2025.2.16 週報掲載の説教
<2025年1月19日の説教から>
『わたしをお遣わしになった方』
ヨハネによる福音書7章25節〜36節
牧師 鈴木美津子
確かに人々は主イエスがガリラヤのナザレ出身であることを知っていた。しかし、彼らは主イエスの本当の出身がどこであるかを知らない。それは主イエスが神から遣わされたお方であることを彼らが信じようとしないからである。主イエスが神から遣わされたことを信じないのは、彼らが神を知らないからに他ならない。主イエスが父である神から遣わされたことを信じるかどうか。これが信仰と不信仰の分かれ目とも言える大切な点である。この後、主イエスは何度も、御自分が神から遣わされた者であることを教えられる。福音書記者ヨハネによれば、弟子とはこのことを知り、信じた者たちのことを言うのである。主イエスの弟子とは、主イエスが語られる神から受けた言葉を受け入れること、主イエスが神の御もとから出てきたことを本当に知ること、神が主イエスを遣わされたことを信じた者たちを言うのである。主イエスの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じる者たち、それが主イエスに神が与えられた人々なのである。
では、主イエスの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じるとは何を意味しているのか。それはこのお方が初めから神と共におられた神の独り子であるということを信じるということである。私たち人間は誰もがこの地上で生を受ける。夫婦の交わりを通して、私たち人間の命は始まる。けれども、主イエスはそうではない。主イエスは神の御子でありつつ、人となられたお方である。イエス・キリストは肉と呼ばれる人の性質を取る前にも、永遠から神と共におられた「言」である。それゆえ、主イエスが神の御もとから出て来たことを本当に知り、神が主イエスを遣わされたことを信じている者こそ、キリスト者である。
ナザレのイエスという人物が歴史的に存在したということは、誰も否定することのできない事実であるから、主イエスがガリラヤのナザレの出身であることは、誰もが知っていることである。けれども、それで本当に主イエスの出身について知ったことになるのか。決してそうではない。そのことを主イエスは、現代に生きるこの私たちにも大きな声で教えてくださっている。
2025.2.9 週報掲載の説教
2025.2.9 週報掲載の説教
<2024年12月29日の説教から>
『「待つ」という希望』
ルカによる福音書12章35節〜40節
牧師 鈴木美津子
この譬えでは婚宴に出かけた主人の帰りを待つ僕の姿が問題になっている。イスラエルの婚宴は、数日間に渡るものもあったと言われている。婚宴に出かけた主人がいつ帰って来るかは僕には全く見当がつかない。真夜中や、夜明けに帰ってくるかもしれない主人を「腰に帯を締め、ともし火をともして」待つことが僕に求められる。腰に帯を締めて待つのは、主人が帰ってきたら、すぐに主人の履き物を脱がせ、足を洗い、飲み物を用意するため、ともし火をともして待つのは、暗い夜道を歩いて帰ってくる主人が道を間違えないようにするためである。
ここで取り上げられているのは、主イエスの「再臨」である。それがいつなのか、分からない。主イエスが突然、再臨されて、私たちのところに姿を現した時に、私たちがすぐに迎えることができるように準備し、備えていることが求められる。
ところで、このたとえ話は、主人を迎えた後に思いがけない展開をする。「主人は帯を締めて、僕たちを席に着かせ、そばに来て給仕してくれる(37)」というのである。主人と僕との立場が逆転する。主人が給仕する者となり、僕が給仕される者となる。「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とあるが、この主人もまた幸いなのである。僕が自分を夜遅くまで心配して待っていたのか、と思うことは主人にとって幸いなのだ。主人が僕に給仕してくれる、というのは、主人もまたこの幸いを感謝しているしるしなのである。主イエスは、主人と僕とが、このような心の結びつきの中で、共に生きることができる、そのような関係を、持つことを私たちに願っているのである。
主イエスが再び来られるその時は、審判の時である。私たちが、神を真の神として礼拝してきたか、神の御心を行ってきたか、隣人を愛してきたか、が問われる時である。ヤコブの手紙4章15節に「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」と語られているように、神の御心を行うことが私たちにとって第一のことである。私たちは、どのようにしたら主イエスを喜ばせることができるのか、そのことを念頭に望みを持って「再臨」を待つのである。
<2024年12月29日の説教から>
『「待つ」という希望』
ルカによる福音書12章35節〜40節
牧師 鈴木美津子
この譬えでは婚宴に出かけた主人の帰りを待つ僕の姿が問題になっている。イスラエルの婚宴は、数日間に渡るものもあったと言われている。婚宴に出かけた主人がいつ帰って来るかは僕には全く見当がつかない。真夜中や、夜明けに帰ってくるかもしれない主人を「腰に帯を締め、ともし火をともして」待つことが僕に求められる。腰に帯を締めて待つのは、主人が帰ってきたら、すぐに主人の履き物を脱がせ、足を洗い、飲み物を用意するため、ともし火をともして待つのは、暗い夜道を歩いて帰ってくる主人が道を間違えないようにするためである。
ここで取り上げられているのは、主イエスの「再臨」である。それがいつなのか、分からない。主イエスが突然、再臨されて、私たちのところに姿を現した時に、私たちがすぐに迎えることができるように準備し、備えていることが求められる。
ところで、このたとえ話は、主人を迎えた後に思いがけない展開をする。「主人は帯を締めて、僕たちを席に着かせ、そばに来て給仕してくれる(37)」というのである。主人と僕との立場が逆転する。主人が給仕する者となり、僕が給仕される者となる。「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とあるが、この主人もまた幸いなのである。僕が自分を夜遅くまで心配して待っていたのか、と思うことは主人にとって幸いなのだ。主人が僕に給仕してくれる、というのは、主人もまたこの幸いを感謝しているしるしなのである。主イエスは、主人と僕とが、このような心の結びつきの中で、共に生きることができる、そのような関係を、持つことを私たちに願っているのである。
主イエスが再び来られるその時は、審判の時である。私たちが、神を真の神として礼拝してきたか、神の御心を行ってきたか、隣人を愛してきたか、が問われる時である。ヤコブの手紙4章15節に「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」と語られているように、神の御心を行うことが私たちにとって第一のことである。私たちは、どのようにしたら主イエスを喜ばせることができるのか、そのことを念頭に望みを持って「再臨」を待つのである。
2025.2.2 週報掲載の説教
2025.2.2 週報掲載の説教
<2024年12月22日説教から>
『この日暗闇を照らすまことの光が世に降った』
ヨハネによる福音書1章1節〜18節
牧師 鈴木美津子
創造の最後、第6日目に神は人をご自身のかたちに似せて造られた。神と人との関係は美しく、嘘偽りがなく、純粋に愛し合う関係であった。ところが、人は神の命令に背き、人が神になろうとした瞬間に神から引き離され、暗闇に生きることになった。外の光はどんなに明るくても、神に背いた人の心には常に闇の陰が付きまとった。人間同士でいさかいが絶えず、この世界は、あたかも神が最初に「光あれ」と言われる以前の姿に戻ってしまったかのようであった。
しかし、神は人を捨て置かれず、一つの決心をなさった。それは神の大切な独り子であるイエス・キリストをこの世へと遣わされるという計画であった。神の言、神の思い、神の愛を伝えるために遣わされたイエス・キリストは、暗闇に生きる私たちにもう一度命をもたらす希望の光であった。
その光である神の言は、特別に選ばれた賢い人たちや能力のある人たちだけに分かるような難解な言としてではなく、誰であれ、どんな人であれ、すべての人間に伝わるようにと、今にも壊れてしまいそうな乳飲み子として、この上なく貧しい場所に、お生まれになった。自分で歩くことも話すこともできない乳飲み子、それがこの世に遣わされた神の言であった。その小さな貧しい一人の乳飲み子を通して、神は私たち一人ひとりへの愛の思いを伝えようとなされた。
私たち一人ひとりともう一度繋がりたい、もう一度愛し合う関係に戻りたいと思い続けられる神は、混沌の闇の中に生きる私たちに真の光を送ってくださった。自分の心の暗闇を知り、そこに灯された小さな光を受け入れるとき、私たちは新しい命に生き、光の中を歩んでいくことができる。たとえ今がどんな暗闇の中にあろうとも、神が私と共におられるという確信を新たにする日、それがクリスマスである。どうか 世界中の人たちにとって、私たちにとって、希望が灯りますように。
<2024年12月22日説教から>
『この日暗闇を照らすまことの光が世に降った』
ヨハネによる福音書1章1節〜18節
牧師 鈴木美津子
創造の最後、第6日目に神は人をご自身のかたちに似せて造られた。神と人との関係は美しく、嘘偽りがなく、純粋に愛し合う関係であった。ところが、人は神の命令に背き、人が神になろうとした瞬間に神から引き離され、暗闇に生きることになった。外の光はどんなに明るくても、神に背いた人の心には常に闇の陰が付きまとった。人間同士でいさかいが絶えず、この世界は、あたかも神が最初に「光あれ」と言われる以前の姿に戻ってしまったかのようであった。
しかし、神は人を捨て置かれず、一つの決心をなさった。それは神の大切な独り子であるイエス・キリストをこの世へと遣わされるという計画であった。神の言、神の思い、神の愛を伝えるために遣わされたイエス・キリストは、暗闇に生きる私たちにもう一度命をもたらす希望の光であった。
その光である神の言は、特別に選ばれた賢い人たちや能力のある人たちだけに分かるような難解な言としてではなく、誰であれ、どんな人であれ、すべての人間に伝わるようにと、今にも壊れてしまいそうな乳飲み子として、この上なく貧しい場所に、お生まれになった。自分で歩くことも話すこともできない乳飲み子、それがこの世に遣わされた神の言であった。その小さな貧しい一人の乳飲み子を通して、神は私たち一人ひとりへの愛の思いを伝えようとなされた。
私たち一人ひとりともう一度繋がりたい、もう一度愛し合う関係に戻りたいと思い続けられる神は、混沌の闇の中に生きる私たちに真の光を送ってくださった。自分の心の暗闇を知り、そこに灯された小さな光を受け入れるとき、私たちは新しい命に生き、光の中を歩んでいくことができる。たとえ今がどんな暗闇の中にあろうとも、神が私と共におられるという確信を新たにする日、それがクリスマスである。どうか 世界中の人たちにとって、私たちにとって、希望が灯りますように。
2025.1.26 週報掲載の説教
2025.1.26 週報掲載の説教
<2024年12月15日説教から>
『主が来られる道を整える』
ルカによる福音書3章1節~6節
牧師 鈴木美津子
「イザヤ書」の文脈で読めば、荒れ野に備えられる主の道とは、バビロンの地からエルサレムへと至る道のことである。苦役の時が満ちたイスラエルの民は、バビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還する。その民を導かれるのが主なる神である。それゆえ、バビロンからエルサレムへの道は、主が通られる道である。その主に先立って、伝令は進み、まっすぐで平らな主の道を備える。ルカ福音書が、ヨハネの活動を、預言者イザヤの言葉の成就であると言うとき、それは心の有り様のことである。つまり、悔い改めるとは、主を迎えるために、曲がった心をまっすぐにし、でこぼこな心を平らにするのである。そのようにして、洗礼者ヨハネの後から来る主イエスを迎え入れるとき、人は皆、神の救いを見る。
「私よりも力のある方が来られる。その御方をお迎えする備えをせよ。そうすれば、あなたたちは皆、神の救いを見ることができる。罪の赦しを得ることができる」、と良き知らせをヨハネは告げる。このヨハネのメッセージは、主イエスが来られた後の時代に生きる私たちには関係がないのであろうか。そうではない。なぜなら、十字架の死から復活され、天に昇られた主イエスは、再びこの地上に来られるからだ。私たちは、主イエスの洗礼、聖霊による洗礼を受けて、罪の赦しを既に得ている。しかし、私たちは完全な救いにあずかっているわけではない。私たちの救いが完成されるのは、主イエスが、天から再び来られる日である。それゆえ、日々悔い改めて、主をお迎えするためにまっすぐで平らな心を備える必要があるのだ。
私たちは、主イエスを信じる者として、主の日の礼拝に集い、罪の赦しにあずかり、神の救いを見る。しかし、それは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰によることである。私たちは信仰によって、目に見えない方をまるで見えるかのように礼拝しているのだ。けれども、主イエスが天から再び来られる日に、私たちは、生きていれば栄光の体に変えられて、死んでいれば栄光の体に復活させられて、その目をもって、主イエスと父なる神を見ることになる。その日、その時、私たちは罪の支配から完全に解放された正しい者として、主イエスと父なる神を仰ぎ見て、礼拝をささげることになるのである。
<2024年12月15日説教から>
『主が来られる道を整える』
ルカによる福音書3章1節~6節
牧師 鈴木美津子
「イザヤ書」の文脈で読めば、荒れ野に備えられる主の道とは、バビロンの地からエルサレムへと至る道のことである。苦役の時が満ちたイスラエルの民は、バビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還する。その民を導かれるのが主なる神である。それゆえ、バビロンからエルサレムへの道は、主が通られる道である。その主に先立って、伝令は進み、まっすぐで平らな主の道を備える。ルカ福音書が、ヨハネの活動を、預言者イザヤの言葉の成就であると言うとき、それは心の有り様のことである。つまり、悔い改めるとは、主を迎えるために、曲がった心をまっすぐにし、でこぼこな心を平らにするのである。そのようにして、洗礼者ヨハネの後から来る主イエスを迎え入れるとき、人は皆、神の救いを見る。
「私よりも力のある方が来られる。その御方をお迎えする備えをせよ。そうすれば、あなたたちは皆、神の救いを見ることができる。罪の赦しを得ることができる」、と良き知らせをヨハネは告げる。このヨハネのメッセージは、主イエスが来られた後の時代に生きる私たちには関係がないのであろうか。そうではない。なぜなら、十字架の死から復活され、天に昇られた主イエスは、再びこの地上に来られるからだ。私たちは、主イエスの洗礼、聖霊による洗礼を受けて、罪の赦しを既に得ている。しかし、私たちは完全な救いにあずかっているわけではない。私たちの救いが完成されるのは、主イエスが、天から再び来られる日である。それゆえ、日々悔い改めて、主をお迎えするためにまっすぐで平らな心を備える必要があるのだ。
私たちは、主イエスを信じる者として、主の日の礼拝に集い、罪の赦しにあずかり、神の救いを見る。しかし、それは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰によることである。私たちは信仰によって、目に見えない方をまるで見えるかのように礼拝しているのだ。けれども、主イエスが天から再び来られる日に、私たちは、生きていれば栄光の体に変えられて、死んでいれば栄光の体に復活させられて、その目をもって、主イエスと父なる神を見ることになる。その日、その時、私たちは罪の支配から完全に解放された正しい者として、主イエスと父なる神を仰ぎ見て、礼拝をささげることになるのである。
2025.1.19 週報掲載の説教
2025.1.19 週報掲載の説教
<2024年12月8日説教から>
『人の子が大いなる力と栄光を帯びて来られる』
ルカによる福音書21章25節~33節
牧師 鈴木美津子
「それから、太陽と月と星に徴が現れる(25a)」。起こるべき異変は天体でのことばかりではない。事実、私たちの世界は想像もしない変化や、不条理なこと、突然の自然災害が起こっている。人間関係はなおさらである。確かなものはこの世界にどんどん少なくなっている。
主イエスは、そのような不確かな状況の中で、恐れや不安の中で慌て、脅え、惑わされそうな私たちに、本当に見つめるべきものは何かを示される。主イエスの再臨である。「人の子が大いなる力を帯びて、雲に乗って来るのを人々は見る」、と主イエスは言われる。「大いなる力」とは、神としての力、神としてこの世界の全体を支配し、そして全ての人々を審く力である。そんなことは誰が信じることができるか、と思うかもしれない。しかし、確かにこの世界は主イエス・キリストの支配の完成をもって終わる。つまり最終的に支配し、力を振るうのは、主イエス・キリストなのである。
「このようなことが起り始めたら、身を起こして頭を上げなさい。(28a)」と、主イエスは言われる。「このようなこと」とは、世の終わりに向けて起こる様々な苦しみ、戦争や暴動や地震や飢饉や疫病、天体に徴が現れ、海がどよめき荒れ狂う、ということである。世の終わりとその時に起こるイエス・キリストの再臨。しかし、実際にこの世が消滅してしまうのではなく「万物が新しくなる時」である。またキリスト者にとっては試練や迫害から「解放される、贖われる」時でもある。だからこそ、私たちを不安に陥れ、脅え慌てさせ、絶望させるこれらのことの中で、主イエスの再臨を信じ、主イエスによる救いが世の終わりに完成することを待ち望みつつ生きる者は、身を起こして頭を上げることができるのである。
これらのことをアドベントの時に心に留め置き、身を起こして頭を上げて、歩みたいと思う。
<2024年12月8日説教から>
『人の子が大いなる力と栄光を帯びて来られる』
ルカによる福音書21章25節~33節
牧師 鈴木美津子
「それから、太陽と月と星に徴が現れる(25a)」。起こるべき異変は天体でのことばかりではない。事実、私たちの世界は想像もしない変化や、不条理なこと、突然の自然災害が起こっている。人間関係はなおさらである。確かなものはこの世界にどんどん少なくなっている。
主イエスは、そのような不確かな状況の中で、恐れや不安の中で慌て、脅え、惑わされそうな私たちに、本当に見つめるべきものは何かを示される。主イエスの再臨である。「人の子が大いなる力を帯びて、雲に乗って来るのを人々は見る」、と主イエスは言われる。「大いなる力」とは、神としての力、神としてこの世界の全体を支配し、そして全ての人々を審く力である。そんなことは誰が信じることができるか、と思うかもしれない。しかし、確かにこの世界は主イエス・キリストの支配の完成をもって終わる。つまり最終的に支配し、力を振るうのは、主イエス・キリストなのである。
「このようなことが起り始めたら、身を起こして頭を上げなさい。(28a)」と、主イエスは言われる。「このようなこと」とは、世の終わりに向けて起こる様々な苦しみ、戦争や暴動や地震や飢饉や疫病、天体に徴が現れ、海がどよめき荒れ狂う、ということである。世の終わりとその時に起こるイエス・キリストの再臨。しかし、実際にこの世が消滅してしまうのではなく「万物が新しくなる時」である。またキリスト者にとっては試練や迫害から「解放される、贖われる」時でもある。だからこそ、私たちを不安に陥れ、脅え慌てさせ、絶望させるこれらのことの中で、主イエスの再臨を信じ、主イエスによる救いが世の終わりに完成することを待ち望みつつ生きる者は、身を起こして頭を上げることができるのである。
これらのことをアドベントの時に心に留め置き、身を起こして頭を上げて、歩みたいと思う。
HappyNEWyear! 2025.1.5 週報掲載の説教
2025.1.5 週報掲載の説教
<2024年12月1日説教から>
『夜は更け、救いの日は近づいた』
ローマの信徒への手紙13章8節〜14節
牧師 鈴木美津子
本日はアドベント第一主日、クリスマスを待ち望む時であるが、私たちには、もう一つの大切な待ち望む時がある。主イエスが再び私たちのところに来て下さる「再臨」の時である。
「更に、あなたがたは今がどのような時であるか知っています。(5a)」。この「時」と言う言葉には「カイロス」という、特定の定まった時を表す大切な意味がある。一度捕らえ損なうと、後から追いかけてももう決して捕まえることはできない、一度限りの、特別に定められた時間,言わば出会いの瞬間としての時間と言うことができる。クリスマスの時といえば、主イエスが誕生された時、この時は「初臨」とも言う。パウロがここで言っている「時」は「再臨」の時のことである。かつて主イエスは弟子たちが見ている前で天に昇って行かれた。そして再び来ると約束された。キリスト者の希望は、主イエスが再び来て下さる、ここに望みがある。
今は闇の時代で、先が全く見えない、希望も持てない。ウクライナで長く戦争が続き、パレスティナでも戦争状態にある。いつの時代もこの世には完全な平和はない。また気候変動も年々激しくなり、まさに困難な時代の中に今、私たちは生きている。
しかしそのような闇の時代であっても、神は私たちに生きる希望を与えられる。主イエスが再びこの地に来てくださる。私たちを天の御国に迎え入れて下さる。神は私たちに復活のいのち永遠のいのちを与え、心に生きる希望を与えて下さる。闇のような暗い心でなく、愛と希望に満ちた明るい心を私たちに与えて下さる。
そのためにパウロはローマのキリスト者に命じる。「主イエスを着なさい。」それは主イエスの性質を自分の身に付けることである。そのために、私たちは罪と汚れに満ちた古い衣を脱ぎ捨てなければならない。主イエスは、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、罪の代価を支払われた。キリスト者が十字架を見ながら罪を犯すことができるだろうか。否、できないであろう。新しい衣を着て、キリストの愛に包まれ、キリストの愛そのものに生きること。パウロはガラテヤ書で「私はキリストとともに十字架に付けられた。もはや自分が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのである。(2:19,20)」と宣言している。
このアドベントの時を過ごすとき、主イエスの御降誕を覚えて祝う備えをし、再び主イエスが来られる日、「再臨」の時を望みを持って目を覚まして待つのである。
<2024年12月1日説教から>
『夜は更け、救いの日は近づいた』
ローマの信徒への手紙13章8節〜14節
牧師 鈴木美津子
本日はアドベント第一主日、クリスマスを待ち望む時であるが、私たちには、もう一つの大切な待ち望む時がある。主イエスが再び私たちのところに来て下さる「再臨」の時である。
「更に、あなたがたは今がどのような時であるか知っています。(5a)」。この「時」と言う言葉には「カイロス」という、特定の定まった時を表す大切な意味がある。一度捕らえ損なうと、後から追いかけてももう決して捕まえることはできない、一度限りの、特別に定められた時間,言わば出会いの瞬間としての時間と言うことができる。クリスマスの時といえば、主イエスが誕生された時、この時は「初臨」とも言う。パウロがここで言っている「時」は「再臨」の時のことである。かつて主イエスは弟子たちが見ている前で天に昇って行かれた。そして再び来ると約束された。キリスト者の希望は、主イエスが再び来て下さる、ここに望みがある。
今は闇の時代で、先が全く見えない、希望も持てない。ウクライナで長く戦争が続き、パレスティナでも戦争状態にある。いつの時代もこの世には完全な平和はない。また気候変動も年々激しくなり、まさに困難な時代の中に今、私たちは生きている。
しかしそのような闇の時代であっても、神は私たちに生きる希望を与えられる。主イエスが再びこの地に来てくださる。私たちを天の御国に迎え入れて下さる。神は私たちに復活のいのち永遠のいのちを与え、心に生きる希望を与えて下さる。闇のような暗い心でなく、愛と希望に満ちた明るい心を私たちに与えて下さる。
そのためにパウロはローマのキリスト者に命じる。「主イエスを着なさい。」それは主イエスの性質を自分の身に付けることである。そのために、私たちは罪と汚れに満ちた古い衣を脱ぎ捨てなければならない。主イエスは、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、罪の代価を支払われた。キリスト者が十字架を見ながら罪を犯すことができるだろうか。否、できないであろう。新しい衣を着て、キリストの愛に包まれ、キリストの愛そのものに生きること。パウロはガラテヤ書で「私はキリストとともに十字架に付けられた。もはや自分が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのである。(2:19,20)」と宣言している。
このアドベントの時を過ごすとき、主イエスの御降誕を覚えて祝う備えをし、再び主イエスが来られる日、「再臨」の時を望みを持って目を覚まして待つのである。