2025.9.21 週報掲載の説教

2025.9.21 週報掲載の説教

<2025年8月17日の説教から>

命の広がり

ヨハネによる福音書12章20節〜26節

牧師 鈴木美津子

主イエスがエルサレムに入城されたとき、人々はローマから自分たちを解放する王を待ち望んでいた。しかし主は、軍事的な力で一民族を救うのではなく、全世界の人々に永遠の命を与える神の子として来られた。そのことを象徴する出来事が、過越祭に異邦人であるギリシア人が「イエスに会いたい」と願った場面である。ここに福音がユダヤ人の枠を越え、世界へと広がる転換点が示されている。このとき主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られた。栄光とは世の成功や名声を指すのではなく、十字架にかかって命を捨てることを意味していた。主イエスは「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と言われた。麦の殻が破れて初めて芽が出るように、主イエスの死によって神の命が全世界へ広がっていくからである。

さらに「自分の命を愛する者はそれを失う」と語られた。ここでいう「命を愛する」とは、自分だけを守ろうとする自己中心の生き方を意味する。自分の安定や利益を第一にして殻に閉じこもるなら、命は一粒のままである。しかし隣人のために仕えるとき、殻は破れ、そこから命があふれ出す。主イエスはその道を十字架と復活を通して示してくださった。

詩編67編は「神が私たちを祝福してくださいますように」と祈りながら、その祝福が自分たちの囲いの中に閉じこもるのではなく、「地の果てに至るまで」広がることを願っている。神の愛と祝福は決して私たちだけのものではなく、全ての人に及ぶもの。だからこそ、信仰者の歩みは「与えられた祝福を分かち合う」方向へと導かれる。私たちの日常においても、命を広げる小さな実践がある。家庭での祈り、困難を抱える人への励まし、社会での誠実な働き。その一つひとつが一粒の麦のように蒔かれ、やがて神の時に豊かな実を結ぶ。たとえすぐに成果が見えなくても、神は必ずその種を育ててくださる。

戦争や分断が続くこの世界にあって、和解と赦しを生み出すのは神の愛である。十字架において示された主イエスの自己犠牲の愛は、私たちを平和の器として用い、命を広げる力とする。今日、私たちもまた「一粒の麦」として、自らの殻を破り、隣人へ、社会へ、そして世界へと神の祝福を広げる歩みへと招かれている。

2025.9.14 週報掲載の説教

2025.9.14 週報掲載の説教

<2025年8 月3日説教から>

真の王は子ろばに乗っておいでになる

ヨハネによる福音書12章12節〜12章19節

鈴木 美津子

 
主イエスは受難の週の初め、エルサレムへと入場された。過越祭を前に都エルサレムは巡礼者で溢れ帰っていた。群衆はなつめやしの枝を振りかざし、「ホサナ、イスラエルの王に」と熱狂的に主イエスを迎える。彼らは、病を癒し、死者をも復活させた主イエスの力に魅了され、ローマ帝国から解放し国を建て直す王としての姿を夢見ていたのだ。しかしその期待は、人間的な力と支配による勝利を求めるものに過ぎなかった。

主イエスがエルサレム入城に際し選ばれたのは軍馬ではなく「ろばの子」であった。ろばは権力や武力を象徴するものではなく、労苦と従順のしるしである。旧約ゼカリヤ書に「見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」と預言されていた通り、主イエスは平和の王として来られた。人々の期待とは異なる謙遜な姿によって、神の国のあり方を示されたのである。

しかし弟子たちでさえ、その意味をすぐには理解できなかった。群衆もまた誤解し、やがて「十字架につけよ」と叫ぶようになるのだ。人々の熱狂は簡単に憎しみに変わり、王として迎えられたお方は十字架へと追いやられていく。けれどもその誤解や拒絶さえも、神は御計画の中に用いられる。十字架と復活によって、主イエスは人類の罪を贖い、真の救いを実現されるのである。

「ホサナ」とは本来「どうか救ってください」という祈りの言葉である。群衆は政治的解放を願って叫んだが、その叫びは結果的に、神の救いを宣言する言葉となった。人間の思いや言葉の限界を超えて、神は御業を進められるからである。私たちは自分の弱さや愚かさに気を取られがちであるが、真に支配しておられるのは神である。主イエスが「ろばの子」に乗られた謙遜な姿は、力や暴力ではなく愛と平和による王の姿を指し示している。今も世界では戦争や争いが絶えない。だからこそ私たちは、「ホサナ、主よ、どうか救ってください」と真の平和の実現を切に祈り願い、この平和の王を信じ従い歩み続けるのである。

2025.9.7 週報掲載の説教

2025.9.7 週報掲載の説教

<2025年7月27日説教から>

「ナルドの香油」

ヨハネによる福音書11章54節~12章11節

牧師  鈴木美津子

ラザロの復活は人々に大きな驚きを与え、「救い主が来られた」との大きな期待が生まれた。しかしユダヤ当局は、ローマからの報復を恐れ、主イエスを殺すことを決議した。ラザロもまた、多くの人を主イエスに導いたとされて命を狙われることになった。過越祭を前にエルサレム全体が異常な緊張に包まれていた。

そのただ中でベタニアの家では、静かで温かい食卓が囲まれていた。マルタは給仕として仕え、ラザロは復活した者として生きていること自体が証しであった。そしてマリアは、純粋で高価なナルドの香油を惜しみなく主イエスの足に注ぎ、自分の髪でぬぐった。その香りは家中に広がった。

その価値は一年分の賃金に相当するほどであり、弟子ユダは「貧しい人々に施すべきだった」と批判した。ユダの言葉は、もっともらしく聞こえるが、彼の心は主ではなく金に向いていた。主イエスは「そのままにしておきなさい。これはわたしの葬りの日のためである」と語り、マリアの献身を受け入れた。

さらに主イエスは「貧しい人々はいつも共にいる。しかしわたしはいつもいるわけではない」と言われた。これは申命記にある「苦しむ者に手を大きく開け」という命令を前提とした言葉である。日常において貧しい人を助けるのは当然の務めである。その上で、今この時に主イエスに仕えることのかけがえのなさが強調されたのである。

マリアの献身は決して無駄ではなく、家を満たした香りとなり、やがて全世界に伝えられる証しとなった。それは今日の教会にまで続く「献身の香り」である。私たちもまた、主イエスに生かされている存在そのものを証しし、マリアのように惜しみなく愛を注ぐ者でありたいと願いたい。

不安と緊張に満ちた時代のただ中で、私たちの生活もまた

容易ではない。けれどもマリアがそうしたように、主に心を

注ぎ、与えられたものを感謝をもってささげるなら、その場

はキリストの香りに満ちる。だから、今週もまたこれからも

私たちの小さな歩みがその香りを放つものとなることを願う

のである。

2025.8.31 週報掲載の説教

2025.8.31 週報掲載の説教

<2025年7月20日説教から>

「身代わりの死」

ヨハネによる福音書11章45節~57節

牧師  鈴木美津子

ここでは、ラザロの復活後に起こった出来事を通して、「身代わりの死」という福音の核心が語られている。死者ラザロの復活という最大の奇跡が、多くの人を信仰へ導く一方で、宗教指導者たちの反発を招いた。主イエスの奇跡を目撃し信じる者もいれば、最高法院に告げ口する者もいたからである。最高法院は、サドカイ派とファリサイ派という本来対立する派閥が、主イエスという共通の「脅威」に対して結託した。その背景には、ローマ帝国への恐れと、自分たちの地位・秩序を守ろうとする思惑があった。

この中で、大祭司カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方がよい」と発言する。これは政治的打算からの犠牲論であったが、ヨハネはこれを神の預言として読み解いている。カイアファは意図せず、主イエスが国民だけでなく「散らされている神の子たちを一つに集めるため」に死ぬことを語っていたのである。つまり、人間の悪意や計略の背後で、神の救いの計画が粛々と進められていたのである。

「身代わり」とは、他者のために自ら犠牲となること。旧約のいけにえ制度に見られるように、罪の赦しのためには身代わりが必要とされた。新約では、罪なきキリストが私たちの罪のために十字架で死ぬことによって、この身代わりが完全に成就した。それはローマ5章8節が示す神の愛の極みである。

旧約聖書イザヤ書49章は「主の僕」の使命を語り、イスラエルを回復し、地の果てまで救いをもたらす者を預言している。やがてこの僕は、53章の「苦難の僕」、すなわち人々の罪のために苦しみ、命をささげる身代わりの僕へとつながる。それがイエス・キリストにおいて実現したと新約聖書は告げる。

この出来事から私たちは、人間の歴史の表舞台で権力者たちが動く一方、その背後で神の救いの計画が静かに、しかし確実に進んでいることを知る。主イエスの十字架は、単なる犠牲ではなく、全人類の罪の贖いとしての身代わりの死であり、神の愛の決定的な証しである。

この福音は今を生きる私たちにも変わらず注がれ、神は人間の不信や悪意さえも用いて、ご自分の救いの御業を成就される。主イエスはこうして十字架への道を歩まれ、私たちに命を与えるために、ご自分を差し出されたのである。

2025.8.17 週報掲載の説教

2025.8.17 週報掲載の説教

<2025年7月13日の説教から>

ラザロ、出てきなさい

ヨハネによる福音書11章38節〜44節

鈴木 美津子

 
当時のユダヤの墓は、山の岩をくり抜いた横穴で、遺体を安

置したのち、重い石で入口をふさぐものであった。その石は、

生と死の世界を隔てる冷たく重い障壁であり、絶望の象徴でも

あった。その前で、主イエスは「その石を取りのけなさい」

と命じられた。これは、死と命を隔てる壁を取り除く、神の力の宣言であった。しかしマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と答えた。この言葉には、死とはもうどうすることもできない、取り返しのつかない現実だという人間の限界の認識が込められている。私たちもまた、死の前に立つとき、信仰よりも現実の重さに押しつぶされそうになるのではないか。

そんなマルタに、主イエスは「もし信じるなら、神の栄光を見る」と語られた。信仰によって、絶望ではなく希望と栄光を見ることができる。デンマークの思想家キルケゴールは、ここから「死に至る病は絶望である」と語り、信じることを失った状態こそが最も死に近いのだと述べた。

「ラザロ、出て来なさい」。主イエスのこの叫びは、終わりの日にすべての人に向けられる言葉でもある。主イエスご自身、「墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞いて出て来る」と語られた。ラザロの復活は、全人類の復活の先駆けであり、その出来事は驚きというよりも、静かな確信として語られている。

注目すべきは、ラザロが何も語らないことである。彼はただ、呼び出された。それは、復活とは人間の力によるものではなく、神の一方的な恵みによるものであることを示している。私たちはただ信じ、ただ委ねるほかない。

そしてこの奇跡の直後、主イエスは十字架に向かって歩み出された。ラザロが墓から出て来る一方で、主イエスは死へと向かって行かれるのである。命と死の場所が逆転する。

やがて私たちも死を迎えるが、主の御声により「出て来なさい」と呼ばれる日が来る。その希望の根拠は、主イエス・キリストの十字架にある。この恵みに感謝しつつ、共に復活の希望を携えて歩みたいと願う。

2025.8.10 週報掲載の説教

2025.8.10 週報掲載の説教

<2025年7月6日の説教から>

涙を流されるイエス様

ヨハネによる福音書11章28節〜37節

鈴木 美津子

 
「イエスは涙を流された(35)」。この有名な一節には、主イエスの深い心の動きが表れています。ここで使われている「涙を流された」という言葉は、マリアやユダヤ人たちのように声をあげて泣くのではなく、静かに涙があふれ出ることを意味している。主イエスは、愛する者の死によって嘆き悲しみに沈む人々の姿を見て、心を痛め、深く悲しみ、涙されたのである。

主イエスは、死という神の命とは正反対の力に、人間が支配されている現実を見つめ、その痛みと苦しみを、まるでご自身のことのように受け止められた。ヨハネ福音書は、主イエスを「私たちの悲しみを共に背負うお方」として描いているのである。そして、愛が破れるところにこそ、神の愛はより深く注がれるのだと語っている。

主イエスは、ラザロの復活を通して、「もし信じるなら、神の栄光を見る」と語られた。確かにラザロはこのとき生き返ったが、再び死ぬ日が来る。主イエスがこの出来事によって真に新しく生かそうとされていたのは、マルタとマリア、そして私たち自身である。ラザロの復活の出来事が示しているのは、死や病のただ中にあっても、神との交わりが絶たれることはないということである。神が与えてくださる命は、永遠に続くからである。

使徒パウロは「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。(コリント一15:42-43)」と語っている。この復活の命の約束は、将来の希望であると同時に、「今を生きる」私たちに向けられた恵みでもある。「あなたはそれを信じるか?」主イエスは、私たちの嘆きや悲しみに共に涙を流しながら、命への信仰へと私たちを招いておられるのである。