2026.4.5 週報掲載の説教

2026.4.5 週報掲載の説教

『命がもう一度開いた朝』

ルカによる福音書24章1~12節

鈴木 美津子

*本日の説教の要約です。

 
イースターは、イエス・キリストの復活を喜ぶ日です。十字架で終わったように見えた命を、神様がもう一度起こしてくださいました。イエス様は生きておられます。この出来事こそ、教会の喜びの土台です。

けれども、最初のイースターの朝は、はじめから喜びに満ちていたわけではありませんでした。イエス様は十字架で息を引き取られ、墓に葬られました。墓の入口は大きな重い石で閉ざされ、人の目にはすべてが終わったように見えました。

週の初めの日の明け方、女性たちはイエス様の遺体に香料を塗り、丁寧に葬るために墓へ向かいました。それは、愛する方への最後の思いを込めた行いでした。しかし墓に着くと、入口の石はすでに転がされており、墓の中にイエス様の体はありませんでした。聖書は、そのとき女性たちが「途方に暮れた」と記しています。何が起きたのか分からなかったからです。

そのとき、輝く衣を着た二人の人が現れ、こう告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。(6)」これは、人の気持ちの変化を語る言葉ではありません。神様が本当にイエス様を死からよみがえらせたという知らせです。

女性たちはこの出来事を弟子たちに伝えましたが、弟子たちはすぐには信じることができませんでした。聖書は「この話がたわ言のように思われた」と記します。ただ、ペトロは墓へ走り、空になった墓を見て驚きました。まだすべてを理解したわけではありませんでしたが、そのときにはすでに神様の出来事は起きていたのです。復活の喜びは、人が理解してから始まるのではありません。神様がなさった出来事から始まります。十字架で終わったように見えたところで、神様は命をもう一度起こされました。

イエス様は生きておられます。この知らせは、時代を越えて今日の私たちにも届けられています。復活の主は今も生きておられ、私たちと共に歩んでくださいます。ここに、イースターの喜びがあります。

2026.3.29 週報掲載の説教

2026.3.29 週報掲載の説教

『静かに包まれた愛―新しい朝を待つ夜―』

ルカによる福音書23章44~56節

鈴木 美津子

*本日の説教の要約です。

 
本日は受難週のはじまりに、ルカによる福音書23章44〜56節から、イエス・キリストの十字架の出来事を聴きます。エルサレム入城の時、人々は歓声をあげてイエス様を迎えました。しかし数日のうちに状況は一変し、イエス様は捕らえられ、十字架につけられます。期待は怒号そして沈黙へと変わり、弟子たちは散らされ、十字架の下にはわずかな人々しか残りませんでした。受難週は、この大きな落差の中を歩く一週間です。

昼なのに暗くなり、神殿の垂れ幕が裂けた出来事は、当時の人々にとって恐ろしく、落ち着かない出来事でした。イエス様は罪のないお方でありながら、罪人として処刑され、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈って息を引き取られました。これは現実に起きた出来事であり、どの時代の人々とも、そして今の私たちとも深く結びついています。十字架は、神様が私たちのところまで来てくださったことを示す出来事です。

十字架の下には、百人隊長、群衆、そして従ってきた女性たちなど、さまざまな人がいました。だれもが同じ受け止め方をしたわけではありませんが、何も感じずに帰れた人はいなかったでしょう。その夜は、すぐに意味が分かる「良い知らせ」ではなく、不安と戸惑いの夜でした。

アリマタヤ出身のヨセフは、イエス様の遺体を引き取り葬りました。一方、女性たちは安息日のため、香料を用意しながらも何もできず、ただ待つ夜を過ごしました。人の手では何も動かせない夜でしたが、神様の時は止まっていませんでした。旧約聖書の哀歌の言葉が語るように、主の慈しみと憐れみは、この夜にも尽きることがありません。

受難週は、主の十字架を思うと、心が揺れ、言葉にならない気持ちを抱えたまま歩む一週間です。それでも、イエス様は私たちのそばに共にいてくださいます。たとえ、気持ちが整わないままでも、この一週間を歩み、神様が備えてくださる復活の朝を、静かに待ち望みたいと思います。

2026.3.15 週報掲載の説教

2026.3.15 週報掲載の説教

 
世にあって証しする

ヨハネによる福音書15章18節~27節

鈴木美津子

 
本日の御言葉は、教会を怖がらせるためではなく、教会を立たせるために語られている。主イエスは、十字架を前にした夜、弟子たちに向かって「世があなたがたを憎む」と率直に告げられた。それは、弟子たちを試すためでも、覚悟を強いるためでもない。これから直面する現実のただ中で、「こんなはずではなかった」とつまずかないために、前もって語られた言葉であった。

主はまず、弟子たちに一つの視点の転換を与えられる。弟子たちに向けられる憎しみを、弟子自身の言い方や態度の問題として受け止めるな、と語られる。「あなたがたを憎む前に、わたしを憎んでいた(18)」とあるように、その原因は弟子たちの内側にはない。憎しみの根は、イエスご自身と「世」との関係にある。弟子が拒まれるのは、立派だからでも、正しいからでもなく、主に属しているからである。

続いて主イエスは、「僕は主人にまさりはしない(20)」と言われ、弟子とは主イエスの歩まれた道に連なる者であることを示される。主イエスが世に拒まれたなら、主イエスに結ばれた弟子が拒まれるのは不思議ではない。しかしそこには慰めがある。それは失敗や未熟さのしるしではなく、主に属している現実だからである。

さらに主イエスは、御自身が来られ、語り、業を行われたことによって、世の罪が明らかになったことを語られる。救い主の到来は恵みであると同時に光であり、光が来ると、闇は闇として姿を現す。「理由もなく、わたしを憎んだ(25)」という言葉は、この現実を言い表している。主は、弟子たちがこの現実を知らないまま暗闇に入ってしまわないように、前もって語っておられるのである。

そして最後に、確かな希望が示される。弟子たち自身の力ではなく、父から遣わされる真理の霊が、イエス・キリストについて証しをなさる。弟子たちは、その証しを生み出す者ではなく、その証しに参与させられる者である。この約束のもとで、教会は世のただ中に立たされ、今日も証しへと遣わされているのである。

2026.3.8 週報掲載の説教

2026.3.8 週報掲載の説教

<2026年1月18日説教から>

友と呼ばれる恵み

ヨハネによる福音書15章11節〜17節

鈴木美津子

 
本日の御言葉は、イエス・キリストが十字架を前にした最後の夜、弟子たちに語られた言葉である。ここで主イエスは、弟子たちに厳しい命令を与えるのではなく、「喜び」「愛」「友」「選び」という言葉を通して、彼らがどこに立たされているのかを示された。

主イエスが語られる「喜び」とは、弟子たちが主イエスを喜ばせることではなく、父なる神との愛の交わりに根差した主イエスご自身の喜びに、弟子たちがあずかるという福音である。その喜びは、十字架を前にしても失われるものではなかった。

続いて語られる「掟」も、弟子たちに重荷を課す命令ではない。「わたしがあなたがたを愛したように(12)」という言葉が示すように、すでに与えられた愛を前提とする掟である。その愛がどこまで徹底したものかを示すのが、「友のために自分の命を捨てる(13)」という言葉であり、主イエスの十字架の死である。

主イエスは、弟子たちがこの後つまずき、逃げ、主を知らないと言うことをすでにご存じであった。それでもなお、彼らを「友」と呼ばれるのである。この「友」とは、対等な仲間という意味ではなく、父なる神の御心を知らされ、その御心の中で主イエスのなさることに巻き込まれていく者として招かれる関係である。

その根拠は、弟子たちの忠実さや理解にあるのではない。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ(16)」という主イエスの言葉にこそその根拠がある。この主イエスの言葉は、人の誇りを退けると同時に、不安を取り除く言葉でもある。十字架前夜に語られたこの御言葉は、今も私たちを揺るがない場所に立たせる言葉である。心にしっかりと留め置きたいと願う。

2026.3.1 週報掲載の説教

2026.3.1 週報掲載の説教

<2026年1月11日説教から>

まことのぶどうの木につながる

ヨハネによる福音書15章1節〜10節

鈴木美津子

 
アドベント、クリスマス、年末年始の礼拝を経て、私たちは再びヨハネによる福音書の講解説教へと帰ってきた。連続して読み進めてきた箇所からはしばらく間が空いたが、その間、教会の暦に導かれながら、季節にふさわしい御言葉に耳を傾けてきた。アドベントには救い主イエス・キリストの到来と再臨を待ち望み、クリスマスには「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事を、喜びと感謝をもって受け取った。
礼拝は私たちを日常から切り離すのではなく、御言葉によって整えられた者として、再び日常へと送り返す。その日々の歩みは、何も変わらない元の生活へ戻ることではなく、確かに神の国へと向かう歩みとして、新しくされ続けているのである。

前回の14章で、主イエスは弟子たちに「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない(18)」と約束され、父と子が共に住むという、より深い臨在を語られた。そして15章に入って、主イエスはさらに一歩踏み込み、「わたしはまことのぶどうの木(1)」であると宣言される。ここで語られているのは、弟子として生きるための条件や努力ではなく、命がどこから来て、どこにつながって生かされているのかという、信仰の根本である。

旧約聖書において、ぶどうの木は神に選ばれ、育てられる民の姿を表してきた。しかしヨハネ福音書は、まことのぶどうの木はイエス・キリストご自身であると告げる。父なる神は農夫として、枝である私たちに関わり続け、命を生かすために手入れをなさる。主イエスの「わたしにつながっていなさい(4)」という言葉は、不安を煽る命令ではなく、すでに与えられている命の関係の中にとどまるよう招く言葉である。私たちは自分の力で実を結ぶのではなく、まことのぶどうの木につながって生かされる者として、日々を歩んでいくのである。

2026.2.8 週報掲載の説教

2026.2.8 週報掲載の説教

<2025年11月23日説教から>

『共に住んでくださるイエス様』
ヨハネによる福音書14章15節~24節

牧師 鈴木美津子

ヨハネによる福音書14章15〜24節は、主イエスが十字架へ向かう直前、弟子たちの不安に真正面から向き合いながら語られた言葉である。主イエスは「心を騒がせるな」と励まし、「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られたが、その主イエスご自身が去ろうとしていることに、弟子たちは大きな戸惑いと恐れを覚えていた。主イエスがいなくなった後、どうしてその道を歩み続けることができるのか―その不安に対する答えとして語られたのが、本日の御言葉である。

主イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているなら、わたしの掟を守る(15)」と語られるが、これは弟子たちの力に期待した言葉ではない。むしろ、人は弱く、離れれば忘れてしまう存在であることを、主イエスはよく知っておられた。だからこそ主は、「別の弁護者」、すなわち聖霊を遣わすと約束されたのである。聖霊は「真理の霊」として、弟子たちと共に、そして彼らの内に住み、永遠に離れず支えてくださるお方である。主イエスが地上で弟子たちのそばにおられたように、今度は聖霊が内側から彼らを支え続けるのである。

その中心に置かれている約束が、「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない(18)」という言葉である。主イエスは復活の主として弟子たちの前に再び現れ、さらに昇天後も聖霊によって共におられる。―「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる(19)」―弟子たちの命と歩みは、自分の力ではなく、生ける主につながることによって保たれる。

主イエスはさらに、「父とわたしはその人と一緒に住む」と語られた。神は遠くにおられるのではなく、信じる者の内に住まわれる――これが福音の驚くべき約束である。掟を守る歩みも、努力や義務から生まれるのではなく、先に愛されている者として生きるところから実を結ぶ。

私たちは弱く、不安を抱え、立ち止まることがある。しかし「共に住んでくださる主」の約束があるゆえに、恐れの中でも歩み出すことができる。アドベントを前に、この約束を胸に、共におられる主を待ち望みつつ歩み出そう。