<2019年8月4日の説教から>
『キリストの受けた傷によって』
ペトロの手紙一2章18節~25節
牧師 三輪地塩
「キリストの十字架は、我々を生かすための犠牲であった」。
このことに異論の余地はない。だがここで「犠牲」について考えたい。例えば、ある信仰深い人がブラック企業に勤めていたとして、無慈悲な上司の言いなりになり、身体を壊すまで我慢を続けたとしよう。このようなに健康を害して「企業」を生かすことは、「キリスト教的な十字架的行為」であるはずがない。あるいは、ある高校球児が、全ての試合を一人で投げ抜き、甲子園優勝をもぎ取ったとしよう。その一人の犠牲によってチームは成功を手に入れたかもしれないが、決して「美しい犠牲」などではない。「犠牲」には「いけにえ」と、「目的のために大切なものを捨てる」という二つの意味がある。前者は「痛み・苦しみ」の意味、後者は感動的要素が含まれるかもしれない。
「キリストの十字架」には、「目的のために大切なものを捨てる」という後者の要素(聖書的には「燔祭」)に、プラスして「刑罰的要素」が含まれる。つまり「美しい死」ではないことは明らかだ。我々は、人類の罪の犠牲になったイエス・キリストの十字架を、美しく死んでいった「感動物語」にしてはならない。言い換えるならば、キリストの十字架は、感動でも、美しさでも無く、まして、クリエイティブで発展的行為なわけでもない。キリストの死は「悲惨」である。
「犠牲者」とは「悲惨」と「痛々しさ」と「苦しみ」の中に置かれる者のことをいう。「犠牲」になった企業戦士も、肩を壊してプロに行けなくなった高校球児も、我々の感動や喜びを満足させる「美しい犠牲者」であってはならないのだ。
このことを、キリストの十字架の内に見なければならない。十字架は「悲惨」である。第一ペトロ2章22~24節は、初期キリスト教会の「キリスト賛歌」として読まれ、唄われていた箇所である。フィリピ書2章と異なるのは、ここに「高挙のキリスト」が書かれていないことにある。高く挙げられた、復活と昇天のキリストの「栄光」と「犠牲」とが繋がっていない。
我々は、キリストの犠牲を理想化してはならない。十字架とは、我々が、苦しむ人をみて痛々しく思い、また自らが痛むあの「苦しみ」である。はらわた掻き毟られるような悲惨さと挫折に目を向け、それゆえに救われている我々の命を感謝して歩みたい。
<2019年7月21日の説教から>
『権力への服従か?自由な生活か?』
ペトロの手紙一2章11節~17節
牧師 三輪地塩
「異教徒の間で立派に生活しなさい」と著者は言う。彼らは異邦人の中に住む少数のキリスト者であり、彼らがどのように行動するかによって、キリスト教の評価や見方が好意的にも否定的にもなる。日本人があまり行くことのない海外に旅行などをする際、自分がその旅先の人々にとっての「初めて会う日本人」ということがある。ちょうどそれと似ているかもしれない。あなた方はキリスト者の代表として「立派に生活しなさい」と。
特に著者は、「肉の欲」に注意せよと11節で言う。「肉の欲」は、食欲や睡眠欲のような生理現象を指しているのではない。イエス・キリストが、40日間荒れ野の誘惑に晒された時(つまり、自らを神の子であるという自己認識を持った時)自分には何でもできる力と可能性を自覚するのであった。そこに悪魔的誘惑、或いは誘惑に導く内的囁きの声を聞くのであった。その誘惑は、全能性、権力欲、人心掌握などなど、自己を輝かせようとする「欲」であった。しかしイエスの答えは、「人はパンのみによって生きるにあらず」であった。
イエスが、欲に従って歩まなかったように、自らの利益・徳、自らへの自己愛の具現化を求めて歩むのではなく、神に示された隣人愛と赦しによる歩みである。異邦人の中に生きる時、たとえそこに迫害の嵐が吹き荒れていようとも、その場所で立派に生きることこそ、キリスト者としての歩みなのだ、と著者は語る。我々は「地上を旅する神の民」(カール・バルト)である。天に国籍を持つ寄留者、であり「仮住まいの身」(11節)であるのだから、自らの生活がキリストを現していくものでありたい。
12節「そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、おとずれの日に神をあがめるようになります」とある通り、我々の行いは、キリストを示すことができる。使徒言行録2章43節以下には共同生活をしていた初代教会の信徒たちが、物を共有し合い、共にある交わりを大切にし、「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」とある。宣教とは「私」というエゴのなす業ではなく、キリストの香りを漂わせる営みにほかならない。
<2019年7月14日の説教から>
『混じりけのない霊の乳を』ペトロの手紙一2章1節~10節
牧師 三輪地塩
ヨハンナ・シュピリの『アルプスの少女ハイジ』という作品は実に福音的なストーリーである。叔母に連れられてアルプスのアルムに連れられて来たハイジは、山奥で暮らすおじいさんの元に預けられる。ハイジの利発で明るい性格は、自然の中でさらに育まれてく。だが、読み書きなどの教育が行き届かないことを憂慮した叔母は、ハイジを大都市フランクフルトに引っ越しそこの学校に入学させた。読み書き、計算、躾け、マナーをならい、山の暮らしと異なる厳しい生活を送るも、ハイジは馴染めず精神を患って「夢遊病」になる。精神科医の診断は「山の生活に戻ること」であった。
とは言え、大都会の暮らしは、必ずしも悪いことだけではなく、クララという親友とそのおばあさんと出会い、彼女の熱心なキリスト教信仰に出会うという宝を得るのだった。ハイジは聖書の話しを聞き、神の存在と祈る素晴らしさを「大都会で」学ぶのだった。そこでハイジはおばあさんから、パウル・ゲルハルトの讃美歌「朝の恵み」という以下の詩を教えられた。
「黄金の太陽は、喜びと歓喜に満ち、私たちの世界にその輝きと一緒に、心を爽やかにする光を届けてくれます。打ちひしがれていた 私の頭と手足は、再び起こされ、私は元気に明るく、空に顔を向けます」。 パウル・ゲルハルトは、讃美歌107番の作詞家として有名なルター派の牧師である。この詩で重要なのは「打ちひしがれていた 私の頭と手足は、再び起こされ、私は元気に明るく、空に顔を向けます」という、「復活」「回復」が語られていることにある。この『アルプスの少女ハイジ』という物語は、読者に「自然vs都会」という二元論的価値観を強要せず、どちらにも良い部分があることを伝える。自然の良さ、都会での出会い、この両面がハイジの霊的な成長を支えたのだった。自然を通して神を知り、聖書を通して神を知る。豊かさを通して神を知り、苦しみを通して神を知る。この『ハイジ』の物語は、人間の全ての出来事が神の深い思慮の中にあることが示される。当該の聖書箇所、2章4節。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。この言葉には、ハイジが苦しみを経て神の救いに出会ったような、深い神の思慮、すなわち「十字架の救い」に我々の目を向けさせる。
<2019年7月7日の説教から>
『変わることのない生きた言葉』
ペトロの手紙一1章22節~25節
牧師 三輪地塩
先週の箇所では、終末論が語られていた。その流れを受けて、ペトロは言う。「真理を受け入れて、魂を清めて、偽りの無い兄弟愛を頂くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。ここで言われる「真理」とは、「神」と置き換えて良い。
この手紙の背景には「迫害」がある。この手紙の読者教会の信徒たちは、周囲・近所の人たちから、キリスト者という理由だけで迫害を受けていた。重苦しい状況ではあるが、注意深く読むと、この箇所には希望が見えてくる。「真理を受け入れて、魂を清めて、偽りの無い兄弟愛を頂くようになったのですから」とあるように、あなた方は既にそうなってる、と断定形で語っている。既にこれらの小アジアの教会では、教会員同士、力を合わせて、「兄弟愛を既に抱いている」状況であった。兄弟愛。つまり「共同体内における愛」が、既に「ある」と言っている。
この兄弟愛がどこに由来するのか、が22節以下のテーマである。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わる事のない、生きた言葉によって新たに生まれたのです」(23節)。つまり我々の愛は、神から出ていると述べる。最も重要なことは、この神の言葉が、「朽ちない種である」ということにある。ペトロはイザヤ書40章を引用し、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」と語っている。ここには、人間のものは朽ちる、ということと、神から出るものは朽ちない、という二つのことが同時に語られる。神から出るもの、つまり共同体の中に既にあるもの、「兄弟愛」「神の愛」は朽ちるものではない。第一コリント13章13節で、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と言われている通りである。
つまりこの著者は、キリストの愛が本物の愛だったように、あなた方の愛もそれに倣いなさい、と言っている。その愛が全ての人間関係を作る。教会コミュニティも同様に、全ては「愛」が作り出すのだと著者は語る。
<2019年6月23日の説教から>
『地上に仮住まいする身として』
ペトロの手紙一1章13節~21節
牧師 三輪地塩
宗教改革者マルティン・ルターは「人の死は終末ではない。人の死は「人生の完成である」」と語る。我々が、教会に来て、本当の意味で終末について考えることがあるとするならば、「我々の人生の完成とは何か」についてである。信仰者は終末に向かって歩む民であるが、死んだ後、実際にどうなるのかは分からない。ただ一つだけ、キリスト者として言えるのは、「人の死は絶望ではなく、希望である」ということ。死んだ後も生き続けることを我々キリスト者は信じている。
そのためにどうすればよいのかについてペトロは、「神を畏れて生活すべきである」(17節)と述べる。神を畏れて、神を覚えて生きよ、と聖書は我々に言う。「この地上に仮住まいする間」(17節)、つまり、我々が生きている今は「仮のとき」であり、本当の国籍が天にあるように、本当の「時」は天にある。神のもとにいる時こそが「本当の時」となる。
天に属し、神に属する我々は、どう生活すれば良いのか。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(15節)とある。
「聖なる者となる」という言葉には戸惑うかもしれないが、「聖なる」は、「道徳的な立派さ」を意味しない。「道徳的」と「天国」はイコールで結ばれない。イエスが「病人に医者はいらない」と言うように、我々の罪には救いが必要だ。「聖なる」は、我々が罪を持っていることを隠さずに告白し、自らそれを認め、その罪の歩みが正されて生きていくことにある。神によって修正・修復・回復されて生きることである。頑張ったから救われるのではなく、自らの罪を知りつつも、その罪と向き合い、神と共に歩み、赦され、修復される歩みを行なうことが大切だ。
人間的に優れた人は、世の中にたくさんいる。だが、人は、自分の思う正しさを、人に押しつけてしまいがちでもある。その反作用として、自分と考えの違う人を糾弾しようともする。人間の正しさがあるとき、そこには、「人間中心の「聖なる」」(と思われる)生活しか存在しなくなる。だから聖書は、神における「聖なる」を求める。つまり神を思い、神と共に歩む歩みを行なう続けることこそ重要であると。
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<2019年6月23日説教から>
『試練によって本物と証明される』
ペトロの手紙一1章1節~12節
牧師 三輪地塩
「ポントス、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と書かれている。著者は小アジアに住むことを「仮住まい」と語る。口語訳聖書では「寄留する人たち」と訳されているのこの言葉は、キリスト教信仰の一面を表している。我々はこの世の寄留者、つまり「国籍は天にある」者たちなのだ、と。外国に住むのは非常に不便が多いものである。文化の違い、ものの考え方、生活習慣に至るまで、多くの違いが生じるため戸惑うことが多い。この手紙の読者たちは、異教の地で寄留生活をし「孤立」「孤独」を味わっていたのだろう。ペトロと呼ばれる著者、手紙の送り人は、彼らを励ますためにこの手紙を書いた。
寄留しているからといって適当に生活してみたり、雑に生きたりして良いはずがない。むしろ「本国」「故郷」の名に恥じぬよう、堂々とした寄留者であるべきであろう。すなわち、この世の寄留者であるキリスト者こそ、天の名に恥じぬよう、神の国の証言者として責任を持ってこの世を生きる必要がある。
6節には「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間は、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが~~」とある。小アジアという地方にとって「キリスト教徒」は、異教徒であり蔑まれる立場にあった。彼らは寄留者ゆえに蔑まれ、苦しんでいたのだ。だが著者は、「あなたがたは心から喜んでいる」と強調する。何故、悩まねばならないことがあるのに、「喜んでいる」と言うのか?しかも命令形ではなく断定形が使われるのは興味深い。それは、彼らが命令されたから喜びましょうという消極的な喜びではなく、彼らにとって「喜び」は既に与えられた「事実」「状態」であるという積極的なものだからだ。彼らにとっての苦しみ、迫害は、「今しばらくの間」と限定されている。苦しみの中にあっても、神の御手の内側にいることを信じなさいと奨められている。
『西遊記』のラストは面白い。「困難を極めた大旅行の末に、孫悟空・三蔵法師一行が気づいたのは、これまでの道のりが全てお釈迦様の手のひらの上であった」というオチがつく。第一ペトロの著者も言う。苦しみの中にある小アジアのキリスト者たちは、キリストの愛から疎外されているのではない。キリストの愛の内側で苦しんでいるのである、と。