2024.3.10 の週報掲載の説教

2024.3.10 の週報掲載の説教
<2024年1月28日説教から>

『善にはさとく、悪には疎くあるように』
ローマの信徒への手紙16章17節~20節

牧 師 鈴木美津子

平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。(20)」

「さとく」という言葉は、知恵のある、或いは賢い、とも訳すことができる。「善については知恵があれ」、つまり、あらゆる善いことに通じていなさい、主イエスのお役に立てるために常に思いめぐらしなさい、と言うことである。逆に、「疎く」という言葉は、「単純であるとか無邪気である」という意味である。簡単に言えば、「悪知恵などいらない」、ということである

しかし、実に、この世はその正反対ではないか。「善にさとく、悪には疎く」ではなく、善には大層疎く、悪知恵ばかりが幅を利かせていく、だから戦争が起こり、差別が止まず、格差社会が生まれるのではないか。弱い者は虐げられ、強い者が幅を利かす、これはいつの時代も変わっていない。変わって見えるとすれば、それに上塗りをしているだけの話である。しかし、御言葉は、このサタンの支配の終わりを明確にする。

「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」、とパウロが言う時、これと逆の現実が彼の目の前にある。今、サタンが、信仰者の平和を奪っている、パウロの目にはそのように見えていたはずである。そして、これはその後2000年のキリスト教の歴史の中で、常に信仰者に与えられて来た現実である。しかし、それにもかかわらずすでに2000年の昔に、「平和の源である神は間もなく」、とパウロは言う。この「間もなく」という言葉は、速さを表す言葉で、非常に間近に迫っている、そう言う状況を示す言葉である。

しかし、2000年経っても、私たちの見ている景色は同じで、善に疎く、悪知恵ばかりが幅を利かせて世の中は動いている。それでも、その現実の中で、「間もなく」という信仰に立ち続けるのがキリストを信じる者の役割ではないか。

キリスト者は、「善にさとく、悪には疎くあれ」、とあらゆるよきことに敏感で、主に仕えて、主イエスのお役に立つために思いめぐらす者でありたい。その時、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれる」、この御言葉こそが、真の希望となり、頭上に輝くのではないか。パウロは2000年前にそこに立ったのである。「わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。アーメン。」