NEW! 2023.7.30 の週報掲載の説教

2023.7.30 の週報掲載の説教
<2023年6月4日の説教から

『信じる者すべてに義をもたらすために』
ローマの信徒への手紙10章1節~4節

牧 師 鈴木美津子

 
キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。(4)」

キリストは律法の目標である」とは、神の掟を守って義とされるという考え方がキリストにおいて目標に到達したということである。この「目標」と訳されている言葉は、「終わり」とも訳せる。「キリストは律法の終わりである」とすると、それは律法を守るという仕方で、神の御前に正しいとされるという考え方に終わりをもたらしたということである。

約束のメシア、救い主であるイエス・キリストが十字架の死を死んで、復活されたのはなぜか?それは、人間が誰一人、神の掟を守ることによって義とされないことを示すためであった。このことは、パウロ自身が、復活されたイエス・キリストと出会うことによって教えられたことである。かつて、パウロはファリサイ派の一員であり、律法を守ることに人一倍熱心な者であった。パウロは教会を迫害するほどに熱心であったからだ。また、パウロは自分が律法の義については非のうちどころのない者であると信じていた。そのようなパウロが、なぜ、イエス・キリストを信じるようになったのか?それは、あのダマスコ途上において、復活の主イエス・キリストと出会ったからである。それによって、パウロは律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義を拠り所とする者とされたからである。

では、キリストは神の掟を守って義とされるという考え方をどのようにして、終わりにされたのか?それは、神の掟を落ち度無く守るということによってである。イエス・キリストは、神の掟を落ち度無く、完全に守るという目標を達成することによって、神の掟を守って正しい者とされるという考え方を終わりにされたのである。イエス・キリストは律法の目標を達成することによって、律法によって救われるという考え方に終わりをもたらされた。それは御自分を信じる者すべてに、義をもたらすためであった。かつて、私たちは神の民ではない、異邦人であった。神を神とも思わずに、神から遠く離れて歩んでいた。そのような私たちが、神の御前に、正しい者とされたのは、ただイエス・キリストのゆえである。

2023.7.23 の週報掲載の説教

2023.7.23 の週報掲載の説教
<2023年5月21日説教から>
『失望しない人生』
ローマの信徒への手紙9章30節~33節
                   牧 師 鈴木美津子
 
見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く(33a)」。

なぜ、ユダヤ人は「行いによる義」という考えに固執してしまったのか。ユダヤ人はどうして、そこから抜け出すことができなかったのか。その理由をパウロは「彼らはつまずきの石につまずいた」のだと言う。「つまずきの石」とは、イエス・キリストのことである。特に十字架にかけられたメシアは、ユダヤ人にとって、つまずきであった。なぜなら、ユダヤ人にとって木にかけられた者は呪われた者だったからである。ユダヤ人たちにとって、そのようなメシアを信じることを通して、神の義を受け取ることができるとは、受け入れがたい「つまずきの石」だったのである。

しかし、神はこのつまずきの石に依り頼む者は、失望することがないと、預言者を通して語って来られた。この十字架のキリストにこそ、真の希望があり、このお方を他にして、救いへの道はない、ということである。
「十字架の死は、呪われた者の死」。そうであれば、今の時代の教会にそびえ立つ十字架も弱さの象徴、愚かさの象徴、不名誉極まりない「しるし」である。だから、この世の力や、この世の論理で、或いは私たちの都合で十字架を仰ぐ時、必ずと言っていいほどつまずくのである。理性では、到底理解できない。信仰の目で見ることができなければ、理解できないのである。だから主イエスにつまずく、福音につまずくのである。

しかし、私たちは、主イエスにつまずくのではなく、主イエスに立ち帰る者、行いで救われようとして、つまずくのではなく、主イエスに立ち帰ることによって救われる者。

私たちは、信仰の目で十字架を見上げる、見上げ続ける者。

私たちは、この世の論理に流されずに、御言葉によって約束された終わりの時に希望を持ち続け、神に感謝して、罪を犯しても悔い改め、そして常に主イエスに立ち帰る。その時、つまずきの石、妨げの岩こそが、我が救いであり、我が盾となるのである。

どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない。(39b)」私たちは、今日もそしてこれからも御国の完成に向かって、このキリストによって失望しない人生を歩み続けるのである。

2023.7.9 の週報掲載の説教

2023.7.9 の週報掲載の説教
<2023年5月14日説教から>

神の憐れみの器
ローマの信徒への手紙9章19節~29節

牧 師 鈴木美津子

神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。(24)」

「神の憐れみの器」とは「神の憐れみの対象となる人々」を意味し、イエス・キリストを信じるキリスト者のことを示している。「神の怒りの器」とは、「神の怒りの対象となる人々」を意味し、イエス・キリストを信じないすべての人々、特に、神の民でありながら、イエス・キリストを拒み続けるイスラエルの人々のことを示している。

異邦人に対する神の憐れみは、神の民でない者を神の民として召し出すという仕方で表された。しかし、元々の神の民であるイスラエルについては、神の民として残す、保持するという仕方で、神の憐れみは表される。もし、神が憐れみをもってイスラエルを取り扱ってくださらなければ、イスラエルは神によって滅ぼされたあの創世記のソドムとゴモラと同じようになっていた。しかし、神はイスラエルを憐れみ、残りの者を備えてくだったのである。この「残りの者」とは、捕囚から帰って来る民のことを指していた。それがいつしか、神によって残された、真の神の民イスラエルを指すようになった。パウロは、その残りの者こそが、ユダヤ人でイエス・キリストを信じた者たちであると言うのである。多くのユダヤ人がイエス・キリストを拒み続けているが、その中からもイエス・キリストを信じる者たちが起こされた。そして、そこにパウロは神の憐れみを見ている。

ユダヤ人であっても、異邦人であっても、イエス・キリストを信じて神の民とされることは、一方的な神の憐れみによる。それゆえ、神の栄光は、イエス・キリストの教会を通して、この世界に示される。なぜなら、神の栄光は、神の恵みと憐れみによって示されるからである。私たちは神の恵みと憐れみによってイエス・キリストを信じ、真の神の民イスラエルとされた。そうであるから、神の栄光は私たちによって示される。イエス・キリストを信じて神の民とされた私たちは、神の憐れみの器であると同時に、神の栄光を現す器でもある。

神が私たちを選んで「神の憐れみの器」としてくださった。この恵みの重さは無限で推しはかることはできない。だからこそ、私たちはこの計り知れない恵みに感謝して、なお一層神を畏れて御前に謙るべきではないだろうか。

2023.7.2 の週報掲載の説教

2023.7.2 の週報掲載の説教
<2023年5月7日説教から>

神の選び
ローマの信徒への手紙9章10節~18節

牧 師 鈴木美津子

 
このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。(18)」

神は、イサクとリベカの子どもたちが未だ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」と言われた。兄エサウを神の祝福の担い手として選ばず、弟ヤコブを選ばれたのだ。そうすると、私たちの内に「神に不義があるのではないか?」という反論が生まれて来るかも知れない。神ならどちらにも同じように接するべきではないか?と私たちは考えるからだ。

それに対してパウロは、「決してそうではない」と言う。そして、神がモーセに言われた「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」を引用する。これは、神の自由な主権を教える言葉である。すべてのものを造り、すべてのものを統べ治めておられる神は、「自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」絶対的な主権、絶対的な自由を持っておられる。神の選びは、人の意志や努力ではなく、ただ神の憐れみによるものである。なぜ、神はエサウではなくヤコブを選ばれたのか?ヤコブが神様の祝福を求め、そのために努力する者となることを知っていたからではない。それは神がエサウではなく、ヤコブを憐れまれたからである。選びの根拠は、選ばれた対象にあるのではなくて、選びの主体である神様にある。

しかし、神は憐れみたいと思う者を憐れむだけではない。かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる御方でもある。神の救いの歴史、それは憐れみによって御自分の民イスラエルを選び、導かれるだけではなく、イスラエルに敵対するエジプトの王ファラオをも用いて進められる歴史である。神がファラオの心を頑なにされたからこそ、神の力と御名は全世界に告げ知らされた。そのことは、パウロが問題としているキリストを信じないイスラエルの民においても言えるのである。なぜ、神の民イスラエルが心を頑なにして、キリストを拒み続けているのか?それは、神がその心を頑なにされたからである。そして、そのことによって、神の御名が全世界の人々に告げ知らされ、異邦人である私たちにも、キリストの福音が告げ知らされたのである。選びによる神の御計画は、そのようにして今も進められている。

2023.6.25 の週報掲載の説教

2023.6.25 の週報掲載の説教
<2023年4月30日説教から>

『約束の子』
ローマの信徒への手紙9章6節~9節

牧 師 鈴木美津子

 
ところで、イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、またアブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない(6-7)」。

イスラエルとはどのような者を言うのだろうか?イスラエルとは、単にアブラハムと血が繋がっている者のことを言うのではない。神とアブラハムとの約束を受け継ぐ者のことを言うのである。神がアブラハムと結ばれた契約を受け継ぐ者、それが真の神の民イスラエルである。聖書は、この約束がイスラエルの民の一員として生まれたイエス・キリストにおいて実現したと教えている。そのことを示すために、イエス・キリストは、おとめマリアの胎に、聖霊によって宿るという仕方でお生まれになったのである。

聖書は、このイエス・キリストこそ約束の子であり、このお方において、神の約束はことごとく実現したと教えている。そして、イエス・キリストを信じる者たちこそ、神の契約を受け継ぐ神の民イスラエルであるとも教えている(ガラテヤ6:14-16)。

私たちは血筋から言えば、アブラハムともヤコブともつながってはいない。けれども、約束の子であるイエス・キリストと聖霊によって、また信仰によって結ばれているゆえに、神の民イスラエルなのである。イエス・キリストを信じて教会の一員とされている私たちは、神の約束、契約を受け継ぐ神の民とされている。神は、私たちを通して、すべての民を祝福しようとしておられる。そして、その祝福はイエス・キリストの福音を宣べ伝えることによって実現していくのである。だから、復活されたイエス・キリストは、その弟子たちに、「すべての民に福音を宣べ伝えよ」と命じられたのである。

かつて、アブラハムとサラは、またおとめマリアは、信じられない、ありえない神の計画を告げられた。しかし、彼らは、堅く信仰に立って、これを信じた。このことは、私たちの福音宣教においても言えることである。主イエスは、「この町にはわたしの民がたくさんいる」と約束しておられる。しかし、その約束も、私たちが信じて、福音を伝えなければ実現することはない。なぜなら、神は、この私たちを用いて、すべての民を祝福しようとしておられるからである。

2023.6.11 の週報掲載の説教

2023.6.11 の週報掲載の説教
<2023年4月23日の説教から>

『選びの民のために祈る』
ローマの信徒への手紙9章1節~5節

 
牧 師 鈴木美津子

 
パウロにとって、肉による同胞のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じないことは、深い悲しみであり、絶え間ない心の痛みであった。パウロは、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ願ったほどである。なぜなら、ユダヤ人たちの多くは、イエス・キリストを拒んで、神から見捨てられた者となっていたからだ。

神は、アブラハムを召し出し、イサク、ヤコブと契約を結び、ヤコブをイスラエルと呼び、約束のとおりその子孫を天の星のように増やされた。そして、イスラエルを御自分の民として、栄光、契約、律法、礼拝、約束を与えられた。神はそのようにして、イスラエルが約束のメシアであるイエス・キリストを受け入れるようにと計画され、準備をして来られたのである。

しかし、実際にイエス・キリストが生まれると、イスラエルはイエス・キリストを拒んだ。拒んで、十字架につけて殺してしまったのだ。それだけでなく、復活して、万物の上におられるイエス・キリストを今も拒み続けている。なぜ、神の民であるイスラエルが約束の救い主であるイエス・キリストを今も拒み続けているのか?そのことを思うとき、パウロは深い悲しみと絶え間ない心の痛みを覚えずにおれなかったのである。

この御言葉を読むとき、私たちが問われる一つのことは、私たちもイエス・キリストを拒み続ける肉による同胞である日本人のために、深く悲しみ、絶え間ない痛みを覚えているか?ということである。パウロの肉による同胞は神の民イスラエルであり、私たちの肉による同胞である日本人は真の神を知らない異邦人である。状況は同じであるとは言えない。しかし、もし、私たちがイエス・キリストを拒み続ける同胞に対して悲しみと心の痛みを覚えないというのなら、それはキリスト者として不健全ではないだろうか。なぜなら、その悲しみ、心の痛みこそ、イエス・キリストの悲しみであり、心の痛みだからである。イエス・キリストは、すべての人を救うために、神から見捨てられるという十字架の死を死んでくださった。そのイエス・キリストの愛を知った者として、私たちもまた、同胞である日本人に、イエス・キリストの福音を忍耐強く宣べ伝えてゆきたいと願うのである。