2025.3.16 週報掲載の説教
<2025年2月2日の説教から>
『主イエスを巡る対立』
ヨハネによる福音書7章40節〜58節
牧師 鈴木美津子
「メシアはダビデの子孫で、ダビデの村ベツレヘムから出ると聖書に書いてあるではないか。(42)」
メシアはガリラヤから出るのではなく、ダビデの子孫で、ダビデの村ベツレヘムから出る。この群衆とファリサイ派の主張に対して、私たちは反対するものではない。むしろ、マタイ福音書やルカ福音書の降誕物語を知っている私たちはアーメンとさえ言えるだろう。しかし、ヨハネ福音書は、主イエスがベツレヘムから生まれたことを記さずに、ガリラヤから出たものとして記している。この福音書は、ユダヤ人の誤解を誤解のままに放っておくような書き方をしているのである。なぜ、この福音書はそのような書き方をしたのか。
一つ考えられることは、ヨハネ福音書が主イエスの生まれをガリラヤでもベツレヘムでもないと考えていたということである。
私たちは、アドベントの期間をイエス様のお誕生を祝うクリスマスを待ち望んで喜んで準備をする。その喜びはどこから来るのか。そのことを考える時、私たちはヨハネが強調したいことがわかるであろう。主イエスのお誕生から2000年余もの間、キリストの教会はクリスマスをお祝いしてきた。それは主イエスがベツレヘムで生まれたからであろうか。確かに主イエスはベツレヘムで生まれました。しかし、究極的に言えばそうではない。クリスマスの喜びはどこから来るのか。クリスマスの喜びはベツレヘムからではなく、天から来る。永遠の神の独り子が私たちを救うために、私たちと同じ人となって生まれてくださった。そこにクリスマスの究極的な喜びがある。もし主イエスがユダヤ人たちが考えていたようにただの人間であったのであれば、ベツレヘムから生まれようとも、クリスマスの喜びはなかったであろう。クリスマスの大いなる喜びは、神が私たちを救うために、愛する独り子を人として遣わしてくださったことに尽きるのである。クリスマスの大いなる喜びは天から来ることを覚えて、私たちは毎年クリスマスを待ち望むのである。
2025.3.9 週報掲載の説教
2025.3.6 週報掲載の説教
<2025年1月26日の説教から>
『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』
ヨハネによる福音書7章37節〜39節
牧師 鈴木美津子
仮庵の祭りのモチーフの一つは「水」である。この祭りの期間中、シロアムの池から汲んだ水を神殿に運ぶ行列が途絶えず、人々はその行事に陶酔していた。主イエスは、サマリアの女に、飲んでもすぐにまた乾く物理的な水から永遠の命に至る水を教えたように、この祭りのその行事で使われる物理的な水を用いて、永遠の命に至る水、つまり聖霊なる神を示された。ただの水に偶像崇拝的に陶酔する彼らに、真に礼拝しなければならない真の水が何であるかを示されたのである。
「生きた水」と訳された言葉は、正確に訳せば「生きている水」となる。常に湧き出で、流れ、躍動する水、命の源であり、命そのものである水。聖霊なる神が「生きている水」と喩えられる。また、「流れ出るようになる」とは、未来形をとっていて、この事態はまだ起こっていないが、やがて実現する、という意味である。39節の「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」とは、それを説明しているかのようである。
「イエスの栄光」とは、十字架から始まる救いの御業の実現で、具体的には、十字架、復活、昇天、この出来事全体である。ですから、逆に言えば、主イエスが栄光を受けられると、“霊”が降る、ということである。これはペンテコステの出来事の予告をするそのための未来形である。ペンテコステ以降、聖霊が降り、信仰者の中に聖霊が泉の水源のように住まい給う、そこから、汲めども尽きぬ永遠の命の水が溢れ続ける、これはこの聖霊が与えられるという約束である。ですから、ペンテコステ以降のキリスト者には、必ず聖霊が与えられている。私たちもまた「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、その一人であるのだ。
主イエスの十字架と復活を信じる信仰者には、聖霊が降り、それぞれの中に住んでくださって「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と、この永遠の命の保証が与えられる。主イエスが実現してくださった十字架と復活での救いを、私たちに適用して下さるのが、聖霊なる神である。
<2025年1月26日の説教から>
『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』
ヨハネによる福音書7章37節〜39節
牧師 鈴木美津子
仮庵の祭りのモチーフの一つは「水」である。この祭りの期間中、シロアムの池から汲んだ水を神殿に運ぶ行列が途絶えず、人々はその行事に陶酔していた。主イエスは、サマリアの女に、飲んでもすぐにまた乾く物理的な水から永遠の命に至る水を教えたように、この祭りのその行事で使われる物理的な水を用いて、永遠の命に至る水、つまり聖霊なる神を示された。ただの水に偶像崇拝的に陶酔する彼らに、真に礼拝しなければならない真の水が何であるかを示されたのである。
「生きた水」と訳された言葉は、正確に訳せば「生きている水」となる。常に湧き出で、流れ、躍動する水、命の源であり、命そのものである水。聖霊なる神が「生きている水」と喩えられる。また、「流れ出るようになる」とは、未来形をとっていて、この事態はまだ起こっていないが、やがて実現する、という意味である。39節の「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」とは、それを説明しているかのようである。
「イエスの栄光」とは、十字架から始まる救いの御業の実現で、具体的には、十字架、復活、昇天、この出来事全体である。ですから、逆に言えば、主イエスが栄光を受けられると、“霊”が降る、ということである。これはペンテコステの出来事の予告をするそのための未来形である。ペンテコステ以降、聖霊が降り、信仰者の中に聖霊が泉の水源のように住まい給う、そこから、汲めども尽きぬ永遠の命の水が溢れ続ける、これはこの聖霊が与えられるという約束である。ですから、ペンテコステ以降のキリスト者には、必ず聖霊が与えられている。私たちもまた「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、その一人であるのだ。
主イエスの十字架と復活を信じる信仰者には、聖霊が降り、それぞれの中に住んでくださって「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と、この永遠の命の保証が与えられる。主イエスが実現してくださった十字架と復活での救いを、私たちに適用して下さるのが、聖霊なる神である。
2025.2.16 週報掲載の説教
2025.2.16 週報掲載の説教
<2025年1月19日の説教から>
『わたしをお遣わしになった方』
ヨハネによる福音書7章25節〜36節
牧師 鈴木美津子
確かに人々は主イエスがガリラヤのナザレ出身であることを知っていた。しかし、彼らは主イエスの本当の出身がどこであるかを知らない。それは主イエスが神から遣わされたお方であることを彼らが信じようとしないからである。主イエスが神から遣わされたことを信じないのは、彼らが神を知らないからに他ならない。主イエスが父である神から遣わされたことを信じるかどうか。これが信仰と不信仰の分かれ目とも言える大切な点である。この後、主イエスは何度も、御自分が神から遣わされた者であることを教えられる。福音書記者ヨハネによれば、弟子とはこのことを知り、信じた者たちのことを言うのである。主イエスの弟子とは、主イエスが語られる神から受けた言葉を受け入れること、主イエスが神の御もとから出てきたことを本当に知ること、神が主イエスを遣わされたことを信じた者たちを言うのである。主イエスの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じる者たち、それが主イエスに神が与えられた人々なのである。
では、主イエスの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じるとは何を意味しているのか。それはこのお方が初めから神と共におられた神の独り子であるということを信じるということである。私たち人間は誰もがこの地上で生を受ける。夫婦の交わりを通して、私たち人間の命は始まる。けれども、主イエスはそうではない。主イエスは神の御子でありつつ、人となられたお方である。イエス・キリストは肉と呼ばれる人の性質を取る前にも、永遠から神と共におられた「言」である。それゆえ、主イエスが神の御もとから出て来たことを本当に知り、神が主イエスを遣わされたことを信じている者こそ、キリスト者である。
ナザレのイエスという人物が歴史的に存在したということは、誰も否定することのできない事実であるから、主イエスがガリラヤのナザレの出身であることは、誰もが知っていることである。けれども、それで本当に主イエスの出身について知ったことになるのか。決してそうではない。そのことを主イエスは、現代に生きるこの私たちにも大きな声で教えてくださっている。
<2025年1月19日の説教から>
『わたしをお遣わしになった方』
ヨハネによる福音書7章25節〜36節
牧師 鈴木美津子
確かに人々は主イエスがガリラヤのナザレ出身であることを知っていた。しかし、彼らは主イエスの本当の出身がどこであるかを知らない。それは主イエスが神から遣わされたお方であることを彼らが信じようとしないからである。主イエスが神から遣わされたことを信じないのは、彼らが神を知らないからに他ならない。主イエスが父である神から遣わされたことを信じるかどうか。これが信仰と不信仰の分かれ目とも言える大切な点である。この後、主イエスは何度も、御自分が神から遣わされた者であることを教えられる。福音書記者ヨハネによれば、弟子とはこのことを知り、信じた者たちのことを言うのである。主イエスの弟子とは、主イエスが語られる神から受けた言葉を受け入れること、主イエスが神の御もとから出てきたことを本当に知ること、神が主イエスを遣わされたことを信じた者たちを言うのである。主イエスの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じる者たち、それが主イエスに神が与えられた人々なのである。
では、主イエスの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じるとは何を意味しているのか。それはこのお方が初めから神と共におられた神の独り子であるということを信じるということである。私たち人間は誰もがこの地上で生を受ける。夫婦の交わりを通して、私たち人間の命は始まる。けれども、主イエスはそうではない。主イエスは神の御子でありつつ、人となられたお方である。イエス・キリストは肉と呼ばれる人の性質を取る前にも、永遠から神と共におられた「言」である。それゆえ、主イエスが神の御もとから出て来たことを本当に知り、神が主イエスを遣わされたことを信じている者こそ、キリスト者である。
ナザレのイエスという人物が歴史的に存在したということは、誰も否定することのできない事実であるから、主イエスがガリラヤのナザレの出身であることは、誰もが知っていることである。けれども、それで本当に主イエスの出身について知ったことになるのか。決してそうではない。そのことを主イエスは、現代に生きるこの私たちにも大きな声で教えてくださっている。
2025.2.9 週報掲載の説教
2025.2.9 週報掲載の説教
<2024年12月29日の説教から>
『「待つ」という希望』
ルカによる福音書12章35節〜40節
牧師 鈴木美津子
この譬えでは婚宴に出かけた主人の帰りを待つ僕の姿が問題になっている。イスラエルの婚宴は、数日間に渡るものもあったと言われている。婚宴に出かけた主人がいつ帰って来るかは僕には全く見当がつかない。真夜中や、夜明けに帰ってくるかもしれない主人を「腰に帯を締め、ともし火をともして」待つことが僕に求められる。腰に帯を締めて待つのは、主人が帰ってきたら、すぐに主人の履き物を脱がせ、足を洗い、飲み物を用意するため、ともし火をともして待つのは、暗い夜道を歩いて帰ってくる主人が道を間違えないようにするためである。
ここで取り上げられているのは、主イエスの「再臨」である。それがいつなのか、分からない。主イエスが突然、再臨されて、私たちのところに姿を現した時に、私たちがすぐに迎えることができるように準備し、備えていることが求められる。
ところで、このたとえ話は、主人を迎えた後に思いがけない展開をする。「主人は帯を締めて、僕たちを席に着かせ、そばに来て給仕してくれる(37)」というのである。主人と僕との立場が逆転する。主人が給仕する者となり、僕が給仕される者となる。「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とあるが、この主人もまた幸いなのである。僕が自分を夜遅くまで心配して待っていたのか、と思うことは主人にとって幸いなのだ。主人が僕に給仕してくれる、というのは、主人もまたこの幸いを感謝しているしるしなのである。主イエスは、主人と僕とが、このような心の結びつきの中で、共に生きることができる、そのような関係を、持つことを私たちに願っているのである。
主イエスが再び来られるその時は、審判の時である。私たちが、神を真の神として礼拝してきたか、神の御心を行ってきたか、隣人を愛してきたか、が問われる時である。ヤコブの手紙4章15節に「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」と語られているように、神の御心を行うことが私たちにとって第一のことである。私たちは、どのようにしたら主イエスを喜ばせることができるのか、そのことを念頭に望みを持って「再臨」を待つのである。
<2024年12月29日の説教から>
『「待つ」という希望』
ルカによる福音書12章35節〜40節
牧師 鈴木美津子
この譬えでは婚宴に出かけた主人の帰りを待つ僕の姿が問題になっている。イスラエルの婚宴は、数日間に渡るものもあったと言われている。婚宴に出かけた主人がいつ帰って来るかは僕には全く見当がつかない。真夜中や、夜明けに帰ってくるかもしれない主人を「腰に帯を締め、ともし火をともして」待つことが僕に求められる。腰に帯を締めて待つのは、主人が帰ってきたら、すぐに主人の履き物を脱がせ、足を洗い、飲み物を用意するため、ともし火をともして待つのは、暗い夜道を歩いて帰ってくる主人が道を間違えないようにするためである。
ここで取り上げられているのは、主イエスの「再臨」である。それがいつなのか、分からない。主イエスが突然、再臨されて、私たちのところに姿を現した時に、私たちがすぐに迎えることができるように準備し、備えていることが求められる。
ところで、このたとえ話は、主人を迎えた後に思いがけない展開をする。「主人は帯を締めて、僕たちを席に着かせ、そばに来て給仕してくれる(37)」というのである。主人と僕との立場が逆転する。主人が給仕する者となり、僕が給仕される者となる。「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とあるが、この主人もまた幸いなのである。僕が自分を夜遅くまで心配して待っていたのか、と思うことは主人にとって幸いなのだ。主人が僕に給仕してくれる、というのは、主人もまたこの幸いを感謝しているしるしなのである。主イエスは、主人と僕とが、このような心の結びつきの中で、共に生きることができる、そのような関係を、持つことを私たちに願っているのである。
主イエスが再び来られるその時は、審判の時である。私たちが、神を真の神として礼拝してきたか、神の御心を行ってきたか、隣人を愛してきたか、が問われる時である。ヤコブの手紙4章15節に「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」と語られているように、神の御心を行うことが私たちにとって第一のことである。私たちは、どのようにしたら主イエスを喜ばせることができるのか、そのことを念頭に望みを持って「再臨」を待つのである。
2025.2.2 週報掲載の説教
2025.2.2 週報掲載の説教
<2024年12月22日説教から>
『この日暗闇を照らすまことの光が世に降った』
ヨハネによる福音書1章1節〜18節
牧師 鈴木美津子
創造の最後、第6日目に神は人をご自身のかたちに似せて造られた。神と人との関係は美しく、嘘偽りがなく、純粋に愛し合う関係であった。ところが、人は神の命令に背き、人が神になろうとした瞬間に神から引き離され、暗闇に生きることになった。外の光はどんなに明るくても、神に背いた人の心には常に闇の陰が付きまとった。人間同士でいさかいが絶えず、この世界は、あたかも神が最初に「光あれ」と言われる以前の姿に戻ってしまったかのようであった。
しかし、神は人を捨て置かれず、一つの決心をなさった。それは神の大切な独り子であるイエス・キリストをこの世へと遣わされるという計画であった。神の言、神の思い、神の愛を伝えるために遣わされたイエス・キリストは、暗闇に生きる私たちにもう一度命をもたらす希望の光であった。
その光である神の言は、特別に選ばれた賢い人たちや能力のある人たちだけに分かるような難解な言としてではなく、誰であれ、どんな人であれ、すべての人間に伝わるようにと、今にも壊れてしまいそうな乳飲み子として、この上なく貧しい場所に、お生まれになった。自分で歩くことも話すこともできない乳飲み子、それがこの世に遣わされた神の言であった。その小さな貧しい一人の乳飲み子を通して、神は私たち一人ひとりへの愛の思いを伝えようとなされた。
私たち一人ひとりともう一度繋がりたい、もう一度愛し合う関係に戻りたいと思い続けられる神は、混沌の闇の中に生きる私たちに真の光を送ってくださった。自分の心の暗闇を知り、そこに灯された小さな光を受け入れるとき、私たちは新しい命に生き、光の中を歩んでいくことができる。たとえ今がどんな暗闇の中にあろうとも、神が私と共におられるという確信を新たにする日、それがクリスマスである。どうか 世界中の人たちにとって、私たちにとって、希望が灯りますように。
<2024年12月22日説教から>
『この日暗闇を照らすまことの光が世に降った』
ヨハネによる福音書1章1節〜18節
牧師 鈴木美津子
創造の最後、第6日目に神は人をご自身のかたちに似せて造られた。神と人との関係は美しく、嘘偽りがなく、純粋に愛し合う関係であった。ところが、人は神の命令に背き、人が神になろうとした瞬間に神から引き離され、暗闇に生きることになった。外の光はどんなに明るくても、神に背いた人の心には常に闇の陰が付きまとった。人間同士でいさかいが絶えず、この世界は、あたかも神が最初に「光あれ」と言われる以前の姿に戻ってしまったかのようであった。
しかし、神は人を捨て置かれず、一つの決心をなさった。それは神の大切な独り子であるイエス・キリストをこの世へと遣わされるという計画であった。神の言、神の思い、神の愛を伝えるために遣わされたイエス・キリストは、暗闇に生きる私たちにもう一度命をもたらす希望の光であった。
その光である神の言は、特別に選ばれた賢い人たちや能力のある人たちだけに分かるような難解な言としてではなく、誰であれ、どんな人であれ、すべての人間に伝わるようにと、今にも壊れてしまいそうな乳飲み子として、この上なく貧しい場所に、お生まれになった。自分で歩くことも話すこともできない乳飲み子、それがこの世に遣わされた神の言であった。その小さな貧しい一人の乳飲み子を通して、神は私たち一人ひとりへの愛の思いを伝えようとなされた。
私たち一人ひとりともう一度繋がりたい、もう一度愛し合う関係に戻りたいと思い続けられる神は、混沌の闇の中に生きる私たちに真の光を送ってくださった。自分の心の暗闇を知り、そこに灯された小さな光を受け入れるとき、私たちは新しい命に生き、光の中を歩んでいくことができる。たとえ今がどんな暗闇の中にあろうとも、神が私と共におられるという確信を新たにする日、それがクリスマスである。どうか 世界中の人たちにとって、私たちにとって、希望が灯りますように。
2025.1.26 週報掲載の説教
2025.1.26 週報掲載の説教
<2024年12月15日説教から>
『主が来られる道を整える』
ルカによる福音書3章1節~6節
牧師 鈴木美津子
「イザヤ書」の文脈で読めば、荒れ野に備えられる主の道とは、バビロンの地からエルサレムへと至る道のことである。苦役の時が満ちたイスラエルの民は、バビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還する。その民を導かれるのが主なる神である。それゆえ、バビロンからエルサレムへの道は、主が通られる道である。その主に先立って、伝令は進み、まっすぐで平らな主の道を備える。ルカ福音書が、ヨハネの活動を、預言者イザヤの言葉の成就であると言うとき、それは心の有り様のことである。つまり、悔い改めるとは、主を迎えるために、曲がった心をまっすぐにし、でこぼこな心を平らにするのである。そのようにして、洗礼者ヨハネの後から来る主イエスを迎え入れるとき、人は皆、神の救いを見る。
「私よりも力のある方が来られる。その御方をお迎えする備えをせよ。そうすれば、あなたたちは皆、神の救いを見ることができる。罪の赦しを得ることができる」、と良き知らせをヨハネは告げる。このヨハネのメッセージは、主イエスが来られた後の時代に生きる私たちには関係がないのであろうか。そうではない。なぜなら、十字架の死から復活され、天に昇られた主イエスは、再びこの地上に来られるからだ。私たちは、主イエスの洗礼、聖霊による洗礼を受けて、罪の赦しを既に得ている。しかし、私たちは完全な救いにあずかっているわけではない。私たちの救いが完成されるのは、主イエスが、天から再び来られる日である。それゆえ、日々悔い改めて、主をお迎えするためにまっすぐで平らな心を備える必要があるのだ。
私たちは、主イエスを信じる者として、主の日の礼拝に集い、罪の赦しにあずかり、神の救いを見る。しかし、それは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰によることである。私たちは信仰によって、目に見えない方をまるで見えるかのように礼拝しているのだ。けれども、主イエスが天から再び来られる日に、私たちは、生きていれば栄光の体に変えられて、死んでいれば栄光の体に復活させられて、その目をもって、主イエスと父なる神を見ることになる。その日、その時、私たちは罪の支配から完全に解放された正しい者として、主イエスと父なる神を仰ぎ見て、礼拝をささげることになるのである。
<2024年12月15日説教から>
『主が来られる道を整える』
ルカによる福音書3章1節~6節
牧師 鈴木美津子
「イザヤ書」の文脈で読めば、荒れ野に備えられる主の道とは、バビロンの地からエルサレムへと至る道のことである。苦役の時が満ちたイスラエルの民は、バビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還する。その民を導かれるのが主なる神である。それゆえ、バビロンからエルサレムへの道は、主が通られる道である。その主に先立って、伝令は進み、まっすぐで平らな主の道を備える。ルカ福音書が、ヨハネの活動を、預言者イザヤの言葉の成就であると言うとき、それは心の有り様のことである。つまり、悔い改めるとは、主を迎えるために、曲がった心をまっすぐにし、でこぼこな心を平らにするのである。そのようにして、洗礼者ヨハネの後から来る主イエスを迎え入れるとき、人は皆、神の救いを見る。
「私よりも力のある方が来られる。その御方をお迎えする備えをせよ。そうすれば、あなたたちは皆、神の救いを見ることができる。罪の赦しを得ることができる」、と良き知らせをヨハネは告げる。このヨハネのメッセージは、主イエスが来られた後の時代に生きる私たちには関係がないのであろうか。そうではない。なぜなら、十字架の死から復活され、天に昇られた主イエスは、再びこの地上に来られるからだ。私たちは、主イエスの洗礼、聖霊による洗礼を受けて、罪の赦しを既に得ている。しかし、私たちは完全な救いにあずかっているわけではない。私たちの救いが完成されるのは、主イエスが、天から再び来られる日である。それゆえ、日々悔い改めて、主をお迎えするためにまっすぐで平らな心を備える必要があるのだ。
私たちは、主イエスを信じる者として、主の日の礼拝に集い、罪の赦しにあずかり、神の救いを見る。しかし、それは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰によることである。私たちは信仰によって、目に見えない方をまるで見えるかのように礼拝しているのだ。けれども、主イエスが天から再び来られる日に、私たちは、生きていれば栄光の体に変えられて、死んでいれば栄光の体に復活させられて、その目をもって、主イエスと父なる神を見ることになる。その日、その時、私たちは罪の支配から完全に解放された正しい者として、主イエスと父なる神を仰ぎ見て、礼拝をささげることになるのである。