2024.12.15 週報掲載の説教
<2024年11月24日説教から>
『律法の本質−神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する−』
ヨハネによる福音書7章1節~13節
牧師 鈴木美津子
仮庵の祭の最中に主イエスの命を狙って、言い掛かりをつけてきたユダヤ人たちの偽善が律法を通して明らかにされる。主イエスは、「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか」、と言われた上で、「十戒」から「あなたは殺してはならない」を引用して、「なぜ、わたしを殺そうとするのか」、とユダヤ人たちに問いかける。「十戒」は、神の民が神と共に生きるために与えられたものあるのにもかかわらず、ユダヤ人たちは、主イエスを殺そうとしているのである。つまり彼らは律法の本質である「生きる」という神の民の祝福を破壊しようとしているのだ。
そもそも律法とは、神の民が神と共に生きるために与えられた神の言葉である。にも関わらず、ユダヤ人たちは、その命の言葉を、彼らの罪によって、自らを死へと定める呪いの言葉へと歪めてしまった。律法の機能が命から死へと逆転してしまっていたのである。
律法の本質は、「命」である。しかし、誰一人律法によっては命を得ることはできない。その現実において、イエス・キリストが、天から降り、その全き罪のない生涯によって律法を実現してくださった。そればかりか、主イエスは十字架で死んで、私たち罪人の律法違反の罪を全て洗い流して下さった。このキリストの許にあって初めて律法はその本来の機能を回復し、命になるのである。
つまり、今や律法の本質はイエス・キリストそのお方そのものであるのだ。主イエスが律法の全ての義務を果たして、律法を完成された。そうであるから、私たちは、悔い改めて、ただこの主イエスを信じる信仰だけが要求されるのである。私たちは、私たちがどう頑張っても、罪人としての実体は変わらない。しかし、その状態であっても、私たちはすでに変えられているのである。私たちは、呪いから祝福へと、束縛から自由へと、死から命へと、変えられているのだ。
そのように私たちの罪人としての実体は変わっていないのにも関わらず、もはや、私たちは罪に定める律法から解放されて、過去、現在、未来の全ての罪が赦され、永遠の命と神の国の世継ぎが約束されているのである。
そうであるからこそ、私たちは「うわべだけで判断するのをやめ、正しい判断を」する、そして「外面で判断しないで、内面を見る」のである。
NEW! 2024.12.8 週報掲載の説教
2024.12.8 週報掲載の説教
<2024年11月17日説教から>
『主イエスの時』
ヨハネによる福音書7章1-1節
牧師 鈴木美津子
「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。』(6a)」
ユダヤには過越祭、五旬祭、仮庵祭という3つの大きな祭りがある。その3つの祭りの中でも仮庵祭はもっとも盛大に祝われたと言われている。主イエスの兄弟たちは、仮庵祭こそ、主イエスが自分を世にはっきり示す良い時であると考えたのだ。
主イエスの兄弟たちは、主イエスに「ユダヤに行って自分を世にはっきり示しなさい」と語った。あなたは都エルサレムに上って行き、一度は離れて行ったあなたの弟子たちに、また世の多くの人々に、あなたの力ある業を示せと勧めた。ローマ帝国の役人や彼らと一緒になっているユダヤの王たち、神殿の指導者たちの目の前で、それらの業を行い、公然と自分の神の力を見せよと言ったのである。
しかし、主イエスはそれを明確に拒絶し、「わたしの時はまだ来ていない」と言われた。ここで「時」と訳されている言葉は、定められた時や好機(チャンス)を意味するカイロスという言葉である。しかし、その主イエスの時は必ず来る。それは主イエスの十字架、そして復活のときである。なぜなら、主イエスは十字架に死に、三日目に復活し、天へと上げられるお方であるからだ。それゆえ、十字架という苦難の死を通して、主イエスが神の御子であり、救い主であることが世にはっきりと示されるその時こそが、「主イエスの時」なのである
けれども、主イエスの兄弟たちは、主イエスがユダヤに行って、大勢の人の前で業を行えば世は主イエスをメシアとして受け入れるのではないかと考えたのである。この主イエスの兄弟たちの言葉の中に荒れ野でのサタンの誘惑と同じ響きを聞き取ることができる。主イエスの兄弟たちは、十字架という苦難の死を抜きにして、自分を世にはっきり示しなさいと主イエスを誘惑した、ということである。
しかし、主イエスは御自分の時を明確に弁えておられた。御自分がどのようにして神の御栄光を現すのかを知っておられたからである。
<2024年11月17日説教から>
『主イエスの時』
ヨハネによる福音書7章1-1節
牧師 鈴木美津子
「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。』(6a)」
ユダヤには過越祭、五旬祭、仮庵祭という3つの大きな祭りがある。その3つの祭りの中でも仮庵祭はもっとも盛大に祝われたと言われている。主イエスの兄弟たちは、仮庵祭こそ、主イエスが自分を世にはっきり示す良い時であると考えたのだ。
主イエスの兄弟たちは、主イエスに「ユダヤに行って自分を世にはっきり示しなさい」と語った。あなたは都エルサレムに上って行き、一度は離れて行ったあなたの弟子たちに、また世の多くの人々に、あなたの力ある業を示せと勧めた。ローマ帝国の役人や彼らと一緒になっているユダヤの王たち、神殿の指導者たちの目の前で、それらの業を行い、公然と自分の神の力を見せよと言ったのである。
しかし、主イエスはそれを明確に拒絶し、「わたしの時はまだ来ていない」と言われた。ここで「時」と訳されている言葉は、定められた時や好機(チャンス)を意味するカイロスという言葉である。しかし、その主イエスの時は必ず来る。それは主イエスの十字架、そして復活のときである。なぜなら、主イエスは十字架に死に、三日目に復活し、天へと上げられるお方であるからだ。それゆえ、十字架という苦難の死を通して、主イエスが神の御子であり、救い主であることが世にはっきりと示されるその時こそが、「主イエスの時」なのである
けれども、主イエスの兄弟たちは、主イエスがユダヤに行って、大勢の人の前で業を行えば世は主イエスをメシアとして受け入れるのではないかと考えたのである。この主イエスの兄弟たちの言葉の中に荒れ野でのサタンの誘惑と同じ響きを聞き取ることができる。主イエスの兄弟たちは、十字架という苦難の死を抜きにして、自分を世にはっきり示しなさいと主イエスを誘惑した、ということである。
しかし、主イエスは御自分の時を明確に弁えておられた。御自分がどのようにして神の御栄光を現すのかを知っておられたからである。
NEW! 2024.12.1 週報掲載の説教
2024.12.1 週報掲載の説教
<2024年10月6日の説教から>
『天から降って来た命のパン』
ヨハネによる福音書6章41節~59節
牧師 鈴木 美津子
ヨハネ福音書には、マタイやマルコ、あるいはルカ福音書に記されているような聖餐式制定の言葉はない。確かに、最後の晩餐の場面において聖餐式のことが全く触れられていない。けれども、ヨハネ福音書が記され、また、読まれていた当時の教会が、聖餐式を行っていなかったということを言っているのではない。なぜなら、キリストの教会は、誕生以来パン裂きを行って来たからである。当然、ヨハネ福音書もまた、主イエスが制定された聖餐式を前提として記され、読まれているのである。ヨハネ福音書は、主イエスが五千人以上の人々に食べ物を与えた奇跡の後、カファルナウムの会堂で、人々に教えられたことをここで改めて記すことによって、聖餐式の深い意味を明らかにしているのである。
56節と57節で、主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もまたわたしによって生きる」と言われた。この言葉に現わされているのは、聖餐の持っている神秘的な恵みである。私たち自身が主イエスの中にいて、同時に主イエスが私たちの内にいてくださる。さらに、その主イエスは天の父なる神と一つであるから、私たちは主イエスを通して、天の父なる神ともしっかりと結ばれている、一つであるのだ。パンを食べること、杯を飲むことは、十字架の上で死なれた主イエスとの神秘的な結合である。これこそが聖餐式の恵みの中心なのである。
主イエスの肉、そして血を食べ飲むことは、十字架の上で主イエスが肉を裂かれ血を流された、その犠牲、その恵みと一つになること。そして、主イエスが、死んで葬られた後に復活されたように、信じる者もまた復活することがここではっきりと宣言されているのである。復活は、単に死から生き返るということだけではない。死に打ち勝ち、勝利し、主イエスの栄光に与るということである。主イエスの肉と血とに与ること、それは私たちの命そのものだからである。
<2024年10月6日の説教から>
『天から降って来た命のパン』
ヨハネによる福音書6章41節~59節
牧師 鈴木 美津子
ヨハネ福音書には、マタイやマルコ、あるいはルカ福音書に記されているような聖餐式制定の言葉はない。確かに、最後の晩餐の場面において聖餐式のことが全く触れられていない。けれども、ヨハネ福音書が記され、また、読まれていた当時の教会が、聖餐式を行っていなかったということを言っているのではない。なぜなら、キリストの教会は、誕生以来パン裂きを行って来たからである。当然、ヨハネ福音書もまた、主イエスが制定された聖餐式を前提として記され、読まれているのである。ヨハネ福音書は、主イエスが五千人以上の人々に食べ物を与えた奇跡の後、カファルナウムの会堂で、人々に教えられたことをここで改めて記すことによって、聖餐式の深い意味を明らかにしているのである。
56節と57節で、主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もまたわたしによって生きる」と言われた。この言葉に現わされているのは、聖餐の持っている神秘的な恵みである。私たち自身が主イエスの中にいて、同時に主イエスが私たちの内にいてくださる。さらに、その主イエスは天の父なる神と一つであるから、私たちは主イエスを通して、天の父なる神ともしっかりと結ばれている、一つであるのだ。パンを食べること、杯を飲むことは、十字架の上で死なれた主イエスとの神秘的な結合である。これこそが聖餐式の恵みの中心なのである。
主イエスの肉、そして血を食べ飲むことは、十字架の上で主イエスが肉を裂かれ血を流された、その犠牲、その恵みと一つになること。そして、主イエスが、死んで葬られた後に復活されたように、信じる者もまた復活することがここではっきりと宣言されているのである。復活は、単に死から生き返るということだけではない。死に打ち勝ち、勝利し、主イエスの栄光に与るということである。主イエスの肉と血とに与ること、それは私たちの命そのものだからである。
2024.11.17 の週報掲載の説教
2024.11.17 の週報掲載の説教
<2024年10月13日の説教から>
『永遠の命の言葉』
ヨハネによる福音書6章60節~71節
牧師 鈴木美津子
群衆の中だけでなく、弟子たちの多くも主イエスの言葉に躓いて離れ去った。主イエスは12弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問う。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。(68-69)」と答えた。ペトロは、「あなたがわたしたちの主である以上、わたしたちの居場所はあなたのもとだけだ」と答えたのである。なぜなら、主イエスこそ永遠の命の言葉を持っておられるお方だからである。このペトロの告白に、離れ去っていた多くの弟子たちと12弟子の違いが浮き彫りにされている。多くの弟子たちが主イエスの御言葉に躓いたのに対して、12人は主イエスが永遠の命の言葉を持っておられると告白することができたのである。このことは12人のうえに聖霊の導きがあったこと、彼らが父なる神の選びの内にあったことを教えている。しかし、そうであっても留まり続けたこの12人中からもやがて裏切り者が出てくる。
これらのことは、今の私たちに何を教えているのか。それは地上の教会には欠けや弱さがあるということである。立派な信仰者と思われていた人が信仰を捨ててしまう。牧師や長老などからさえ信仰を捨ててしまう人がでてくる。そのようなことが地上の教会においては起こりうるからである。このことは他の誰かのことを考える必要はない。むしろ、主イエスがここで求めておられることは、私たち一人一人が自分はどうであろうかと問うことである。「あなたがたも離れていきたいか」という主イエスの問いを自分に対するものとして聞くこと。そして、ペトロの「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」との言葉を自分の言葉として語ることである。この日本でキリスト者であり続けることは、困難の伴うことがある。またキリストを信じることでさまざまな誤解や偏見を受けることもある。いっそのこと信仰を捨ててしまった方が楽ではないかとも。しかし、もし信仰を捨ててしまうならば、何を信じて生きていけば良いのか。そもそも主イエスを真の神であると信じている私たちがこの方から離れ去ることなどできるのか。主イエスが私たちを永遠の命に生かすために十字架の死を死んでくださったことを知ってしまった今、この方のもとを離れ去ることができるのか。できないであろう。できない。なぜならキリスト者とはそのことを知っている者のことを言うのだから。自分はキリストなしでもはや生きていくことができないことを知っている者、それがキリスト者だからである。
<2024年10月13日の説教から>
『永遠の命の言葉』
ヨハネによる福音書6章60節~71節
牧師 鈴木美津子
群衆の中だけでなく、弟子たちの多くも主イエスの言葉に躓いて離れ去った。主イエスは12弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問う。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。(68-69)」と答えた。ペトロは、「あなたがわたしたちの主である以上、わたしたちの居場所はあなたのもとだけだ」と答えたのである。なぜなら、主イエスこそ永遠の命の言葉を持っておられるお方だからである。このペトロの告白に、離れ去っていた多くの弟子たちと12弟子の違いが浮き彫りにされている。多くの弟子たちが主イエスの御言葉に躓いたのに対して、12人は主イエスが永遠の命の言葉を持っておられると告白することができたのである。このことは12人のうえに聖霊の導きがあったこと、彼らが父なる神の選びの内にあったことを教えている。しかし、そうであっても留まり続けたこの12人中からもやがて裏切り者が出てくる。
これらのことは、今の私たちに何を教えているのか。それは地上の教会には欠けや弱さがあるということである。立派な信仰者と思われていた人が信仰を捨ててしまう。牧師や長老などからさえ信仰を捨ててしまう人がでてくる。そのようなことが地上の教会においては起こりうるからである。このことは他の誰かのことを考える必要はない。むしろ、主イエスがここで求めておられることは、私たち一人一人が自分はどうであろうかと問うことである。「あなたがたも離れていきたいか」という主イエスの問いを自分に対するものとして聞くこと。そして、ペトロの「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」との言葉を自分の言葉として語ることである。この日本でキリスト者であり続けることは、困難の伴うことがある。またキリストを信じることでさまざまな誤解や偏見を受けることもある。いっそのこと信仰を捨ててしまった方が楽ではないかとも。しかし、もし信仰を捨ててしまうならば、何を信じて生きていけば良いのか。そもそも主イエスを真の神であると信じている私たちがこの方から離れ去ることなどできるのか。主イエスが私たちを永遠の命に生かすために十字架の死を死んでくださったことを知ってしまった今、この方のもとを離れ去ることができるのか。できないであろう。できない。なぜならキリスト者とはそのことを知っている者のことを言うのだから。自分はキリストなしでもはや生きていくことができないことを知っている者、それがキリスト者だからである。
2024.11.10 の週報掲載の説教
2024.11.10 の週報掲載の説教
<2024年9月22日の説教から>
『わたしをお遣わしになったお方の御心を行うために』
ヨハネによる福音書6章22節~40節
牧師 鈴木美津子
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(40)」
主イエスは、自分は御父の御心を行うために天から降ってきたと言われた。主イエスが「わたしが命のパンである」と言われた理由は、この御父の御心のゆえである。主イエスが「わたしこそが、命のパンである」と言われたのは、子を見て信じる者に、永遠の命を与えることができるからである。主イエスは、御父の御心に従って十字架に上げられることによって、罪と死の力に勝利された。それゆえに、主イエスは御自分を信じる者たち、御父から御自分に与えられた者たちに、神との永遠の交わり、永遠の命を与えることができるのである。キリスト者は、主イエスを通して、神を父と呼び、親しく礼拝しているが、そのようにして、キリスト者は、命のパンである主イエスにあずかっているのである。そして、その永遠の命は、主イエスが、終わりの日に主イエスを信じる者を復活させてくださることによって、完成されるのである。主イエスが、「わたしが命のパンである」と言われるとき、それはこの地上を生かす命だけのことを言っておられるのではない。死に勝利する命、復活の命のことを言っておられるのだ。主イエスは、御自分を信じる者たちを終わりの日に復活させるお方として、「わたしが命のパンである」と断言されるのだ。そして、その保証として、主イエスは、十字架の死から三日目に復活されたのである。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。この主イエスの言葉は、主の日の礼拝ごとに、すべての人に向けて今も語られている、力強い招きの言葉である。その招きに私たちはこれからも喜んで従っていきたいと願うのである。たとえ今、信仰に弱さを覚えていたとしても、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」という主イエスの言葉に支えられて、この地上の信仰の旅路を共に歩みたいと願う。
<2024年9月22日の説教から>
『わたしをお遣わしになったお方の御心を行うために』
ヨハネによる福音書6章22節~40節
牧師 鈴木美津子
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(40)」
主イエスは、自分は御父の御心を行うために天から降ってきたと言われた。主イエスが「わたしが命のパンである」と言われた理由は、この御父の御心のゆえである。主イエスが「わたしこそが、命のパンである」と言われたのは、子を見て信じる者に、永遠の命を与えることができるからである。主イエスは、御父の御心に従って十字架に上げられることによって、罪と死の力に勝利された。それゆえに、主イエスは御自分を信じる者たち、御父から御自分に与えられた者たちに、神との永遠の交わり、永遠の命を与えることができるのである。キリスト者は、主イエスを通して、神を父と呼び、親しく礼拝しているが、そのようにして、キリスト者は、命のパンである主イエスにあずかっているのである。そして、その永遠の命は、主イエスが、終わりの日に主イエスを信じる者を復活させてくださることによって、完成されるのである。主イエスが、「わたしが命のパンである」と言われるとき、それはこの地上を生かす命だけのことを言っておられるのではない。死に勝利する命、復活の命のことを言っておられるのだ。主イエスは、御自分を信じる者たちを終わりの日に復活させるお方として、「わたしが命のパンである」と断言されるのだ。そして、その保証として、主イエスは、十字架の死から三日目に復活されたのである。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。この主イエスの言葉は、主の日の礼拝ごとに、すべての人に向けて今も語られている、力強い招きの言葉である。その招きに私たちはこれからも喜んで従っていきたいと願うのである。たとえ今、信仰に弱さを覚えていたとしても、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」という主イエスの言葉に支えられて、この地上の信仰の旅路を共に歩みたいと願う。
2024.11.3 の週報掲載の説教
2024.11.3 の週報掲載の説教
<2024年9月8日の説教から>
『わたしだ。恐れることはない』
ヨハネによる福音書6章16節~21節
牧師 鈴木美津子
ガリラヤ湖は、普段は穏やかな美しい湖であったが、時として深い谷から吹き下ろす強風のために天候が急変することで有名であった。この時も、夜、弟子たちがカファルナウムに向けて出発したときは、湖は穏やかであったが、その途上において、強い風が吹き、湖は荒れ始めた。弟子たちは、このとき死の危険、滅びの危険に直面していた。もし、舟が転覆してしまうようなことがあれば、彼らは溺れ死んでしまうからである。荒波を踏み砕かれ近づく主イエスは、恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない」と言われた。「わたしだ」とは、「わたしである」とも訳すことができる言葉で、その昔、神がモーセに知らせた御自身の名前と重なるものである。
弟子たちは、高波を踏み砕かれる主イエスの姿に、神の御力を見た。そして、さらに主イエスの口から、「わたしはある」ということを言われた。そうであれば、これはもう恐れるしかない。人間が生ける神の前に立つとき、抱く感情は恐れである。しかし、主イエスは「恐れることはない」と言われた。なぜなら、主イエスが荒波を踏み砕くようにして弟子たちに近づいて来られたのは、彼らを飲み込もうとしていた死と滅びの力から彼らを救うためであったからである。弟子たちは、荒れ狂う湖での危機的状況においてこそ、真の主イエスの姿、高波を踏み砕かれ、「わたしはある」と言われる神の御子としての主イエスに出会うことができたのである。主イエスは、死と滅びの中にある弟子たちにこそ、御自分が神の御子であることを決定的な仕方で示されたのである。
その「彼らはイエスを迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。このことは、私たちに何を教えているのか。それは、主イエスを迎え入れようとする信仰に生きるとき、私たちは必ず目指す地に到達するということ。主イエスを、海の高波を踏み砕くお方、「わたしはある」と言われる神その方として迎え入れる信仰に生きるとき、私たちは死と滅びから救われ、必ず目指す地へ到達するのだ。では、私たちが目指す地とは一体どこであるのか。それは究極的には、主イエスがおられる天の国である。主イエスを神の御子と信じるとき、私たちは強い風と荒波から救われ、必ず天の国へ入ることができるのである。
<2024年9月8日の説教から>
『わたしだ。恐れることはない』
ヨハネによる福音書6章16節~21節
牧師 鈴木美津子
ガリラヤ湖は、普段は穏やかな美しい湖であったが、時として深い谷から吹き下ろす強風のために天候が急変することで有名であった。この時も、夜、弟子たちがカファルナウムに向けて出発したときは、湖は穏やかであったが、その途上において、強い風が吹き、湖は荒れ始めた。弟子たちは、このとき死の危険、滅びの危険に直面していた。もし、舟が転覆してしまうようなことがあれば、彼らは溺れ死んでしまうからである。荒波を踏み砕かれ近づく主イエスは、恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない」と言われた。「わたしだ」とは、「わたしである」とも訳すことができる言葉で、その昔、神がモーセに知らせた御自身の名前と重なるものである。
弟子たちは、高波を踏み砕かれる主イエスの姿に、神の御力を見た。そして、さらに主イエスの口から、「わたしはある」ということを言われた。そうであれば、これはもう恐れるしかない。人間が生ける神の前に立つとき、抱く感情は恐れである。しかし、主イエスは「恐れることはない」と言われた。なぜなら、主イエスが荒波を踏み砕くようにして弟子たちに近づいて来られたのは、彼らを飲み込もうとしていた死と滅びの力から彼らを救うためであったからである。弟子たちは、荒れ狂う湖での危機的状況においてこそ、真の主イエスの姿、高波を踏み砕かれ、「わたしはある」と言われる神の御子としての主イエスに出会うことができたのである。主イエスは、死と滅びの中にある弟子たちにこそ、御自分が神の御子であることを決定的な仕方で示されたのである。
その「彼らはイエスを迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。このことは、私たちに何を教えているのか。それは、主イエスを迎え入れようとする信仰に生きるとき、私たちは必ず目指す地に到達するということ。主イエスを、海の高波を踏み砕くお方、「わたしはある」と言われる神その方として迎え入れる信仰に生きるとき、私たちは死と滅びから救われ、必ず目指す地へ到達するのだ。では、私たちが目指す地とは一体どこであるのか。それは究極的には、主イエスがおられる天の国である。主イエスを神の御子と信じるとき、私たちは強い風と荒波から救われ、必ず天の国へ入ることができるのである。