2026.8.30 週報掲載の説教

2026.8.30 週報掲載の説教

<2026年6月7日の説教から>

『平和を告げる復活の主』

ヨハネによる福音書20章19節〜29節

鈴木美津子

 
復活された主は、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちのところへ来られた。弟子たちは、マリアから「わたしは主を見ました」と聞いていたにもかかわらず、なお恐れの中にいた。十字架で主イエスが殺された以上、自分たちも捕らえられるかもしれない。その不安の中で、彼らは戸を閉ざしていたのである。

その弟子たちのただ中に、復活の主は立たれる。そして最初に語られたのは、「あなたがたに平和があるように」という言葉であった。これは単なる挨拶ではない。十字架によって隔てられていた神との関係が回復される、その平和の宣言である。弟子たちはイエスを見捨て、逃げ去った。しかし主は彼らを責めることから始められなかった。傷を負われたままの主として、彼らの中に立ち、平和を語られたのである。

さらに主は、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と、言われ、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と語られた。ここには新しい創造の始まりが示されている。世界はなお不安と争いの中にある。しかし復活の主によって、新しい歩みが始められているのである。教会は、ただ安心して生活する場所ではない。復活の主の平和を受け、その平和を携えて遣わされる群れなのである。

しかし、その場にトマスはいなかった。彼は「この目で見て確かめなければ信じない」と言う。ヨハネ福音書は、その疑いと迷いを隠していない。トマスもまた、分からないまま、なお主を求めていたのである。八日の後、主は再び弟子たちの中に立ち、「平和があるように」と語られた。そしてトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する。復活の主は、恐れや迷いの中にある者を退けず、そのただ中に来てくださるお方なのである。

2026.8.23 週報掲載の説教

2026.8.23 週報掲載の説教

<2026年5月31日の説教から>

『マリアの名を呼ばれる復活の主』

ヨハネによる福音書20章1節〜18

牧師 鈴木美津子

 
主イエスは十字架にかけられ、死んで、墓に葬られた。弟子たちは深い悲しみと戸惑いの中にあった。そのあとに迎えた朝、マグダラのマリアは、まだ暗いうちに墓へ向かった。墓に着くと、入り口をふさいでいた大きな石が取りのけられていた。マリアは驚く。しかし、何が起こったのかは、まだ分からない。マリアは弟子たちのもとへ走り、「主が墓から取り去られた」と告げる。

ペトロともう一人の弟子も墓へ向かい、中を見る。体を包んでいた布は残されていた。しかし、それでもなお、彼らには復活が分からない。ヨハネ福音書は、「二人はまだ理解していなかった」と語る。見ているのに分からない。そこにあっても気づかない。この復活の記事は、そのようなところから始まっている。

弟子たちは帰っていくが、マリアはその場にとどまり、泣き続ける。振り向くと、一人の人が立っている。しかし、それが主イエスであるとは分からない。主イエスは死んでしまった、そのように思い込んでいるからである。主を求めているのに、その主に気づくことができない。

そのとき、主イエスは「マリア」と名を呼ばれる。ただその一言で、すべてが変わる。マリアは、「ラボニ」と応える。自分で見いだしたのではない。主が先に呼ばれ、その呼びかけによって気づかされたのである。

さらに主イエスは、マリアを弟子たちのもとへ遣わされる。「わたしは主を見ました」と語る者とされたのである。ここから、一人に語られた主の言葉が、人から人へと広がっていく。教会の歩みは、この出来事から始まっている。

私たちもまた、自分でたどり着いたのではない。主に呼ばれてここに立たされている。どのような時にも、主は私たちの名を知り、呼びかけておられるのである。

2026.8.9 週報掲載の説教

2026.8.9 週報掲載の説教

『隣人となるということ ―平和はここから始まる―』

ルカによる福音書10章25〜37節

鈴木美津子

*本日の説教の要約です。

8月になると、私たちは広島、長崎、そして敗戦の日を覚え、平和について考える機会が多くなります。世界に目を向ければ、今なお戦争や争いによって多くの人々が苦しみの中を生きています。私たちは、「いつになったら平和になるのだろう」と願い、祈ります。しかし本日の御言葉は、私たちに「平和はどこから始まるのだろう」と問いかけています。

律法学者はイエス様に、「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねました。その問いの背景には、「誰まで愛すればよいのか」という思いがありました。そこでイエス様は、「良いサマリア人」のたとえを語られます。祭司もレビ人も倒れている人を見ながら通り過ぎました。しかし、当時ユダヤ人と対立していたサマリア人は、その人に近づき、傷の手当てをし、自分のろばに乗せ、宿まで連れて行き、回復するまで世話を頼み、費用まで支払いました。

イエス様は、「誰が私の隣人か」との問いに直接答えられませんでした。代わりに、「誰がその人の隣人となったか」と問い直されます。隣人とは、最初から決まっている人ではありません。目の前にいる人に近づき、その人を大切にするとき、私たちはその人の隣人となるのです。

しかし、このたとえは、ただ「あなたも良いサマリア人になりなさい」という教えではありません。まず、イエス様ご自身が私たちの隣人となってくださったという福音が語られています。罪によって神から離れ、自分では立ち上がることのできなかった私たちのもとへ、主は近づいてくださいました。そして十字架によって罪を担い、新しい命を与えてくださいました。その主の愛に生かされる者として、「行って、あなたも同じようにしなさい」と招かれているのです。

平和は、遠いところから始まるのではありません。まずイエス様が私たちを愛してくださったことから始まります。そして、その愛に生かされて、目の前にいる一人を大切にするところから、神が願われる平和は少しずつ広がっていくのです。

2026.8.2 週報掲載の説教

2026.8.2 週報掲載の説教

【2026年5月17日の説教から】

『刺し貫かれた小羊』

ヨハネによる福音書19章31節〜42節

鈴木美津子

 
十字架の上で主イエスが語られた「成し遂げられた」という言葉は、すべての終わりではなく、神の救いの御業の完成を示すものであった。本日の箇所は、その後に何が起こったかを語っている。一見すると出来事は静かに、淡々と進んでいる。だがその中で、聖書の言葉がそのとおりに実現していることが示されている。

主イエスの足が折られなかったのは偶然ではない。「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現した出来事である。これは出エジプトの過越の小羊に関わる言葉であり、小羊の血によって滅びが過ぎ越され、民が守られたあの出来事と重なる。主イエスはその過越の小羊として、今ここにおいて現実となっている。

また兵士が主イエスのわき腹を刺したとき、血と水とが流れ出た。この出来事も預言の成就である。ヨハネはこれを目撃した者として証しし、私たちにこの出来事を見るように促している。主イエスは確かに刺し貫かれ、確かに死なれた。その死は単なる暴力ではなく、聖書に語られていた出来事として起こったものである。

その後、ヨセフとニコデモが主イエスの遺体を葬る。これまで人目を避けていた者たちが静かに動き出す。彼らの行為は特別なものではなく、遺体を包み墓に納めるという現実の営みである。しかしその中で聖書の言葉が実現していく。

このように、十字架の出来事は劇的な奇跡としてではなく、人の目には静かに進んでいく。その中で、神の言葉が現実となっている。ここにこの出来事の確かさがある。それは人の理解や思いによって支えられるものではなく、神が語られたことが歴史の中で真実として現れているからである。

教会はこの出来事の上に立つ。私たちは何かを付け加えるためではなく、このお方がなしてくださった事実の中に置かれている。この一週も、刺し貫かれた主のもとに立ち返りながら、それぞれの歩みへと進んでいく。

2026.7.26 週報掲載の説教

2026.7.26 週報掲載の説教

【2026年5月10日の説教から】

『成し遂げられた救い』

ヨハネによる福音書19章17節〜30節

鈴木美津子

本日の御言葉は、十字架の上で主イエスが語られた「成し遂げられた」という言葉を中心に示している。この言葉は単なる終わりではない。力尽きて終わったという意味ではなく、神の救いの御業が完成したことを告げる言葉である。

主イエスは人々に引き渡されたが、ただ人の手に委ねられたままではない。「自ら十字架を背負い」とあるように、父なる神の御心の中で、この道を主体的に引き受けておられる。人に委ねられながらも、その歩みは神に向かって貫かれている。

十字架の上には「ユダヤ人の王」と記された罪状書きが掲げられる。本来は処刑理由を示すものであるが、人々はこれを書き換えようとした。しかしその言葉は書き換えられることなく残される。人が否定しようとしても、このお方が王であることは覆されない。王は玉座ではなく、十字架の上におられる。しかしその同じ場所で、人々は無関心の中にある。兵士たちは衣を分け合い、目の前の出来事の意味に心を向けない。一方で、十字架のそばに立つ者たちはその場にとどまり、主の言葉を受け取る。主は苦しみの中にあっても他者に向かい、新しい関係を与えられる。

さらに「渇く」という言葉において、詩編の祈りが重なる。主イエスはただ苦しんでいるのではなく、神に向かって叫びながら、なお神に向かっておられる。聖書の語ってきた祈りの道を、実際に歩まれているのである。

そして「成し遂げられた」と語られる。この出来事は偶然ではなく、これまで語られてきた神の約束がここで実現したことを意味する。救いは可能性ではなく、すでに成った事実である。

礼拝とは、この完成された救いの前に立つことである。私たちは何かを成し遂げるために集められるのではなく、すでに成し遂げられた御業によって立たされている。なお整えられている途上にあるまま、それぞれの歩みへと遣わされていくが、その土台は揺らがない。この御言葉に支えられて歩む一週間へと導かれていく。

2026.7.12 週報掲載の説教

2026.7.12 週報掲載の説教

【2026年5月3日の説教から】

『十字架へ向かう王』

ヨハネによる福音書19章1節〜16節

鈴木美津子

 
本日の箇所において、総督ピラトは鞭打たれ、茨の冠をかぶせられた主イエスを指して「見よ、この男だ」と言う。この主イエスの姿は、力を失い辱められた一人の人にしか見えない。しかしヨハネ福音書は、この場面を単なる敗北としてではなく、このお方が誰であるかが現される場面として描いている。王のしるしである冠と衣は嘲りのために用いられているが、その逆説の中で、このお方こそ真の王であることが示されている。王の栄光は、力による支配ではなく、父なる神への従順とへりくだりの中に現れるのである。

人々はこの王を受け入れず、「十字架につけろ」と叫び、「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と言って、神の王を退け別の支配を選び取る。本来神を王と告白してきた民が、自らその告白を否定しているのである。ここに、人が見える力や分かりやすい拠りどころに寄りかかり、神を退けてしまう現実がある。そのような選びの中で、バラバが釈放され、主イエスが引き渡される。罪ある者が放たれ、罪のないお方が十字架へと進む。この出来事は単なる入れ替わりではなく、本来その場に立つべきであった者の位置に、このお方が立たれるという出来事である。イザヤ書が語る「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのため」という言葉がここに実現している。

この十字架は偶然ではなく、御子が自らを差し出された歩みである。したがってこれは敗北ではなく、民のために自らを与える真の王の道である。

私たちは今、十字架と復活の間に立たされている。その場としての礼拝において、自らの現実と赦しの恵みを知らされる。そして聖餐において、この贖いにあずかる。十字架によって赦され、復活の命に生かされる者として、この一週もそれぞれの場へ遣わされていく。