2023.11.5 の週報掲載の説教

2023.11.5 の週報掲載の説教
<2023年8月27日の説教から>
 
ローマの信徒への手紙13章1-7節

 
『上に立つ権威』牧 師 鈴木美津子
 
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(1)」

「すべての魂、すべての人間は、上に立つ権威に従うべきである」とパウロは語っている。上に立つ権威に従うことにおいて、キリスト者も例外ではないということである。キリスト者は、主イエスを、キリスト、メシア、油を注がれた王と告白している。主イエスをキリストと告白することは、主イエスが油注がれた王であると告白することであるからだ。しかし、そのように告白するキリスト者であっても、上に立つ権威に従うべきであるとパウロは言うのである。

そこで彼は、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」であると語るのである。しかし、そのことを当の権威者たちが必ずしも知っているわけではない。当然、異教徒である権威者はそのことを知らない。それゆえ、権威者たちは、自分たちを絶対化して、思想・良心の自由を侵したり、あるいは自らの思想やイデオロギーを実現するために、税金を徴収したりすることがある。そのような時、キリスト者は、抗議の声を上げるべきである。さらに、キリスト者は、権威者が神の御心に逆らうことを命じる場合には、抵抗することを命じられている。使徒ペトロが使徒言行録5章29節で「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と、大胆に語ったように、キリスト者は人間よりも、神に従わなくてはならない。

パウロは、5節で、「良心のためにも、権威者に従うべき」であると語っているが、権威者が委ねられた権能を越えて、神のように振る舞うとき、キリスト者は良心のために、権威者に従ってはならない。また、権威者が神の掟に背くことを命じるとき、キリスト者は良心のために従ってはならない。なぜなら、キリスト者の良心の主はイエス・キリストの父なる神であるからだ。キリスト者は、権威者に無条件に従うことが求められているのではない。権威者が神によって立てられ、神に仕える者であるがゆえにキリスト者は、その権威に従うことが求められているのである。

2023.10.29 の週報掲載の説教

2023.10.29 の週報掲載の説教

<2023年8月20日の説教から>

『すべての人と平和に暮らしなさい』
ローマの信徒への手紙12章14節~21節

牧 師 鈴木美津子

 
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(14)」パウロは、「あなたがたを迫害する者」までも祝福を祈れと言う。なぜ、キリスト者は自分を迫害する者のために祝福を祈らねばならないのか。それは、私たちがかつて神の敵であったにも関わらず、イエス・キリストにあって祝福にあずかる者とされているからである。かつて、パウロ自身が主イエスを迫害する者であったにもかかわらず、祝福を受けた者であった。この私たちも同じである。しかし、その私たちのために、神は愛する御子を十字架の死に引き渡してくださった。だから、私たちは敵をも愛する愛、神の愛に生きることが求められているのである。

また、イエス・キリストを信じる私たちは、だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うよう心がけることが求められている。ここでの善は、神の御心のことである。私たちは誰に対しても、誰の前であっても、神の御心である善を行うよう心がけるべきである。言い換えれば、どのようなときも御言葉と聖霊に導かれて歩むということである。しかし、この世で、すべての人の祝福を祈り、誰に対しても善を行って安寧に暮らすことは大変難しいことである。なぜなら、世はイエス・キリストを憎み、その弟子である私たちをも憎むからである。だから、パウロは、「できるかぎり、あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」、「あなたがたの方からすべての人との平和を乱してはならない」と言うのである。パウロは、この世と妥協することを勧めているのではない。キリスト者は、信仰や真理の問題に関しては、決して妥協してはならない。なるべく争いを避けようとして、神ではないものを神として拝むことはできない。パウロがここで言おうとしていることは、自分で「復讐してはならない」ということである。キリスト者は、自分で復讐して、人々との平和を乱してはならない。なぜなら、神から満ち溢れるほどに愛されている私たちには、自分を迫害する者をも愛して、平和を造り出すことが求められているからである。

2023.10.22 の週報掲載の説教

2023.10.22 の週報掲載の説教
<2023年8月6日の説教から>

『キリストに倣う』
ローマの信徒への手紙12章9節~13節

牧 師 鈴木美津子

 
愛には偽りがあってはなりません。(9)」

「偽りがあってはならない」とは、「偽善的であってはならない」ということ、言い換えれば、「本物の愛で互いに愛し合う」と言うことである。この愛は、神の愛、アガペーの愛である。どのようにして私たちは、この本物の愛を持つことができるのか。この愛は神からの賜物である。私たち人間がつくり出すことはできない。神が先に私たちを愛してくださったので、私たちは本当の愛を持つことができるのだ。つまり、私たちが神に目を留め、神の愛を覚え、神の愛に応答するときに、私たちは、この本物の愛で互いに愛し合うことができるのである。なぜなら、罪人である私たちは、自分の中から本物の愛を引き出すことはできないからである。神の愛をいただいた者として、感謝をもってその愛を喜び、神への応答として、この愛を持つことができるのである。

パウロは、その後に「悪を憎み、善から離れず」と言葉を繋げる。「善から離れず」とは、善にくっつく、善に固着するという意味である。善が自分から離れないように必死にすがるのである。真剣に悪と戦って善を求めるのである。それこそが「偽善的ではない愛」を持つことの意味である。善を求めないで悪と妥協しながら生活を送り、自分の心の中にある悪い思いなどを許すような生活を送ったりするなら、私たちは偽善的な愛しか持てない者になってしまうのである。

私たちは皆、罪人なので、本当の愛を持つための戦いは死ぬ日まで続く。この戦いは、自分の心の中の戦いである。しかし、そうであっても私たちは戦わなければならない。

なぜなら、神が私たちを愛して、御自分の御子である主イエス・キリストを惜しまずに私たちに与えてくださったからである。そのことに感謝するのである。そのことを覚えるなら、私たちは、自分の心にある偽善と戦うことができる。自分の心にある悪に対して戦うことができる。自分の思いの悪いところに対して戦うことができる。本当の意味で悪を憎むことができるのである。真剣に悪と戦うならば、私たちは必ず成長する。真剣に悪と戦うならば、神を求め、愛を求めて歩み続けることができる。わたしたちは、どんな境遇にあっても、たとえもっとも厳しい状況にあっても、またわたしたちが過ちを犯したときも、神の愛は決して失われないことを、わたしたちは知っているからである。だから、私たちは、今日も希望を持って歩むことができる。

2023.10.8 の週報掲載の説教

2023.10.8 の週報掲載の説教
<2023年7月30日説教から>

『一つの体を形づくる』

ローマの信徒への手紙12章3節~8節

牧 師 鈴木美津子

 
パウロは、キリストを信じる者たちが形づくる共同体、つまりキリストの体なる教会の中では、「自分を過大に評価してはなりません(3b)」と命じる。自分自身に過大な評価をして、他の人を蔑まないように、謙虚な心を持つようにと命じているのである。しかし、これは「自分を評価する時に、控えめに評価せよ」ということではない。それは言うまでもなく、恵みを与えくださる神ご自身を否定しているのと同じだからである。それは他の人に対しても同様である。そうであるから、パウロは「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき(3c)」である、と語るのである。人間のはかりではなく、信仰のはかりにしたがって、しかも神が与えくださった信仰のはかりにしたがって、慎み深く各自を評価するようにと命じているのである。

これを語るパウロには、教会という共同体が、キリストを頭とした一つの体とする思いがある。人間の体というのは、さまざまな部分から成り立っている。体には手があり、足があり、手には指があり、顔には目や鼻や口があるように、教会に集う一人一人のキリスト者も、そのように一つの体なる教会を造り上げている。しかも、一つの体を構成している部分は多様な部分からなっているが、それぞれの部分同士を比較して、どちらの方が優れている、またどちらの方が劣っている、とは言えない。むしろ、それぞれの部分が互いに他を必要としているからこそ、一つの体としてもっともよく機能していくことができるのである。このようにキリストを信じる者たちが、互いに他を必要とする体の部分であるという認識を持っていれば、そこには傲慢な思いも、蔑む思いも生まれて来るはずがないはずである。だからこそ、互いがそれぞれに自分に与えられた責任を果たすことで、一つの体としてもっともよく成長できることを覚える必要があるのだ。
教会は、キリストを頭として一体性と多様性をバランスよく保ちながら豊かに成長していく共同体である。そして、そのような共同体を自分もまた構成している一人一人であることを謙虚に自覚し、互いに対して果たすべき責任を深く思うことが大切なのである。パウロは、6節以下で、それぞれに与えられる賜物について記しているが、私たちはその賜物を各々慎み深く思い、一つの体なる教会を形づくるために用いていきたいと願うのである。

2023.10.1 の週報掲載の説教

2023.10.1 の週報掲載の説教
<2023年7月23日説教から>

『わたしたちのなすべき礼拝』

ローマの信徒への手紙12章1節~2節

牧 師 鈴木美津子

 
パウロがこの手紙を記した紀元60年頃のエルサレム神殿では、旧約聖書の掟に従って、動物犠牲がささげられていた。しかし、彼は、キリストを信じる者は、牛や羊をささげるのではなく、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい(1b)」と勧める。なぜなら、「キリストが、御自分を信じる者たちのために十字架の上で血を流して死んでくださった。私たちの罪を償う供え物として、御自分を献げてくださった。だから、キリストを信じる者は、動物をいけにえとしてささげる必要はない。キリストを信じる者に命じられているのは、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること」だからである。

キリスト者は、毎主日、この体をもって教会に集まり、共に礼拝をささげている。礼拝に出席することにより、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げている。しかし、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい(1b)」とは、それだけでなく、キリスト者の生活の全領域に当てはめることができることである。キリスト者は主の日だけではなく、日々、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげることが求められているのだ、と言うことである。

それに続く「あなたがたのなすべき礼拝(1c)」という言葉は「あなたがたの理にかなった礼拝」とも訳すことができる。神のもろもろの憐れみを受けた者は、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることが、道理にかなったことだということ、当然なされるべきことだという意味である。パウロは、1章から11章に渡り、神のもろもろの憐れみについて語ってきた。そのような憐れみ、恵みをキリスト者は神から与えられているのである。そうであれば、キリスト者が自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることは理にかなったことであるのだ。神からもろもろの憐れみをいただいていながら、自分の体を罪に任せるような生活をしているならば、それは理にかなっていない。それは実におかしなことである。

キリストは、私たちの罪のために、御自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして、十字架のうえで献げてくださった。それは、御自分を信じる者が、神の憐れみに感謝して、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるためである。だから、私たちは、日曜日だけでなく、私たちの全てを、神にささげる。これが私たちがなすべき、理にかなったことである。

2023.9.24 の週報掲載の説教

2023.9.24 の週報掲載の説教
<2023年7月16日説教から>

すべての人を憐れむために

ローマの信徒への手紙11章25節~36節

牧 師 鈴木 美津子

 
神の民イスラエルの歴史は、神が父祖アブラハムを召し出されたことから始まった。その長い歴史は、民が神に背き続け、罪を犯し続けた歴史でもある。そうであるにもかかわらず、神はイスラエルを愛し続け、御子イエス・キリストをこの地上に送って下さった。しかし、彼らはその御子をも受け入れず、民衆がキリストを救い主として迎え入れようとしている姿に、心を頑なにして妬みを起こし、ついには、キリストを十字架につけてしまった。では、この頑ななイスラエルの民はどうなるのか。イスラエルの民は、今度こそ神から見捨てられてしまうのだろうか。

パウロは、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように(25a)」と異邦人に対して、自分たちだけが救われて、イスラエルの民を軽蔑したり、見下げたりすることのないようにと戒めた後、「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。(25b)」と人間の考えをはるかに超えた壮大な「神の秘められた計画」を彼らに告げた。

イスラエルの民が心を頑なにして、キリストを信じなかったことによって、福音はまず異邦人へと伝えられた。しかし、神の計画は、それで終わるのではない。イスラエルの民が頑なであるのは、異邦人全体が救われる時までであり、異邦人全体が救われた時、全イスラエルが救われるというものなのだ。神は、ユダヤ人も異邦人もすべての人が救われることを願っておられるのだ。

29節に「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」とある通り、アブラハムをはじめ、先祖たちと契約を結ばれて、イスラエルを選民として立てられた神は、御自分が選ばれた民に対して、その愛を取り消されるようなお方ではないのである。神から、選ばれた民は、決してその愛から漏れることはないからである。

かつて不柔順であった異邦人を救って下さった神は、ユダヤ人をも決して見捨てられず、愛し続けておられる。神はすべての人を憐れんでおられ、すべての人が救われることを願っておられるのである。

この神の救いの計画は、あまりにも壮大で、有限である私たち人間の知恵や知識では、知り尽くすことは出来ない。だからこそ、この神の素晴らしい計画を覚えながら、心から主なる神を讃美し、この神の計画の一端を担う喜びを抱き、共に歩みを進めたいと思う。