2026.5.10 週報掲載の説教
<2026年2月22日の説教から>
『栄光を返す祈り』
ヨハネによる福音書17章1節〜5節
鈴木 美津子
主イエスは、弟子たちに語るべき言葉を語り終えた後、天を仰いで父なる神に祈られる。その祈りは、苦難を前にした嘆願というよりも、御子がその歩み全体を父に委ねる祈りであり、十字架へと向かう決断そのものが祈りとして差し出されている姿である。
祈りの冒頭で語られる「時が来ました」との言葉は、単なる時間の経過ではなく、神の救いのご計画が現実の出来事として進み始める決定的な時を指している。それは栄光ある勝利の時ではなく、裏切り、裁き、嘲り、そして十字架へと至る時である。しかし主イエスは、その「時」を避けることを願われず、「子があなたの栄光を現すように」と祈られる。ヨハネ福音書において、神の栄光は十字架にかけられる御子の姿において最も深く示される場所。主イエスはご自身の苦しみと死を、父の栄光が現される場所として引き受けられるのである。
さらに主イエスは、父から与えられた「権能」について語られるが、それは人を支配する力ではなく、人を命へと向かわせる力であり、ご自身の命を差し出すことによって「永遠の命」を示す力である。永遠の命とは、時間の長さとしての命ではなく、父なる神と御子イエス・キリストを「知る」こと、すなわち神との関係の中に生きる命である。この関係は、人の理解や信仰の完成度によって決まるのではなく、イエス・キリストによって与えられる。
主イエスが「わたしは業を成し遂げた」と語られるとき、出来事としては十字架はまだ起こっていない。しかしそれは、父から託された使命について、もはや引き返さずに引き受け切っているという告白である。この歩みは、旧約聖書イザヤ書42章に描かれる「主の僕」の姿とも響き合い、力や人の評価によらず、神の御心に忠実に生きる歩みである。
この祈りの中に、理解しきれず揺らぐ弟子たちも委ねられている。ここに教会の姿が示されている。教会とは、すでに答えを持つ者の集まりではなく、問いを抱えつつ、祈られて歩む群れである。レントの歩みに招かれる私たちは、主の受難の道を遠くから眺めるのではなく、祈られて生きる者として、その道のただ中に立たされているのである。
2026.5.3 週報掲載の説教
2026.5.3 週報掲載の説教
<2026年2月8日の説教から>
『悲しみは喜びに変わる』
ヨハネによる福音書16章16節〜33節
牧師 鈴木美津子
ヨハネによる福音書16章後半は、十字架を前にした夜、主イエスが弟子たちに語られた最後の長い教えの締めくくりである。弟子たちは主イエスと同じ食卓を囲みながらも、迫害や別れ、散らされることが語られる中で、不安と戸惑いのただ中に置かれていた。主が語られた「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる(16)」という言葉も、弟子たちを安心させるものではなく、かえって混乱を深めた。弟子たちは主の前にいながら、その意味を直接問いかけることができず、互いの間で語り合うしかなかった。
主イエスは、その弟子たちの悲しみを、子を産む女性の苦しみにたとえられる。ここで主が語られるのは、苦しみが軽くなるということではない。出産の苦しみがそうであるように、悲しみは重く、説明し尽くせない現実である。しかしその苦しみが、新しい命へと結ばれる出来事の中に置かれるとき、後から別の光のもとで受け止め直される。弟子たちの別れや沈黙の悲しみもまた、神の救いから切り離された出来事ではなかった。
復活の後、「その日」には、弟子たちは主イエスの名によって、父なる神に祈る者とされる。祈りは、努力して身につける技術ではなく、復活によって新しく開かれた神との関係そのものである。問いが消えてしまうのではなく、恐れの中で抱え込まれていた問いが、信頼の中で神に向かって語られるようになる。
弟子たちは主イエスへの信仰を告白するが、その信仰はなお弱く、この先に起こる出来事に耐えきれるものではなかった。彼らはやがて主を置いて逃げてしまう。しかしそれでも、主は弟子たちを見捨てず、「わたしは既に世に勝っている」と語られる。ここにある平安と喜びは、人の信仰の強さや理解の深さに基づくものではなく、イエス・キリストご自身がすでに成し遂げておられる勝利に基づくものである。教会もまた弱さを抱えながら、この確かな約束に支えられて、慰めの中を歩み続けていく。
<2026年2月8日の説教から>
『悲しみは喜びに変わる』
ヨハネによる福音書16章16節〜33節
牧師 鈴木美津子
ヨハネによる福音書16章後半は、十字架を前にした夜、主イエスが弟子たちに語られた最後の長い教えの締めくくりである。弟子たちは主イエスと同じ食卓を囲みながらも、迫害や別れ、散らされることが語られる中で、不安と戸惑いのただ中に置かれていた。主が語られた「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる(16)」という言葉も、弟子たちを安心させるものではなく、かえって混乱を深めた。弟子たちは主の前にいながら、その意味を直接問いかけることができず、互いの間で語り合うしかなかった。
主イエスは、その弟子たちの悲しみを、子を産む女性の苦しみにたとえられる。ここで主が語られるのは、苦しみが軽くなるということではない。出産の苦しみがそうであるように、悲しみは重く、説明し尽くせない現実である。しかしその苦しみが、新しい命へと結ばれる出来事の中に置かれるとき、後から別の光のもとで受け止め直される。弟子たちの別れや沈黙の悲しみもまた、神の救いから切り離された出来事ではなかった。
復活の後、「その日」には、弟子たちは主イエスの名によって、父なる神に祈る者とされる。祈りは、努力して身につける技術ではなく、復活によって新しく開かれた神との関係そのものである。問いが消えてしまうのではなく、恐れの中で抱え込まれていた問いが、信頼の中で神に向かって語られるようになる。
弟子たちは主イエスへの信仰を告白するが、その信仰はなお弱く、この先に起こる出来事に耐えきれるものではなかった。彼らはやがて主を置いて逃げてしまう。しかしそれでも、主は弟子たちを見捨てず、「わたしは既に世に勝っている」と語られる。ここにある平安と喜びは、人の信仰の強さや理解の深さに基づくものではなく、イエス・キリストご自身がすでに成し遂げておられる勝利に基づくものである。教会もまた弱さを抱えながら、この確かな約束に支えられて、慰めの中を歩み続けていく。
2026.4.26 週報掲載の説教
2026.4.26 週報掲載の説教
<2026年2月1日の説教から>
『真理の霊に導かれて』を
ヨハネによる福音書16章1節〜15節
鈴木美津子
16章で、主イエスは十字架を前に、弟子たちにこれから起こる現実を率直に語られる。「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである(1)」。それは弟子たちを怖がらせるためではなく、苦しみの中でも自分たちがどこに立っているのかを見失わないためであった。
主イエスは、弟子たちが会堂から追放され、信仰ゆえに居場所を失う現実を告げる。しかも迫害は、神に仕えていると思い込む者たちによって起こる。しかし主イエスは、弟子たちがその時「こんなはずではなかった」とつまずかないために、前もって言葉を与えられた。
それでも弟子たちの心を占めていたのは、「世から憎まれる恐れ」以上に、「主イエスが去って行く」という深い悲しみであった。だが主イエスは驚くべきことを語られる。「わたしが去って行くことは、あなたがたのためになる(7)」。それは、主が不在になるということではなく、聖霊――真理の霊が遣わされ、神の臨在がより近いものとなる始まりであった。
真理の霊は、罪・義・裁きについて世を照らす。罪とはキリストを信じないこと、義とは十字架と復活を通して示されたキリストご自身、裁きとはすでに神の側で確定したこの世の支配者の敗北である。弟子たちは世を裁く者とされるのではなく、神の働きが起こる現場に立たされる者とされる。
すべてを一度に理解できなくても、真理の霊は歩みの中で少しずつ導いてくださる。教会もまた、自らの知恵や正しさによってではなく、真理の霊の導きによって支えられている。浦和教会は今、新しい体制のもとで、対立や力ではなく、十字架によって与えられた和解と命に立ち、真の平和を宣べ伝える教会として歩み始める。
<2026年2月1日の説教から>
『真理の霊に導かれて』を
ヨハネによる福音書16章1節〜15節
鈴木美津子
16章で、主イエスは十字架を前に、弟子たちにこれから起こる現実を率直に語られる。「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである(1)」。それは弟子たちを怖がらせるためではなく、苦しみの中でも自分たちがどこに立っているのかを見失わないためであった。
主イエスは、弟子たちが会堂から追放され、信仰ゆえに居場所を失う現実を告げる。しかも迫害は、神に仕えていると思い込む者たちによって起こる。しかし主イエスは、弟子たちがその時「こんなはずではなかった」とつまずかないために、前もって言葉を与えられた。
それでも弟子たちの心を占めていたのは、「世から憎まれる恐れ」以上に、「主イエスが去って行く」という深い悲しみであった。だが主イエスは驚くべきことを語られる。「わたしが去って行くことは、あなたがたのためになる(7)」。それは、主が不在になるということではなく、聖霊――真理の霊が遣わされ、神の臨在がより近いものとなる始まりであった。
真理の霊は、罪・義・裁きについて世を照らす。罪とはキリストを信じないこと、義とは十字架と復活を通して示されたキリストご自身、裁きとはすでに神の側で確定したこの世の支配者の敗北である。弟子たちは世を裁く者とされるのではなく、神の働きが起こる現場に立たされる者とされる。
すべてを一度に理解できなくても、真理の霊は歩みの中で少しずつ導いてくださる。教会もまた、自らの知恵や正しさによってではなく、真理の霊の導きによって支えられている。浦和教会は今、新しい体制のもとで、対立や力ではなく、十字架によって与えられた和解と命に立ち、真の平和を宣べ伝える教会として歩み始める。
2026.4.19 週報掲載の説教
2026.4.19 週報掲載の説教
『主が建てられる教会』
エフェソの信徒への手紙2章19~22節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
浦和教会の歩みは、宣教師や伝道者の働きによって福音がこの地にもたらされたことに始まります。その後、伝道所の開設を経て教会が建てられ、今日に至るまで歩みが続けられてきました。その間には戦争の時代やコロナ禍など、思うように集うことができない困難な時もありました。それでも教会は歩みを止めることなく続いてきました。それは、人の力によるのではなく、神ご自身が教会を建て、支えてこられたからです。
聖書は「あなたがたはもはや外国人でも寄留者でもない(19)」と語ります。私たちは時に、自分がここにいてよいのかと感じられず、距離を覚えることがあります。しかし神は私たちを招き、ここに置いてくださいました。教会は、正しい人や熱心な人だけの集まりではなく、神に呼ばれた者たちが、共に生きる場所です。
キリストの教会は、使徒と預言者の証しの上に建てられ、そのかなめ石はイエス・キリストご自身です。私たちは揺らぎやすい存在ですが、イエス・キリストは変わることなく教会を支え続けておられます。ここに教会の確かさがあります。
教会はまた、違いを持った人々が組み合わされる群れです。違いは取り除かれるのではなく、神の働きの中で互いを支え合うものとされます。そして教会は完成された場所ではなく、今も成長の途上にあります。これまでの歩みも、ここまで導かれ、今も、そしてこれからも導かれていく歩みです。それは私たち一人ひとりも同じであり、途中にあるままで神に用いられていきます。
教会を建てておられるのは神であり、私たちはその働きの中に置かれています。だからこそ私たちは安心して歩むことができるのです。
浦和教会もまた、これまでの歩みを受け継ぎ、ここに集められた一人ひとりと共に、そしてこれから集められていく人々と共に、100年に向けて、さらにその先へと、主に導かれながら歩み続けていくのです。
『主が建てられる教会』
エフェソの信徒への手紙2章19~22節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
浦和教会の歩みは、宣教師や伝道者の働きによって福音がこの地にもたらされたことに始まります。その後、伝道所の開設を経て教会が建てられ、今日に至るまで歩みが続けられてきました。その間には戦争の時代やコロナ禍など、思うように集うことができない困難な時もありました。それでも教会は歩みを止めることなく続いてきました。それは、人の力によるのではなく、神ご自身が教会を建て、支えてこられたからです。
聖書は「あなたがたはもはや外国人でも寄留者でもない(19)」と語ります。私たちは時に、自分がここにいてよいのかと感じられず、距離を覚えることがあります。しかし神は私たちを招き、ここに置いてくださいました。教会は、正しい人や熱心な人だけの集まりではなく、神に呼ばれた者たちが、共に生きる場所です。
キリストの教会は、使徒と預言者の証しの上に建てられ、そのかなめ石はイエス・キリストご自身です。私たちは揺らぎやすい存在ですが、イエス・キリストは変わることなく教会を支え続けておられます。ここに教会の確かさがあります。
教会はまた、違いを持った人々が組み合わされる群れです。違いは取り除かれるのではなく、神の働きの中で互いを支え合うものとされます。そして教会は完成された場所ではなく、今も成長の途上にあります。これまでの歩みも、ここまで導かれ、今も、そしてこれからも導かれていく歩みです。それは私たち一人ひとりも同じであり、途中にあるままで神に用いられていきます。
教会を建てておられるのは神であり、私たちはその働きの中に置かれています。だからこそ私たちは安心して歩むことができるのです。
浦和教会もまた、これまでの歩みを受け継ぎ、ここに集められた一人ひとりと共に、そしてこれから集められていく人々と共に、100年に向けて、さらにその先へと、主に導かれながら歩み続けていくのです。
2026.4.5 週報掲載の説教
2026.4.5 週報掲載の説教
『命がもう一度開いた朝』
ルカによる福音書24章1~12節
鈴木 美津子
*本日の説教の要約です。
イースターは、イエス・キリストの復活を喜ぶ日です。十字架で終わったように見えた命を、神様がもう一度起こしてくださいました。イエス様は生きておられます。この出来事こそ、教会の喜びの土台です。
けれども、最初のイースターの朝は、はじめから喜びに満ちていたわけではありませんでした。イエス様は十字架で息を引き取られ、墓に葬られました。墓の入口は大きな重い石で閉ざされ、人の目にはすべてが終わったように見えました。
週の初めの日の明け方、女性たちはイエス様の遺体に香料を塗り、丁寧に葬るために墓へ向かいました。それは、愛する方への最後の思いを込めた行いでした。しかし墓に着くと、入口の石はすでに転がされており、墓の中にイエス様の体はありませんでした。聖書は、そのとき女性たちが「途方に暮れた」と記しています。何が起きたのか分からなかったからです。
そのとき、輝く衣を着た二人の人が現れ、こう告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。(6)」これは、人の気持ちの変化を語る言葉ではありません。神様が本当にイエス様を死からよみがえらせたという知らせです。
女性たちはこの出来事を弟子たちに伝えましたが、弟子たちはすぐには信じることができませんでした。聖書は「この話がたわ言のように思われた」と記します。ただ、ペトロは墓へ走り、空になった墓を見て驚きました。まだすべてを理解したわけではありませんでしたが、そのときにはすでに神様の出来事は起きていたのです。復活の喜びは、人が理解してから始まるのではありません。神様がなさった出来事から始まります。十字架で終わったように見えたところで、神様は命をもう一度起こされました。
イエス様は生きておられます。この知らせは、時代を越えて今日の私たちにも届けられています。復活の主は今も生きておられ、私たちと共に歩んでくださいます。ここに、イースターの喜びがあります。
『命がもう一度開いた朝』
ルカによる福音書24章1~12節
鈴木 美津子
*本日の説教の要約です。
イースターは、イエス・キリストの復活を喜ぶ日です。十字架で終わったように見えた命を、神様がもう一度起こしてくださいました。イエス様は生きておられます。この出来事こそ、教会の喜びの土台です。
けれども、最初のイースターの朝は、はじめから喜びに満ちていたわけではありませんでした。イエス様は十字架で息を引き取られ、墓に葬られました。墓の入口は大きな重い石で閉ざされ、人の目にはすべてが終わったように見えました。
週の初めの日の明け方、女性たちはイエス様の遺体に香料を塗り、丁寧に葬るために墓へ向かいました。それは、愛する方への最後の思いを込めた行いでした。しかし墓に着くと、入口の石はすでに転がされており、墓の中にイエス様の体はありませんでした。聖書は、そのとき女性たちが「途方に暮れた」と記しています。何が起きたのか分からなかったからです。
そのとき、輝く衣を着た二人の人が現れ、こう告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。(6)」これは、人の気持ちの変化を語る言葉ではありません。神様が本当にイエス様を死からよみがえらせたという知らせです。
女性たちはこの出来事を弟子たちに伝えましたが、弟子たちはすぐには信じることができませんでした。聖書は「この話がたわ言のように思われた」と記します。ただ、ペトロは墓へ走り、空になった墓を見て驚きました。まだすべてを理解したわけではありませんでしたが、そのときにはすでに神様の出来事は起きていたのです。復活の喜びは、人が理解してから始まるのではありません。神様がなさった出来事から始まります。十字架で終わったように見えたところで、神様は命をもう一度起こされました。
イエス様は生きておられます。この知らせは、時代を越えて今日の私たちにも届けられています。復活の主は今も生きておられ、私たちと共に歩んでくださいます。ここに、イースターの喜びがあります。
2026.3.29 週報掲載の説教
2026.3.29 週報掲載の説教
『静かに包まれた愛―新しい朝を待つ夜―』
ルカによる福音書23章44~56節
鈴木 美津子
*本日の説教の要約です。
本日は受難週のはじまりに、ルカによる福音書23章44〜56節から、イエス・キリストの十字架の出来事を聴きます。エルサレム入城の時、人々は歓声をあげてイエス様を迎えました。しかし数日のうちに状況は一変し、イエス様は捕らえられ、十字架につけられます。期待は怒号そして沈黙へと変わり、弟子たちは散らされ、十字架の下にはわずかな人々しか残りませんでした。受難週は、この大きな落差の中を歩く一週間です。
昼なのに暗くなり、神殿の垂れ幕が裂けた出来事は、当時の人々にとって恐ろしく、落ち着かない出来事でした。イエス様は罪のないお方でありながら、罪人として処刑され、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈って息を引き取られました。これは現実に起きた出来事であり、どの時代の人々とも、そして今の私たちとも深く結びついています。十字架は、神様が私たちのところまで来てくださったことを示す出来事です。
十字架の下には、百人隊長、群衆、そして従ってきた女性たちなど、さまざまな人がいました。だれもが同じ受け止め方をしたわけではありませんが、何も感じずに帰れた人はいなかったでしょう。その夜は、すぐに意味が分かる「良い知らせ」ではなく、不安と戸惑いの夜でした。
アリマタヤ出身のヨセフは、イエス様の遺体を引き取り葬りました。一方、女性たちは安息日のため、香料を用意しながらも何もできず、ただ待つ夜を過ごしました。人の手では何も動かせない夜でしたが、神様の時は止まっていませんでした。旧約聖書の哀歌の言葉が語るように、主の慈しみと憐れみは、この夜にも尽きることがありません。
受難週は、主の十字架を思うと、心が揺れ、言葉にならない気持ちを抱えたまま歩む一週間です。それでも、イエス様は私たちのそばに共にいてくださいます。たとえ、気持ちが整わないままでも、この一週間を歩み、神様が備えてくださる復活の朝を、静かに待ち望みたいと思います。
『静かに包まれた愛―新しい朝を待つ夜―』
ルカによる福音書23章44~56節
鈴木 美津子
*本日の説教の要約です。
本日は受難週のはじまりに、ルカによる福音書23章44〜56節から、イエス・キリストの十字架の出来事を聴きます。エルサレム入城の時、人々は歓声をあげてイエス様を迎えました。しかし数日のうちに状況は一変し、イエス様は捕らえられ、十字架につけられます。期待は怒号そして沈黙へと変わり、弟子たちは散らされ、十字架の下にはわずかな人々しか残りませんでした。受難週は、この大きな落差の中を歩く一週間です。
昼なのに暗くなり、神殿の垂れ幕が裂けた出来事は、当時の人々にとって恐ろしく、落ち着かない出来事でした。イエス様は罪のないお方でありながら、罪人として処刑され、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈って息を引き取られました。これは現実に起きた出来事であり、どの時代の人々とも、そして今の私たちとも深く結びついています。十字架は、神様が私たちのところまで来てくださったことを示す出来事です。
十字架の下には、百人隊長、群衆、そして従ってきた女性たちなど、さまざまな人がいました。だれもが同じ受け止め方をしたわけではありませんが、何も感じずに帰れた人はいなかったでしょう。その夜は、すぐに意味が分かる「良い知らせ」ではなく、不安と戸惑いの夜でした。
アリマタヤ出身のヨセフは、イエス様の遺体を引き取り葬りました。一方、女性たちは安息日のため、香料を用意しながらも何もできず、ただ待つ夜を過ごしました。人の手では何も動かせない夜でしたが、神様の時は止まっていませんでした。旧約聖書の哀歌の言葉が語るように、主の慈しみと憐れみは、この夜にも尽きることがありません。
受難週は、主の十字架を思うと、心が揺れ、言葉にならない気持ちを抱えたまま歩む一週間です。それでも、イエス様は私たちのそばに共にいてくださいます。たとえ、気持ちが整わないままでも、この一週間を歩み、神様が備えてくださる復活の朝を、静かに待ち望みたいと思います。
