<2019年10月13日の説教から>
『愛を加えなさい』
ペトロの手紙二1章1節~11節
牧師 三輪地塩
この箇所のテーマは4節にある。「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性(ほんせい)にあずからせていただくようになるためです。」
ここには、神の神性、神の性質と、世俗性の対比が見られる。この世には多くの退廃がある。退廃は、健全さや道徳性が失われた状態、病的、堕落的という意味である。この手紙の著者は、神のうちに本質性を見出し、世俗の内に「物質性」を見出している。人間は、見たもの、見えるもの、手で触れるもの、高価なものに心が引かれ、目が奪われがちである。物質性の追求は、その物事の本質を見失わせる。それは政治、経済、教育、学問などの全ての分野で起こりうる。
それゆえ聖書は、これに併せて次のようにも語る。「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
全てにおいて「愛」が必要であると語る。「兄弟愛には愛を加えなさい」というのは、原文では、「フィラデルフィアにはアガペーを加えなさい」となっている。かなり近しい間柄に育まれる愛の内に「アガペー」すなわち「無償の愛」つまり「一方的に与え続けていく愛」を加えるのである。ともすれば我々は、愛をギブ&テイクの論理で行ってしまう。あの人が何をしてくれたから何をする。何もしてくれなかったから何もしない。このような原理の中に生きてしまいがちだ。だが、聖書の語る愛の根源には損得はない。この愛は、右の頬を打たれたら左の頬を差し出す愛であり、盗賊に襲われて道に倒れているユダヤ人を、身の危険を顧みないで介抱するあの愛である。十字架に掛けられてさえも、「神よこの人たちをお赦し下さい。自分たちが何をしているのか知らないのです」と、自分を処刑した罪人たちのために祈りを献げ、神の赦しを請う愛。それこそが「アガペー」である。キリストの体なる教会こそが、アガペーの香りが漂う場所であってほしいと、心から願ってやまない。
2021.1.3 の週報掲載の説教
<2019年9月29日の説教から>
『身を慎んで目を覚ましていなさい』
ペトロの手紙一5章8節~14節
牧師 三輪地塩
人は困難・艱難に見舞われるとき、とかくその苦しみが自分にだけに降りかかった不幸であると考えがちだ。「誰も分かってくれない」「この苦しみをみんなに聞いてもらいたい」と一人で塞ぎ込むことはしばしば起こるだろう。
当該箇所で著者ペトロは、「苦しみの共有」「苦しむ者たちの繋がり」について語っている。「あなた方だけが苦しみ、痛んでいるのではない。今、共に闘っている同労者がいる」と述べ、「ローマ帝国で苦しむ信徒」の声を伝えている。我々は現在、Instagram、Facebook、LINEなど多くのSNSによって世界と繋がる社会に生きている。SNSの素晴らしさは言うまでもない。だが同時に、発信される情報は、個人の裁量に任されている。つまり「人間活動の良い面」が発信されることが多いと言える。自分の不利益、罪の告白、人を傷つけた過去の出来事、迫害され虐げられた生活を赤裸々に発信するよりも、「リア充」(※実生活が充実していることを表す現代用語)を発信する傾向は強いだろう。SNSから発信される有益な諸情報が数多くあったとしても、「人間の心の奥底の痛み」「誰にも相談できない苦しみ」は、「今のところ」デジタル・ネット社会に解決できてはいない。
だが、SNSには苦しんでいる人々の連帯を強める#me tooのような社会運動がある。この視点から考えると、当該箇所はいわば#me too運動さながらである。巨大国家に虐げられ、地域住民から害を受けた、小アジアの片隅で苦しむキリスト者たちの心の叫びを共有し連帯を促している。一人一人では解決できない信仰者たちの痛みの連帯、被迫害者たちのネットワークを、著者ペトロはいわば「ホストサーバー」となって励ましの言葉を与えるのだ。「共に選ばれてバビロンにいる人々」(5章13節)と言われる苦しむ者たちの繋がりの根本が「キリスト」であることを著者は伝え、この手紙を「キリストによる平和」で締めくくる。最後の「平和があるように」の言葉は、ヘブル語では「シャーローム」。シャーロームは「主にある平安」であり、「安全・無事・平々凡々」を意味しない。闘いや苦悩の中にもシャーロームがあり、痛みや迫害の中にもシャーロムは存在する。キリストを信じる仲間たちと共に耐え忍ぶことが出来れば、そこに「シャーローム」が存在する。
『身を慎んで目を覚ましていなさい』
ペトロの手紙一5章8節~14節
牧師 三輪地塩
人は困難・艱難に見舞われるとき、とかくその苦しみが自分にだけに降りかかった不幸であると考えがちだ。「誰も分かってくれない」「この苦しみをみんなに聞いてもらいたい」と一人で塞ぎ込むことはしばしば起こるだろう。
当該箇所で著者ペトロは、「苦しみの共有」「苦しむ者たちの繋がり」について語っている。「あなた方だけが苦しみ、痛んでいるのではない。今、共に闘っている同労者がいる」と述べ、「ローマ帝国で苦しむ信徒」の声を伝えている。我々は現在、Instagram、Facebook、LINEなど多くのSNSによって世界と繋がる社会に生きている。SNSの素晴らしさは言うまでもない。だが同時に、発信される情報は、個人の裁量に任されている。つまり「人間活動の良い面」が発信されることが多いと言える。自分の不利益、罪の告白、人を傷つけた過去の出来事、迫害され虐げられた生活を赤裸々に発信するよりも、「リア充」(※実生活が充実していることを表す現代用語)を発信する傾向は強いだろう。SNSから発信される有益な諸情報が数多くあったとしても、「人間の心の奥底の痛み」「誰にも相談できない苦しみ」は、「今のところ」デジタル・ネット社会に解決できてはいない。
だが、SNSには苦しんでいる人々の連帯を強める#me tooのような社会運動がある。この視点から考えると、当該箇所はいわば#me too運動さながらである。巨大国家に虐げられ、地域住民から害を受けた、小アジアの片隅で苦しむキリスト者たちの心の叫びを共有し連帯を促している。一人一人では解決できない信仰者たちの痛みの連帯、被迫害者たちのネットワークを、著者ペトロはいわば「ホストサーバー」となって励ましの言葉を与えるのだ。「共に選ばれてバビロンにいる人々」(5章13節)と言われる苦しむ者たちの繋がりの根本が「キリスト」であることを著者は伝え、この手紙を「キリストによる平和」で締めくくる。最後の「平和があるように」の言葉は、ヘブル語では「シャーローム」。シャーロームは「主にある平安」であり、「安全・無事・平々凡々」を意味しない。闘いや苦悩の中にもシャーロームがあり、痛みや迫害の中にもシャーロムは存在する。キリストを信じる仲間たちと共に耐え忍ぶことが出来れば、そこに「シャーローム」が存在する。
2020.12.20 の週報掲載の説教
<2019年9月22日の説教から>
『卑しい利得のためにではなく献身的に』
ペトロの手紙一5章1節~7節
牧師 三輪地塩
著者は「思い煩い」(7節)について語る。我々は多くの思い煩いを持つ。健康や仕事、目や耳の衰えや体力の低下、子どもの教育、老後の心配、進学や受験等々に至るまで、我々の生活は思い煩いに満ちている。「思い煩う」行為は、読んで字のごとく「思いを」「煩う」のであって、決して手足を動かして労苦することではない。まだ起こっていない未知・未見の出来事をあれこれと考え、自分の理解可能な枠の中に閉じこもり、「神を抜きにして」悩んでいる状態を「思い煩い」であると聖書は言う。
悩むことは誰にでもある。だが悩んだ時、いつも思い起こしたいのは当該書簡5章7節の言葉である。「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方の事を心にかけていて下さるからです」。我々はこの言葉を心から信じたいと思う。悩む時、神に全てを任せる信仰を持ちたいのだ。詩編55編17節~18節、23節に次のように書かれている。
「私は神を呼ぶ。主は私を救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、私は悩んでうめく。神は私の声を聞いて下さる。」(17~18節)。「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えて下さる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らって下さる」(23節)
我々の人生を取り巻く思い煩いや悩みは絶えず起こる、だが神は全てを取り計らって下さる方である。神は、決して無意味なことを行なう方ではない。時には喜びを与え、時には苦しみを与え、その全てが我々の生活にとって意味深いものになる。
そのために「信仰にしっかりと踏みとどまって悪魔に抵抗しなさい」(9節)と著者は言う。信仰を持ち、キリストにしっかりと繋がっていることによって、我々は苦難を乗り越えて「完全な者とされるのです」(10節)と、著者ペトロは語る。
謙遜に、身を低くし、慎みをもって、多くの悩みや誘惑から身を守りたい。悪魔の力に勝利したキリストの十字架を見上げつつ、復活によって死から勝利されたキリストに目を向け、いよいよ信仰を強められて歩みたい。
『卑しい利得のためにではなく献身的に』
ペトロの手紙一5章1節~7節
牧師 三輪地塩
著者は「思い煩い」(7節)について語る。我々は多くの思い煩いを持つ。健康や仕事、目や耳の衰えや体力の低下、子どもの教育、老後の心配、進学や受験等々に至るまで、我々の生活は思い煩いに満ちている。「思い煩う」行為は、読んで字のごとく「思いを」「煩う」のであって、決して手足を動かして労苦することではない。まだ起こっていない未知・未見の出来事をあれこれと考え、自分の理解可能な枠の中に閉じこもり、「神を抜きにして」悩んでいる状態を「思い煩い」であると聖書は言う。
悩むことは誰にでもある。だが悩んだ時、いつも思い起こしたいのは当該書簡5章7節の言葉である。「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方の事を心にかけていて下さるからです」。我々はこの言葉を心から信じたいと思う。悩む時、神に全てを任せる信仰を持ちたいのだ。詩編55編17節~18節、23節に次のように書かれている。
「私は神を呼ぶ。主は私を救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、私は悩んでうめく。神は私の声を聞いて下さる。」(17~18節)。「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えて下さる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らって下さる」(23節)
我々の人生を取り巻く思い煩いや悩みは絶えず起こる、だが神は全てを取り計らって下さる方である。神は、決して無意味なことを行なう方ではない。時には喜びを与え、時には苦しみを与え、その全てが我々の生活にとって意味深いものになる。
そのために「信仰にしっかりと踏みとどまって悪魔に抵抗しなさい」(9節)と著者は言う。信仰を持ち、キリストにしっかりと繋がっていることによって、我々は苦難を乗り越えて「完全な者とされるのです」(10節)と、著者ペトロは語る。
謙遜に、身を低くし、慎みをもって、多くの悩みや誘惑から身を守りたい。悪魔の力に勝利したキリストの十字架を見上げつつ、復活によって死から勝利されたキリストに目を向け、いよいよ信仰を強められて歩みたい。
2020.12.13 の週報掲載の説教
<2019年9月15日の説教から>
『神の栄光が留まる』
ペトロの手紙一4章12節~19節
牧師 三輪地塩
「火」は聖書的に言うと「苦しみの象徴」「ゲヘナ」「地獄」を表わすと共に「精錬されること」「神の力が与えられること」、の表現として用いられる。当該箇所でも「火のような試練を」という厳しい言葉が使われているが、「驚き怪しんではいけません。むしろキリストの苦しみにあずかるものとして喜びなさい」と言うように、苦しみとは正反対の概念をもって伝えている。キリストの名のために非難され苦しむとき、あなたたちの上に、神の霊、聖霊の力がとどまるのだ、と言う。
火は、全てのモノを破壊する恐怖の力でありながら、明るく灯される「灯火」にもなる。食料を柔らかく調理し、夜通し危険な猛獣から身を守る助けとなる。「神からの火・試練」は、決して我々を破壊するものではなく、我々をより強固に構築し、より恵み深く歩む力となる、とペトロは言う。ここには敵対者に対する憎しみや怒りよりも、自分たちが苦しみをどう受け取るかに焦点が当てられる。
とは言え、17節には「自分たちがこんなに苦しむんだから敵対者たちはもっと苦しむはずだ」という主旨の言葉が述べられる。自分を苦しめる者らがもっと痛い目に遭うのならば、今自分たちに向けられる苦しみは甘んじて受けよう。そう語っているようでもある。 このような言い方は、日本の因果応報的考えに似ているように思うかもしれない。だが、この書簡の1章~4章を読んでみて思うのは、ペトロが敵対者の行動にはあまり関心を示していないことである。言い換えるならば、人がどうするかよりも、信仰者たちであるあなた方はどう生きるのか、を問うていることにある。「敵の攻撃に対して、我々はどう対処する」という敵の批判はペトロの念頭にあまりない。むしろ聖書全体は「悪い者こそが救われるべきだ」というメッセージを持っている。特に新約聖書ではその傾向が強い。イエス・キリストがサマリア人や娼婦、徴税人や忌み嫌われる者たちを愛し、共に歩む姿は、まさに救いから外れた者たちに対する救いの宣言である。我々は敵対者や悪人の行動を見るのではなく、自分はどう生き、どう赦すのか、を問いたいものである。
『神の栄光が留まる』
ペトロの手紙一4章12節~19節
牧師 三輪地塩
「火」は聖書的に言うと「苦しみの象徴」「ゲヘナ」「地獄」を表わすと共に「精錬されること」「神の力が与えられること」、の表現として用いられる。当該箇所でも「火のような試練を」という厳しい言葉が使われているが、「驚き怪しんではいけません。むしろキリストの苦しみにあずかるものとして喜びなさい」と言うように、苦しみとは正反対の概念をもって伝えている。キリストの名のために非難され苦しむとき、あなたたちの上に、神の霊、聖霊の力がとどまるのだ、と言う。
火は、全てのモノを破壊する恐怖の力でありながら、明るく灯される「灯火」にもなる。食料を柔らかく調理し、夜通し危険な猛獣から身を守る助けとなる。「神からの火・試練」は、決して我々を破壊するものではなく、我々をより強固に構築し、より恵み深く歩む力となる、とペトロは言う。ここには敵対者に対する憎しみや怒りよりも、自分たちが苦しみをどう受け取るかに焦点が当てられる。
とは言え、17節には「自分たちがこんなに苦しむんだから敵対者たちはもっと苦しむはずだ」という主旨の言葉が述べられる。自分を苦しめる者らがもっと痛い目に遭うのならば、今自分たちに向けられる苦しみは甘んじて受けよう。そう語っているようでもある。 このような言い方は、日本の因果応報的考えに似ているように思うかもしれない。だが、この書簡の1章~4章を読んでみて思うのは、ペトロが敵対者の行動にはあまり関心を示していないことである。言い換えるならば、人がどうするかよりも、信仰者たちであるあなた方はどう生きるのか、を問うていることにある。「敵の攻撃に対して、我々はどう対処する」という敵の批判はペトロの念頭にあまりない。むしろ聖書全体は「悪い者こそが救われるべきだ」というメッセージを持っている。特に新約聖書ではその傾向が強い。イエス・キリストがサマリア人や娼婦、徴税人や忌み嫌われる者たちを愛し、共に歩む姿は、まさに救いから外れた者たちに対する救いの宣言である。我々は敵対者や悪人の行動を見るのではなく、自分はどう生き、どう赦すのか、を問いたいものである。
2020.12.6 の週報掲載の説教
<2019年9月8日の説教から>
『愛は多くの罪を覆う』
ペトロの手紙一4章1節~11節
牧師 三輪地塩
「経済」という言葉は、古代中国の「経国済民」「経世済民」に由来する。経と済の間に「国」が入り「民」が最後にくる。つまり、「世を治め」「民を救済する」ことを意味する言葉であった。経済とは本来「世の救済」の活動を意味していた。
英語の「エコノミー」という語には「国を治める」という意味があるそうだ。この言葉の原意は、ギリシャ語の「オイコノモス」である。この語は「利潤」という意味を持たず、「オイコス」=「家」、「ノモス」=「留まる」「統治する」「治める」の合成語である。すなわち西洋的には「家を司ること」「家を取り仕切ること」、東洋的には「民の救済」が「経済」の本来的な意味となる。
ペトロは異教の国に生きるキリスト者に対し、励ましの手紙を書いている。彼は信徒たちに対し「オイコノモスになりなさい」と伝える。(10節・「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」。この「管理人」という言葉が「オイコノモス」である。私たちに対し「管理人になれと」言うのだ。それは、「授かった賜物の管理人」である。「賜物」は「カリス」という語が使われおり、この「カリス」は「恵み」と訳される。私たちは多くの能力に溢れているが、「カリス」が意味するのは、自分の「才能」「能力」「賜物」が、自分一人の力で得たものではない、という意味を含んでいる。聖書的な観点から言えば、「元々備わった能力」「努力する力」「環境に恵まれること」は、やはり神から頂かないと得られないのだ。
ペトロは続けて「その賜物を生かして、互いに仕えなさい」と言われる。「仕えること」が目的だと言う。「仕える」=「ディアコネオー」、すなわちディアコニア、奉仕を表わす語である。神から頂いた能力を、仕え合うために用いなさい、という運用が求められているのだ。運用と言えば「経済」を思い浮かべるかもしれない。しかし本来の運用とは、我々の相互の交わりと支え、平和を作り出すために、それぞれの能力を「運用」すべきであると聖書は語っている。
『愛は多くの罪を覆う』
ペトロの手紙一4章1節~11節
牧師 三輪地塩
「経済」という言葉は、古代中国の「経国済民」「経世済民」に由来する。経と済の間に「国」が入り「民」が最後にくる。つまり、「世を治め」「民を救済する」ことを意味する言葉であった。経済とは本来「世の救済」の活動を意味していた。
英語の「エコノミー」という語には「国を治める」という意味があるそうだ。この言葉の原意は、ギリシャ語の「オイコノモス」である。この語は「利潤」という意味を持たず、「オイコス」=「家」、「ノモス」=「留まる」「統治する」「治める」の合成語である。すなわち西洋的には「家を司ること」「家を取り仕切ること」、東洋的には「民の救済」が「経済」の本来的な意味となる。
ペトロは異教の国に生きるキリスト者に対し、励ましの手紙を書いている。彼は信徒たちに対し「オイコノモスになりなさい」と伝える。(10節・「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」。この「管理人」という言葉が「オイコノモス」である。私たちに対し「管理人になれと」言うのだ。それは、「授かった賜物の管理人」である。「賜物」は「カリス」という語が使われおり、この「カリス」は「恵み」と訳される。私たちは多くの能力に溢れているが、「カリス」が意味するのは、自分の「才能」「能力」「賜物」が、自分一人の力で得たものではない、という意味を含んでいる。聖書的な観点から言えば、「元々備わった能力」「努力する力」「環境に恵まれること」は、やはり神から頂かないと得られないのだ。
ペトロは続けて「その賜物を生かして、互いに仕えなさい」と言われる。「仕えること」が目的だと言う。「仕える」=「ディアコネオー」、すなわちディアコニア、奉仕を表わす語である。神から頂いた能力を、仕え合うために用いなさい、という運用が求められているのだ。運用と言えば「経済」を思い浮かべるかもしれない。しかし本来の運用とは、我々の相互の交わりと支え、平和を作り出すために、それぞれの能力を「運用」すべきであると聖書は語っている。
2020.11.29 の週報掲載の説教
<2019年9月1日の説教から>
『良いことに熱心であれ』
ペトロの手紙一3章13節~22節
牧師 三輪地塩
「主は悪を放置しない」と言われる。我々は、悪人が罪の意識に苛まれ、最終的には改心し、良識ある人として立ち直ってもらうという願望を持つ。我々は『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのように、劇的に心を入れ替えてもらうことを望んでいる。しかし実際はそう甘くない。悪人は悪人のままであることが多いように感じる。たとえば「特殊詐欺」の実行犯は、善良な市民からお金をむしり取ることを「正義である」と思い込み、その歪な論理の中で自らの行為を正当化し、それが恰も「経済活動」であるかのように主張し、罪の意識を持たない。「悪人が、自らの悪に苦しんでいつか改心する」というのは、我々の願望であり、思い描く理想に過ぎないのかもしれない。
当該箇所では、この「悪の現実」についてノアの箱舟の物語を例に挙げる。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」とある。
ノアの洪水を免れて救われたのは、箱舟に乗った8名だけであった。他の民衆は、神の言葉をないがしろにしてノアを馬鹿にしあざ笑った。その結果自らの罪を顧みることなく滅んで行ったというのがノアの物語である。
「神の言葉から離れた罪人たちは、霊として、救われることなくさまようのだ」という。一見キリスト教的でなさそうなこの言葉には日本人の死生観に近いものがあるかもしれない。
しかし、もし著者ペトロの記す死生観・天国観を受け入れるとするならば、善と悪の問題に少し解決の糸口を見ることができる。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(3:19)。この言葉から分かるのは、キリストが陰府にくだった後、そこで悪人に宣教をするのだということである。御言葉に聞かなかった者たちに、御言葉の宣教を行なう、という意味であろう。この世において改心(回心)しなかった罪深き者たち、悪人たちも、キリストの宣教の言葉を受けるのだ。我々の死生観ではにわかに受入れにくいこの言葉である。だが聖書はそう証言している。
『良いことに熱心であれ』
ペトロの手紙一3章13節~22節
牧師 三輪地塩
「主は悪を放置しない」と言われる。我々は、悪人が罪の意識に苛まれ、最終的には改心し、良識ある人として立ち直ってもらうという願望を持つ。我々は『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのように、劇的に心を入れ替えてもらうことを望んでいる。しかし実際はそう甘くない。悪人は悪人のままであることが多いように感じる。たとえば「特殊詐欺」の実行犯は、善良な市民からお金をむしり取ることを「正義である」と思い込み、その歪な論理の中で自らの行為を正当化し、それが恰も「経済活動」であるかのように主張し、罪の意識を持たない。「悪人が、自らの悪に苦しんでいつか改心する」というのは、我々の願望であり、思い描く理想に過ぎないのかもしれない。
当該箇所では、この「悪の現実」についてノアの箱舟の物語を例に挙げる。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」とある。
ノアの洪水を免れて救われたのは、箱舟に乗った8名だけであった。他の民衆は、神の言葉をないがしろにしてノアを馬鹿にしあざ笑った。その結果自らの罪を顧みることなく滅んで行ったというのがノアの物語である。
「神の言葉から離れた罪人たちは、霊として、救われることなくさまようのだ」という。一見キリスト教的でなさそうなこの言葉には日本人の死生観に近いものがあるかもしれない。
しかし、もし著者ペトロの記す死生観・天国観を受け入れるとするならば、善と悪の問題に少し解決の糸口を見ることができる。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(3:19)。この言葉から分かるのは、キリストが陰府にくだった後、そこで悪人に宣教をするのだということである。御言葉に聞かなかった者たちに、御言葉の宣教を行なう、という意味であろう。この世において改心(回心)しなかった罪深き者たち、悪人たちも、キリストの宣教の言葉を受けるのだ。我々の死生観ではにわかに受入れにくいこの言葉である。だが聖書はそう証言している。