2024.10.20 の週報掲載の説教

2024.10.20 の週報掲載の説教

<2024年9月1日説教から>

『欠けた部分を、神の恵みが覆ってくださる』

ヨハネによる福音書6章1節~15節

牧師 鈴木美津子

 
主イエスが、五つのパンと二匹の魚を祝福して五千人以上の人々に配られると、そこにいた全ての人々が満腹した。またパンくずが「十二のかごに一杯になった」とヨハネは記す。この奇跡の出来事の中心は「信仰」である。少年は弟子たちが困っているのを見て、自分の手元にある大麦のパン五つと魚二匹を差し出した。差し出してどうなるという当てはなかったけれども、自分が食べるのをあきらめて差し出したのである。弟子たちは目の前の五千人以上の人々を見て、また手元に五つのパンと二匹の魚しかないのを見て、「これではとても役に立たない」とあきらめる。フィリポはこれだけの人数にパンを与えるのは無理だといい、アンデレは五つのパンと二匹の魚では何の役にも立たないとため息をついた。彼らには「神が働いて下さる」という信仰がなかったのだ。

しかし、主イエスはわずかな物を差し出した少年のうちに信仰を見られた。「その信仰さえあれば神は応えて下さる」と主イエスは天を仰いで感謝された。

私たちの手の中にあるもの、それがどんなに小さく僅かであっても、主イエスの前にそれを差し出し、主イエスに祝福され、主イエスの御用のために用いられる時、10倍にも100倍にも増やされていく。もし私たちが生活の中で、「あれもない」、「これもない」と不足や不満を言っている時、それは私たちがフィリポやアンデレの陥った過ちに陥っているのだ。「必要なものは神が与えて下さる」ことを忘れているからのである。

この奇跡の出来事では、少年が自分の持っているものを差し出した時、弟子たちは「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。(9)」と、そのわずかなものが何の意味を持つのかと疑った。しかし、少年が自分の持っていた「五つのパンと二匹の魚」を主イエスの前に差し出すことがなければ、この奇跡は起こらなかった。

たとえ、人の目には小さなもの、僅かなもの、それが何の役に立つだろうと思ったとしても、自分に与えられているものを主イエスのものと差し出すとき、主イエスはそれを何倍、何十倍、何百倍にも増して用いてくださるのである。それがこの奇跡の出来事が教えていることである。

2024.10.13 の週報掲載の説教

2024.10.13 の週報掲載の説教

<2024年8月25日説教から>

『誰からの誉れを求めるのですか』
       ヨハネによる福音書541節〜47
牧師 鈴木美津子

 
主イエスは、ユダヤ人たちが父なる神の証しを受け入れない理由を3つ挙げられた。1つ目は、ユダヤ人たちの内に神への愛がないということ。2つ目は、ユダヤ人たちが唯一の神からの誉れを求めようとしないということ。3つ目は、ユダヤ人たちがモーセの書き記したこと、つまり旧約聖書を信じていないということである。この3つは、今の時代の多くの人々が、父なる神の証しを受け入れず、主イエスを信じようとしない理由とも重なる。

そもそも、ヨハネ福音書における「ユダヤ人たち」とは、主イエスを受け入れない世を代表する者たちのことであって、民族としてのユダヤ人を指し示しているのではない。主イエスを信じない世の代表がユダヤ人たちのことである。なぜ、多くの人々が、(今もなお)父なる神の証しを受け入れず、永遠の命を得るために主イエスのもとへと来ないのか。それは彼らの内に神への愛がなく、彼らが唯一の神からの誉れを求めず、聖書を信じていないからである。

ところで、主イエスは、ユダヤ人たちに、「あなたたちは、神への愛がない、あなたたちは唯一の神の誉れを求めようとしない、あなたたちは聖書を信じていない」と言って、彼らの不信仰を断罪されたのではない。そう、断罪されたのではないのだ。それどころか、「わたしはあなたたちを父に訴えない」とまで言われるのだ。ここに、この主イエスの言葉に「命を得るためにわたしのところへ来なさい」という主イエスの熱心な招きがあるのだ。そして、主イエスは、御自分のもとへ来る者たちに、神への愛を与え、唯一の神からの誉れを求める者とし、聖書を信じる者としてくださるのだ。

主イエスは、主の日の礼拝ごとに、私たちを御もとへと招いてくださる。復活された主イエスは、主の日の礼拝を通して、神を愛し、唯一の神からの誉れを求め、聖書を信じて生きよと、私たち一人一人の生活を整え、導いてくださる。

礼拝こそが、神への愛の最高の表現であり、礼拝においてこそ、人は神からの誉れに与ることができる。私たちは、主イエスにおいて、神の子とされて、神を誉めたたえる者そして神からの誉れに与る者とされている。私たちは、これにまさる誉れ、栄光は、この地上にないということを、主日の礼拝毎にはっきりと胸に刻むのである。

NEW! 2024.10.6 の週報掲載の説教

2024.10.6 の週報掲載の説教

<2024年8月18日説教から>

『聖書は主イエスを証しするものです』
       ヨハネによる福音書531節〜40
牧師 鈴木美津子

 
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(39)」
ユダヤ人たちは、聖書そのものの中に永遠の命があると考えて、聖書の一言一句を研究していた。聖書そのものの中に永遠の命があるのだから、聖書を研究し、それを現在に当てはめて、そこに従って生きるとき、永遠の命に生きることができると彼らは考えていたのだ。そうであれば、聖書を研究しているユダヤ人たちが、誰よりも先に、聖書が証しする主イエスを信じてもよさそうであるが、現実はそうはならなかった。ユダヤ人たちは命を得るために主イエスのところへ来ようとしないからである。なぜか。それは、聖書に取り組む姿勢そのものが間違っていたからだ。「聖書の中に永遠の命があるのではない。聖書が証しするお方である主イエス・キリストの内に永遠の命がある。」からだ。聖書を主イエスを証しする書物として読むこと。これこそが主イエスが教えてくださった正しい聖書の読み方である。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、どれも旧約聖書を経典の一つに持っている。けれども、その読み方はまったく異なる。キリストの教会は、旧約聖書をイエス・キリストを証しする書物として、読む。それが正しい旧約聖書の読み方だからである。なぜ、そのように言えるか。それは主イエス・キリストが十字架の死から三日目に栄光の体へと復活されたお方であるからだ。主イエスが、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われるとき、それは何より主イエス御自身が、旧約聖書をそのように読まれたことを教えている。主イエス御自身が、旧約聖書を御自分について証しする書物として読み、苦難を通して栄光へと入るメシアとして歩まれた。そして、神が主イエス・キリストを三日目に復活させられたことは、主イエスの読み方が正しいものであったことを証ししている。さらに言えば、主イエスが正しく聖書を読み解くことができたことは、主イエスが聖書の究極的な著者である神、その方であることを証ししているである。

私たちは「イエス・キリストは主である」と告白し、神を「アッバ、父よ」と叫び祈ることのできる「神の子」とされ、聖霊の導きのもとに、聖書を、イエス・キリストを証しする書物として、さらにはイエス・キリストの御言葉として読むことができる。

2024.9.29 の週報掲載の説教

2024.9.29 の週報掲載の説教

<2024年8月4日説教から>

『御子を信じる者は永遠の命を得る』
       ヨハネによる福音書51930
 
牧師 鈴木美津子

 
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(24)

 
主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を授けられてから、いよいよご自身の救い主の使命をはっきりと自覚なさり、ご自分の弟子を集め、神の国について、また新しい命について教え始められた。そして、ガリラヤのカナでなされた水をぶどう酒に変えてしまう奇蹟から始まって、病の癒しや死にそうな人に命を与えると言ったさまざまな奇蹟を行ってこられた。さらには、エルサレム神殿の境内で商売している人を追い出したり、神殿を破壊せよと命じたりもした。また当時のユダヤ教の安息日の教えに挑戦して、人の子は、つまり主イエスご自身こそが、安息日の主であることを宣言された。

エルサレムにいるユダヤ教の指導者たちは、この主イエスに注目しはじめ、ついには主イエスは危険分子だ、主イエスを捉えなければならない、主イエスを殺さなければならぬとの結論に至った。

そのような中で、今日私たちに与えられた御言葉が主イエスご自身によって語られたのである。主イエスの語られた言葉は、ユダヤ人たちの非難や攻撃を和らげるようなものではなく、あるいは、彼らの思っていることは誤解だと言って弁明するようなものでもなかった。そうではなく、むしろ、自分はあなたがたユダヤ人たちのいう通りのものであると証しされたのだ。自分は父なる神と一体である、一つであると断言されたのである。「はっきり言っておく」、「アーメンアーメン、あなたがたに告げます」といって、神の子の宣言を高らかになさったのだ。

キリストの教会は「主イエスにおいて」神を礼拝し、「主イエスにおいて」神を崇めるところである。これこそが、同じように旧約聖書をもっているユダヤ教とも、イスラム教とも違う、キリストの教会の根本なのである。なぜなら、子なる神と父なる神は完全に一体であり、一つだからである。

私たちは、主イエスを通してだけ、父なる神と出会うことができ、主イエスを通してだけ、死から命へと今移ることができるのである。

2024.9.15 の週報掲載の説教

2024.9.15 の週報掲載の説教

<2024年7月28日の説教から>

    『今もなお働かれる神、今もなお働かれる主イエス』

ヨハネによる福音書5章10節~18節

牧師 鈴木 美津子

病気のために、38 年もの間ベトザタの池のほとりで横たわってきた人がいた。主イエスは、その人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。(8)」と癒された。この癒しの出来事はユダヤ人たちにとって大問題であった。というのも、主イエスがその人を癒されたのが「安息日」だったからである。安息日は律法で「安息日を聖なるものとし、一切の仕事をしてはならない」と命じられていたからである。この戒めを大切にするユダヤの律法学者たちは「十戒で禁じられている仕事」を39の行為にまとめていた。たとえば「種を蒔く、刈り入れをする、脱穀をする、粉にする、パンを焼く、火をつける」などの行為は仕事にあたるので安息日にしてはならない。「歩く」ことは礼拝に行くためなら良いが、それ以外の目的は一日約100メートルまで、緊急に命を救う医療行為は良いが、それ以外はしてはならない、などと「安息日厳守」は、現代の私たちが想像する以上に徹底していたのである。

律法学者たちは、「いかなる仕事もしてはならない」という禁止条項にのみ心を向けて、次々に「禁止の解釈」を事細かく決めていた。それに対して主イエスは、「安息日」を神の養いの恵みに感謝し、神の救いに信頼して賛美をささげる日であるとして、神が定めた安息日本来の姿を大切にされていたのである。

主イエスは「わたしの父は今なお働いている。だから、わたしも働くのだ」と言われる。神は創造の御業においては休まれたと言うことができる。けれども、それを保ち、回復する御業においては、休みなく働き続けておられる。それゆえ、「わたしも働くのだ」と主イエスは言われるのである。それゆえ、主イエスは安息日に38年の間病に苦しんだ人を癒したのだ。罪と死が力を振るうこの世界にあって、主イエスは父なる神と共に、今もなお御言葉と聖霊において働き続けておられる。主の日の礼拝において、私たちを罪から解き放ち、御言葉の糧をもって養い続けてくださる。私たちに真の安息、永遠の安息を与えようと、今もなお、日々休むことなく、父なる神と共に主イエスは働いておられるのである。

2024.9.8 の週報掲載の説教

2024.9.8 の週報掲載の説教

<2024年7月21日の説教から>

      『起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい』
ヨハネによる福音書5章1節~9節

牧師 鈴木 美津子

主イエスは、ユダヤの祭りの日に、エルサレムに再び上られ、ベトザタという名前の池に行かれた。この池には、38年間病気で苦しんでいる人が横たわっていた。主イエスは、その人の今までの苦しみや悲しみややるせなさ、長い長い苦しみの歴史の全部を知り、理解して下さり、その人に「良くなりたいか」と言われた。

主イエスは、人々から見捨てられてしまったと思えるようなこの人に、目を注いで下さった。そして、この人の苦しみの歴史の全部を知って下さった。その上で主イエスは、本当に驚くべき仕方で癒しの御業をなさった。願うことが出来ない人、希望がもてない人、信仰があるとは到底言えないようなこの人に向かって主イエスは、「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい!」とお命じになったのである。こうして主イエスは、自分が救われることなど考えてもみなかったこの人に向かって、突然、救いを差し出して下さった。この人は、ほんの少し、「起きあがろう!」と思うだけでよかったのだ。それだけで彼は良くなり、床を担いで歩きだした。

私たちは、主イエスの救いの恵みの中に、このような側面があることをよく知っているのではないか。主イエスの十字架のことである。私たちが罪の赦しを願い、信じたので、主イエスが十字架について下さったわけではない。私たちが全く願わなかった時に、即ち自分の罪が赦されるという可能性さえ知らなかった時に、あるいは自分に永遠の命が与えられることすら知らなかった時に、既に主イエスは十字架について下さったのだ。そして、この救いを全てご自分で備えてくださった上で、突然、「起きあがりなさい!新しく生きるように!」と私たちに差し出して下さった。ただ私たちは、ほんの少し足に力を入れるだけで良いのだ。救われたいと願い、信じるだけで良いのである。ただ、それだけで私たちは、主イエスが準備して下さったこの救いの全てにあずかることが出来る。深い深い神の愛の中、自分の罪が全て赦されている平安を味わいながら、永遠の命に生きる希望を携えて、約束の地へと歩むことが出来るのである。