合、ホスト側の面目は丸潰れであったのだ。

水をぶどう酒に変えられた奇跡、これをヨハネ福音書は、「最初のしるし」と語る。ヨハネ福音書は、主イエスの数あるしるしの中から7つのしるしを選んで伝えているが、その「最初のしるし」が、このガリラヤのカナの婚礼で行われた水をぶどう酒に変えるという奇跡であった。ヨハネ福音書は、主イエスの奇跡を「しるし」と呼ぶ。それは、水をぶどう酒に変えられたという奇跡が、主イエスがどのようなお方であるかを指し示しているものであるからだ。主イエスが水をぶどう酒に変えられた。そのこと事態、驚くべきことであるが、ただそのことに留まっているだけでは、「イエスを信じた」という信仰へ到達することはない。事実、ここに登場する召し使いたちは、それがどこからきたかを知っていながら、主イエスを信じるには至っていないからである。ヨハネ福音書は、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と語る。「その栄光」とは、もとの言葉では「彼の栄光」、つまり主イエス御自身の栄光である。水をぶどう酒に変える奇跡に、主イエスの栄光を見ることができるかどうか。そのことが、主イエスを信じる信仰へと至るかどうかの分かれ目となるのである。弟子たちはこの奇跡を単なる不思議な業としてではなく、主イエスの栄光を現す「しるし」として見ることができた。それゆえ、弟子たちは主イエスがメシアであることをさらに深く、確かなこととして信じることができたのである。

主イエスは、ガリラヤのカナにおいて、その栄光を現してくださった。そして今も、主の日の礼拝において、御自身の栄光を現してくださる。私たちは主の日の礼拝毎に、主イエスの栄光を仰ぐことができるのである。そのようにして、主イエスは今もそしてこれからも信じる者たちを起こし、私たちの信仰を深め、確かなものとしてくださるのである。

2024.5.26 の週報掲載の説教

2024.5.26 の週報掲載の説教
<2024年4月7日説教>

『来て、見なさい』

ヨハネによる福音書1章43~51節

牧 師 鈴木美津子

 
いつの時代にあっても、主イエスを人々に証しする時には、実に冷ややかな反応に出遭うことが多い。なぜなら、キリスト教に対する「誤解」や「先入観」などで、なかなか人々にキリストの福音の素晴らしさを知ってもらえないのである。この時のフィリポもそうであった。この時フィリポは、ナタナエルに「来て、見なさい(46)」と言った。どんなに素晴らしい証しの言葉をもって主イエスについて語ったとしても、受け入れてもらうことは難しい。だから、フィリポは真の主イエスを知ってもらうためには、ナタナエルを主イエスのもとに連れていけば良いと考えたのである。今の時代であれば、「教会に来て、見てください」とお誘いすることである。教会は「礼拝」をする場所であり、そこで人々は神を喜んで賛美し、神の言葉に真剣に耳を傾ける。そのような「礼拝」の中に、主イエスは臨在しておられる。

フィリポに促され、主イエスのもとにやってきたナタナエルの心の中を、既に主イエスは知っておられた。ナタナエルは「この方に知られている」「この方に捉えられている」ということに気づき驚いた。そして「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という告白に導かれた。人が「イエスはメシアである」と信じ従うようになるのは、主イエスが、まずその人を見出し、声をかけてくださることによる。私たちは「自分で選び、自分で決めて教会に足を踏み入れた」と思っているかも知れない。しかし、まず神が自分を知り、見出して導いてくださったのである。私たちは、その真実を、後になって知ることになる。なぜなら、生けるキリスト、生ける聖霊の働きは私たちにとって「後で分かる」ようなものだからである。

ナタナエルの信仰告白を聞き、主イエスは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる(50)」と言われた。「イエスはメシアである」と信じる告白は、信仰の出発点であり、そこからますます確かな信仰に導かれていくのだということを、主イエスは信じる者に約束してくださっている。「信じます」という告白は、「神との交わり」「神の恵みを知ること」の始まりに過ぎない。私たちは、そこから神との交わりが深められ、ますます多くの恵みを知るように導かれていくのである。

2024.5.12 の週報掲載の説教

2024.5.12 の週報掲載の説教
<2024年3月17日説教から>

『来なさい。そうすれば分かる』
ヨハネによる福音書1章35節~42節

牧 師 鈴木美津子

 
洗礼者ヨハネの証言を聞いて、イエス様に従って行ったのは、ヨハネの二人の弟子であった。一人はペトロの兄弟アンデレ、もう一人の名前は具体的には記されていない。

彼らが従って来るのを見て、イエス様は振り返り、「何を求めているのか」と声をかけられた。この「何を求めているのか」という問いかけが、この福音書が記すイエス様の発せられた最初の言葉である。「何を求めているのか」というイエス様の問いに対して、「ラビ、どこに泊っておられるのですか」と、アンドレともう一人の弟子は、イエス様が宿泊している場所がどこなのか、その答えを求める。この「どこに泊っているか」という質問は、「あなたが何を教えてくださるのか、あなたの教えを求めている。一緒に過ごしたい。」という意味がある。また同時この言葉には、「あなたは何者なのか。あなたはどこから来てどこへ行く人なのか、そして今はどこで過ごしているのか」という意味もある。そのようなことでは、ここでは「泊る」という言葉が単に宿泊のことではなく、実は、イエス様の内に信仰的に「留まる、繋がる」ということを表しているとも言えるのである。なぜなら、この「泊る」と訳されている言葉は、この福音書の中では、後に、イエス様の愛のうちに「とどまる」という、この福音書にとって重要な用語として登場するからである。

イエス様は、弟子たちの問いに答えて、「来なさい。そうすれば分かる」と答えられた。「よろしい、私に従って来なさい、教えてあげよう」、と言われたのである。イエス様のもとに行き、イエス様のもとに留まる、そうすればあなたの求めているものがなんであれ、それは必ず得られる、必ず分かると言うことである。この言葉から二人は入門を許された、と考えることが出来る。

さて、洗礼者ヨハネの証しは、自分の弟子たちの中から二人をイエス様へと結びつける事になった。しかし、この話はこれで終わらないのである。ヨハネの証言を聞いてイエス様に従い、イエス様のもとに留まった弟子のひとりであるアンデレは、今度は、自分の兄弟にイエス様を証しすることになるのである。

2024.5.5 の週報掲載の説教

2024.5.5 の週報掲載の説教
<2024年3月10日説教から>

『神の子羊』
ヨハネによる福音書1章29-34節

牧 師 鈴木美津子

 
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て
言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(29)」

洗礼者ヨハネは、自分が水で洗礼を授けて来た理由を、「この方がイスラエルに現れるために」と述べる。洗礼者ヨハネは、自分を遣わした神の「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」との御言葉を頼りとしながら、ヨルダン川において水で洗礼を授けてきた。洗礼者ヨハネにとって、水で洗礼を授けることは、聖霊によって洗礼を授けるお方、すなわちメシアを見出すための手段であった。ですから、洗礼者ヨハネが、霊が鳩のように天から降って、主イエスのうえにとどまるのを見たとき、本当にうれしかったのだ。ルカによる福音書の2章に、老人シメオンの話しが記されているが、そのシメオンと同じような喜びに洗礼者ヨハネは包まれたのである。それは、自分の使命を果たし終えた喜び、満足感を伴う喜びである。洗礼者ヨハネは、来るべき救い主が現れるために、水で洗礼を授け、その方を見出し、この方こそ聖霊で洗礼を授けるお方であると証しすることができたのである。聖霊、神の霊が与えられるということ。これは、旧約において預言されていた終末の救いの出来事である。そして、この聖霊を与えられることによってこそ、私たちの罪は取り除かれる。私たちの心に、神の霊、聖霊が溢れるほどに注がれてこそ、私たちは世の罪から解き放たれる。それゆえに、世の罪を取り除く神の小羊こそが、私たちに聖霊を注いでくださるお方なのである。そして、事実イエス・キリストは、十字架の死から三日目によみがえられたのち後に、弟子たちに聖霊を注いでくださった。そして、そのようなお方であるがゆえに、イエス・キリストは神の子なのである。

洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」、と救い主を指し示した。それゆえに、わたしたちもまた、救い主を指さし「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」、と呼びかけるのである。

2024.4.28 の週報掲載の説教

2024.4.28 の週報掲載の説教
<2024年3月3日説教から>

『荒れ野で叫ぶ声がする』
        ヨハネによる福音書1章19節~28節

牧師  鈴木 美津子

 
わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。(23b)」

当時のエルサレムの堕落は深刻であった。当時のユダヤ社会の権力者たちが、「主の道を」歪めていたからである。彼らの堕落した姿によって、イザヤの預言がむなしく響くような信仰がエルサレムに蔓延していたのだ。そのような彼らに対して、洗礼者ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」となったのである。つまり、洗礼者ヨハネの声は、堕落したエルサレムをもう一度荒れ野に引き戻す声なのだ。もう一度バビロン捕囚からやり直して、『主の道をまっすぐにせよ』、と洗礼者ヨハネは荒れ野から悔い改めを大声で叫んだ。

しかし、『主の道をまっすぐにせよ』というこの言葉は、当時のユダ人たちだけに向けられた言葉ではない。この私たちに対しても叫ばれている。叫ばれ続けている。なぜなら、私たちもまた御言葉に背き、或いは自らの都合を御言葉に優先させるような者だからだ。いつの間にか、主の道を歪めているのが私たちなのだ。

さて、「荒れ野で叫ぶ声」である洗礼者ヨハネは、居心地の良い場所で自分だけの平安、安寧を楽しむような信仰生活を送らなかった。彼はヨルダン川のほとりの荒れ野に住んで、ひたすらに救い主に仕え、また救い主を宣べ伝える声、また救い主を指し示す者となった。やがて、ここからキリストの教会の歴史が始まるのである。

この浦和教会は来年教会建設90周年を迎えようとしている。その最初は、ヨハネのようにまさしく荒れ野で叫ぶ声、主イエス・キリストを指し示す者の姿であったのではないか。いま、その歴史の中を歩むわたしたちも、洗礼者ヨハネと同じように主イエス・キリストを証しする声になりたい。そうなることが出来る、そのように確信する。なぜなら、主に招かれ、悔い改めてキリストに立ち帰ったからには、この私たちが、「荒れ野で叫ぶ声」、とされなければならないからである。「荒れ野で叫ぶ声」、それは福音宣教の叫びである。