2020.09.27の週報掲載の説教

<2019年6月23日の説教から>
地上に仮住まいする身として
      ペトロの手紙一113節~21
              牧師 三輪地塩

宗教改革者マルティン・ルターは「人の死は終末ではない。人の死は「人生の完成である」」と語る。我々が、教会に来て、本当の意味で終末について考えることがあるとするならば、「我々の人生の完成とは何か」についてである。信仰者は終末に向かって歩む民であるが、死んだ後、実際にどうなるのかは分からない。ただ一つだけ、キリスト者として言えるのは、「人の死は絶望ではなく、希望である」ということ。死んだ後も生き続けることを我々キリスト者は信じている。

そのためにどうすればよいのかについてペトロは、「神を畏れて生活すべきである」(17節)と述べる。神を畏れて、神を覚えて生きよ、と聖書は我々に言う。「この地上に仮住まいする間」(17節)、つまり、我々が生きている今は「仮のとき」であり、本当の国籍が天にあるように、本当の「時」は天にある。神のもとにいる時こそが「本当の時」となる。

天に属し、神に属する我々は、どう生活すれば良いのか。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(15節)とある。

「聖なる者となる」という言葉には戸惑うかもしれないが、「聖なる」は、「道徳的な立派さ」を意味しない。「道徳的」と「天国」はイコールで結ばれない。イエスが「病人に医者はいらない」と言うように、我々の罪には救いが必要だ。「聖なる」は、我々が罪を持っていることを隠さずに告白し、自らそれを認め、その罪の歩みが正されて生きていくことにある。神によって修正・修復・回復されて生きることである。頑張ったから救われるのではなく、自らの罪を知りつつも、その罪と向き合い、神と共に歩み、赦され、修復される歩みを行なうことが大切だ。

人間的に優れた人は、世の中にたくさんいる。だが、人は、自分の思う正しさを、人に押しつけてしまいがちでもある。その反作用として、自分と考えの違う人を糾弾しようともする。人間の正しさがあるとき、そこには、「人間中心の「聖なる」」(と思われる)生活しか存在しなくなる。だから聖書は、神における「聖なる」を求める。つまり神を思い、神と共に歩む歩みを行なう続けることこそ重要であると。