<2019年12月8日の説教から>
ルカによる福音書1章39節~56節
『マリアの讃歌』
牧師 三輪地塩
イエス誕生時のユダヤは、ローマ帝国の傀儡政権として統治されていた。当時のローマ皇帝はアウグストゥス。当時の権力者のトップが彼であった。彼は皇帝礼拝の基礎を作った人物であり、この皇帝礼拝は300年に亘って続けられた。彼の統治した時代は「パクス・ロマーナ」「ローマの平和」と呼ばれ、一代にして最も栄えた時代を築き上げた(歴史学的には)有能な皇帝である。彼の本当の名は、「オクタヴィアヌス」。ユリウス・シーザーの後継者だった。
この時代の詩人たちは、アウグストゥスを賞賛した。プロペルティウスという詩人は「アクティウムの戦い」に勝利したことを記念し、「世の救い主なる、アウグストゥスよ。海の上で勝利を得よ。大地は既に汝のものなり。わが弓は汝を支えん」と詠った。又、トルコ沿岸の町のある碑文には「万物の永遠性が、最善にして驚くべき善意であるカエサル・アウグストゥスを、この幸いなる時に人類に与え給うた。彼の国なる神聖ローマの父、いにしえのゼウス、~~大地と海に平和がもたらされ、町々は秩序と調和と富によって潤った」と、当時の人々はアウグストゥスに最大級の賛辞を送っていたのだった。当時の皇帝アウグストゥスは、「世の救い主」であり、「最善にして驚くべき善意である」、と言われていた。「この人こそ世界に平和をもたらす主にして神である。救い主にしてメシアである」。このような言い方がなされていた。
ルカ福音書が、この「救い主」という語を多用している。福音書でもルカにしか使われていないのが「救い主」「ソーテール」という称号である。「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(1:47)。「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった」(2:11)。というように、ルカは「救い主」と「イエス・キリスト」を明確に結びつける。そこには、権力の象徴・世界の統治者である「ソーテール」が皇帝ではなく「キリスト」であると言い、国家権力批判をしているとも言える。51節以下にこうある。「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。この強い表現の中にこそ、強烈な体制批判と、イエスのメシア性が表わされている。
2021.3.14 の週報掲載の説教
<2019年12月1日の説教から>
ルカによる福音書1章26節~38節
『神にできないことは何一つない』
牧師 三輪地塩
聖書はマリアのルックスや人物像には関心を向けず淡々と「受胎告知」を記す。つまり聖書は、マリアを、クリスマスの中心人物にしようとしていない。ここにはルカの使信が「人間」ではなく「神」中心であることが暗示されている。「主があなたと共におられる」「インマヌエル」が、聖書の中心テーマであると。
聖書にとってマリアという女性は、高潔で、性格の良い、正しい女性である必要がない。世の中にたくさんいる女性の一人であり、戸惑いと不安を持つ、田舎町ナザレに住む一般的な女性。それが聖書の伝えるマリアである。
ナザレという町は、ヨハネ福音書1:46に「ナザレから何か良い物が出るだろうか」と当時の格言で言われるように、取るに足らぬ町であり、神の救いから外れた町と考えられていた。
だが神は、この片田舎に住む、取るに足りない一人の女性に、救いの計画を告知した。神の目線から言えば、土地の繁栄、良い家柄、人間としての容姿・性格などの評価は関係ない。そのような人間の評価と「神の救い」は別なのだ。
このマリアの前に天使ガブリエルが現れた。29節には「彼女はこの言葉に戸惑い」とある。新共同訳聖書では「戸惑う」と訳されているが、岩波訳聖書では「心を乱され」と訳されている。彼女は結婚前であった。当時の律法に従うならば、婚前の関係は処罰の対象だった。もちろん事情を知らない周囲の人々は彼女の妊娠についてあれやこれやと勝手な事を言う。彼女のことを周囲は大いに誤解したことだろうし、彼女の心の痛みは激しかっただろう。つまりマリアは、戸惑っただけでなく、心が乱れ、苦しんだのだ。誤解され、婚約も破棄され、処罰されるかもしれない。命の危険もあるかもしれない。そのような、死の恐怖が彼女を包んだ。予期せぬ事態になり、喜べない現実が突然襲う。我々の身の回りでも起こりうる。彼女を襲ったこの状況は、しかしここから神の救いが始まる端緒となった。
神は我々の準備を待たず、突然救う。神はいつもご自身の計画をご自分の行いたいように遂行される。恵みを与えるのも、祝福するのも神の側からである。神に一方的に与えられたものを、我々は受け取るのみである。それがマリアの懐胎であった。
ルカによる福音書1章26節~38節
『神にできないことは何一つない』
牧師 三輪地塩
聖書はマリアのルックスや人物像には関心を向けず淡々と「受胎告知」を記す。つまり聖書は、マリアを、クリスマスの中心人物にしようとしていない。ここにはルカの使信が「人間」ではなく「神」中心であることが暗示されている。「主があなたと共におられる」「インマヌエル」が、聖書の中心テーマであると。
聖書にとってマリアという女性は、高潔で、性格の良い、正しい女性である必要がない。世の中にたくさんいる女性の一人であり、戸惑いと不安を持つ、田舎町ナザレに住む一般的な女性。それが聖書の伝えるマリアである。
ナザレという町は、ヨハネ福音書1:46に「ナザレから何か良い物が出るだろうか」と当時の格言で言われるように、取るに足らぬ町であり、神の救いから外れた町と考えられていた。
だが神は、この片田舎に住む、取るに足りない一人の女性に、救いの計画を告知した。神の目線から言えば、土地の繁栄、良い家柄、人間としての容姿・性格などの評価は関係ない。そのような人間の評価と「神の救い」は別なのだ。
このマリアの前に天使ガブリエルが現れた。29節には「彼女はこの言葉に戸惑い」とある。新共同訳聖書では「戸惑う」と訳されているが、岩波訳聖書では「心を乱され」と訳されている。彼女は結婚前であった。当時の律法に従うならば、婚前の関係は処罰の対象だった。もちろん事情を知らない周囲の人々は彼女の妊娠についてあれやこれやと勝手な事を言う。彼女のことを周囲は大いに誤解したことだろうし、彼女の心の痛みは激しかっただろう。つまりマリアは、戸惑っただけでなく、心が乱れ、苦しんだのだ。誤解され、婚約も破棄され、処罰されるかもしれない。命の危険もあるかもしれない。そのような、死の恐怖が彼女を包んだ。予期せぬ事態になり、喜べない現実が突然襲う。我々の身の回りでも起こりうる。彼女を襲ったこの状況は、しかしここから神の救いが始まる端緒となった。
神は我々の準備を待たず、突然救う。神はいつもご自身の計画をご自分の行いたいように遂行される。恵みを与えるのも、祝福するのも神の側からである。神に一方的に与えられたものを、我々は受け取るのみである。それがマリアの懐胎であった。
2021.3.7 の週報掲載の説教
| <2019年11月24日の説教から>
ルカによる福音書1章1節~25節 『洗礼者ヨハネの誕生』 牧師 三輪地塩 ザカリアは天使に「あなたの願いは聞き入れられた」と言われ「それを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」とある。アブラハム、モーセ、イザヤなども神の顕現を受けたとき、不安と恐怖の思いにかられた、と聖書は伝えている。老いた夫婦が「子が授かる」と天使に言われても、信じることが出来ないのは当然であろう。ザカリアは、天使ガブリエルの言葉を否定するように18節で言う。「私は老人ですし、妻も年をとっています」。このように天使の預言を拒否した。これに対して天使は言う。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話す事が出来なくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」。 ザカリアの「口が利けなくなった」理由を、我々は「ザカリアの不信仰」と理解するだろう。信じなかったからための罰だと。勿論そのような意味もあったとも思うが、正確にはそうではない。19節「私はガブリエル。神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」。ここに「この喜ばしい知らせを伝えるために」と書あるが、直訳すると「これらを福音として知らせるために」となる。つまりガブリエルが伝えたいことは、「洗礼者ヨハネが誕生する」という誕生予告でなく、ヨハネの誕生自体の「福音性」にある。「キリスト誕生前に先立って歩む者、つまりキリストの準備をなす者」、これこそが我々に与えられる救いである」と言うのだ。これあザカリア一家に訪れた幸せにとどまらず、世に対する福音であると聖書は示す。 つまり、天使の言葉を信じなかったための「口閉じ」という単純なものではなく、「信じていない者の口から語られる福音は、語る事を許されない」という意味なのだ。神は信じる者の口から福音を伝えさせようとしている。もし信じないのなら、黙っていた方が良い。本当に福音なのかどうか疑う者は、語る必要はない。語ってはいけない。 天使が目の前に現われるなどという事は、現象的にはそうそう起こることではない。だが我々は「経験的に」起こり得ることを知っている。何も語れなくなるような時があり、熟慮が必要な時があり、「沈黙」が必要な場面がある。ザカリアはその時、沈黙を経て、語る者に変えられたのである。 |
2021.2.21 の週報掲載の説教
| <2019年11月17日の説教から> ペトロの手紙Ⅱ 3章14節~18節 『堅固な足場を失わず』 牧師 三輪地塩 「わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」と言われる。ここにある「忍耐深さ」とは「痛み」や「苦難」と言い換えることも出来る。その苦難こそが我々の救いであるとペトロは言う。キリストの忍耐は「我々への愛」としての忍耐に他ならない。キリストの愛こそ救いの根源であると著者ペトロは述べている。 ここにはペトロの手紙Ⅱのテーマ「偽教師に気を付けろ」が出てくる。使徒パウロが信徒たちに伝えてきたのは、ルターの言葉を使うならば「信仰義認」である。行いによってではなく、信仰によって義とされる。罪深い我々であっても、信仰によって正しい者と見做されるというのがパウロの使信の中心だ。だが「偽教師」と言われている、恐らくユダヤ教的キリスト者と考えられるこの偽教師集団は、信仰義認ではなく「行為義認」によって救われると説いていた。 そこで本書簡の著者(とされる)ペトロは、信仰の先達であり、キリスト教神学の創始者パウロのメッセージを、曲解したり、ねじ曲げたりしてはならないと注意喚起する。聖書の端々から、自分の好きな部分を抜き取り、自分の都合の良いように繋ぎ合わせて、継ぎ接ぎの信仰にしてしまう間違った読み方はいけないと警告する。聖書は「繋ぎ合わせ」ではなく、全体として「正しく読む」ことが必要だ。17節の「堅固な足場」とは、まさに正しく聖書を読むことの大切さを言っている。 聖書全体を理解することについて、注解者パーキンスは次のように言う。「聖書を読む、という行為は、まるで子どもたちが、ごちゃ混ぜになったおもちゃ箱からおもちゃを取り出すようなものである。それはただごちゃ混ぜになっているように見えながら、子どもたちは、その箱のどの部分に何があり、おもちゃ箱全体がどうなっているかを把握しているから、彼らは混乱しない」と。聖書には66書あり、様々なことが書かれているが、その部分だけを取り出して、聖書を勝手に解釈してはならない。聖書から自分に都合の良い部分を取り出し、「これがクリスチャンのあり方だ」とか「こう生きるのが正解だ」などという断定を聖書の一部の箇所から引っ張り出すならば、それは間違いとなる。聖書は「全体」で読み解かねばならない。「堅固な足場」とは、まさに聖書全体のことを言っている。 |
2021.2.1 の週報掲載の説教
| <2019年11月10日の説教から> ペトロの手紙Ⅱ 3章1節~13節 『一日は千年のようで、千年は一日のようです』 牧師 三輪地塩 かけがえのない素晴らしい一日と出会うことがある。その一日は人生を彩る何にも代えがたい思い出と記憶として心に生き続ける。 ペトロの手紙二は、キリストの再臨待望を強く求めていた時代に書かれた書簡だ。キリストは再臨の約束を与えて昇天した。残された者たちは、再臨の到来を待ちわびて何も手に付かなかったようだ。ローマ帝国の支配を受けていた時代であり、それゆえの再臨待望でもあった。 だが、待てど暮らせど一向に再臨はやって来ない。苛立ちを感じ始めたキリスト者たちは9節にあるように、「なぜ遅れているのか」を問うのだった。これに対してペトロは、遅れている意味を彼らに与える。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(3章9節) 主は、約束されたキリストの再臨について「遅らせているのではなく、我々人間の側の準備不足である」と語る。 私たちは、再臨を待つ行為が「人間の忍耐」として考えがちである。再臨が遅れているのであれば神の側に問題があると人間本位に考えてしまう。だが待っているのは我々ではなく神の側だ、とペトロは視点の転換を迫ってくる。忍耐しているのは私たちではない、神なのだ、と。 我々は感謝が足りない。「当たり前」を享受しすぎなのだ。「当たり前」が先立つとき、不平や不満が先立ってしまう。だがそうではない。我々の「生」は、「生かす神」によって、生かされる環境、生きる目的、生きがいさえも神に与えられた賜物である。我々は、一日が与えられている。だからこそ、与えられた一日という限りある時間を、大切に用いる必要がある。そのためには、日々希望と共に歩むのだ。素晴らしい未来を見据え、日々喜びを見出し、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝する。その時こそ、「一日が千年のよう」な価値を持つものとなる。 |
2021.1.31 の週報掲載の説教
<2019年11月3日の説教から>
Ⅱペトロ2章1節~22節
『義の道を知っている者』
牧師 三輪地塩
著者が異端者に対する憤慨をあらわにしている。この異端者たちは「グノーシス主義者」という思想運動の者たちであり、「観察、経験によって知ること」を意味する単語「ギノースコー」に由来する。この思想の特徴は、「物質」と「霊」、「肉体」と「精神」など、二元論的な思想を持つ。キリスト教では、人は死んだら骨になり、肉体を地上に置きっぱなしにして魂だけがあの世に行くなどとは考えない。霊肉共に、肉体性も伴って天国に行く。と考える。ゆえに、キリスト教信仰では、遺体に対してそれほど執着していないのだ。ここで問題なのは、肉体は「善か悪か」の問いである。物質が悪ならば「肉体」も悪となる。そこから肉体を離れた「精神こそが尊い」という考えが生まれ、「禁欲主義」が現われる。
しかし肉体を「善」と捉えるならば、禁欲主義とは正反対の、放縦な生活、やりたい放題、欲のままに活動する生活を善とする倫理観をもってしまう。つまり快楽主義である。
この聖書箇所には、「みだらな楽しみ」「欲が深く」「享楽にふけ」などと書かれているのは「快楽主義的なグノーシス」のことを言っている。ここで警鐘を鳴らすのは、快楽主義者たちが「グノーシス的キリスト教」というキリスト教の一派(異端)であったことだ。これは実に厄介だった。他宗教であれば多少寛容に扱うこともできだろうが、この箇所で問題なのは、「キリスト教の変質化」が起こっていることにある。著者はここに憤慨しており、攻撃している。特に、「近親憎悪」に近い感覚を持っているのであろう。手厳しく非難するのである。
そもそも、我々は、まったく異なる考えや、まったく、自分たちの「枠外」に生きている人たちに対しては関心を持たず、ゆえに違いがあっても怒らない。だがその関係が近しいと、人はその違いに怒りを発する。兄弟喧嘩、身内のイザコザも、親族間の遺産相続の争いも同じである。だが我々は、裁かれるのは神である、ことに立ち帰らねばならない。マタイ福音書7章1節以下で、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と述べており、裁きは人間の行為ではないことが指摘される。我々は、自分たちの正統性を主張したがるが、信仰も、生き方も、人生も、それを裁くのは神である。このことを心に留めて、日々正しく歩みたい。
Ⅱペトロ2章1節~22節
『義の道を知っている者』
牧師 三輪地塩
著者が異端者に対する憤慨をあらわにしている。この異端者たちは「グノーシス主義者」という思想運動の者たちであり、「観察、経験によって知ること」を意味する単語「ギノースコー」に由来する。この思想の特徴は、「物質」と「霊」、「肉体」と「精神」など、二元論的な思想を持つ。キリスト教では、人は死んだら骨になり、肉体を地上に置きっぱなしにして魂だけがあの世に行くなどとは考えない。霊肉共に、肉体性も伴って天国に行く。と考える。ゆえに、キリスト教信仰では、遺体に対してそれほど執着していないのだ。ここで問題なのは、肉体は「善か悪か」の問いである。物質が悪ならば「肉体」も悪となる。そこから肉体を離れた「精神こそが尊い」という考えが生まれ、「禁欲主義」が現われる。
しかし肉体を「善」と捉えるならば、禁欲主義とは正反対の、放縦な生活、やりたい放題、欲のままに活動する生活を善とする倫理観をもってしまう。つまり快楽主義である。
この聖書箇所には、「みだらな楽しみ」「欲が深く」「享楽にふけ」などと書かれているのは「快楽主義的なグノーシス」のことを言っている。ここで警鐘を鳴らすのは、快楽主義者たちが「グノーシス的キリスト教」というキリスト教の一派(異端)であったことだ。これは実に厄介だった。他宗教であれば多少寛容に扱うこともできだろうが、この箇所で問題なのは、「キリスト教の変質化」が起こっていることにある。著者はここに憤慨しており、攻撃している。特に、「近親憎悪」に近い感覚を持っているのであろう。手厳しく非難するのである。
そもそも、我々は、まったく異なる考えや、まったく、自分たちの「枠外」に生きている人たちに対しては関心を持たず、ゆえに違いがあっても怒らない。だがその関係が近しいと、人はその違いに怒りを発する。兄弟喧嘩、身内のイザコザも、親族間の遺産相続の争いも同じである。だが我々は、裁かれるのは神である、ことに立ち帰らねばならない。マタイ福音書7章1節以下で、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と述べており、裁きは人間の行為ではないことが指摘される。我々は、自分たちの正統性を主張したがるが、信仰も、生き方も、人生も、それを裁くのは神である。このことを心に留めて、日々正しく歩みたい。
