2025.1.19 週報掲載の説教

2025.1.19 週報掲載の説教

<2024年12月8日説教から>

『人の子が大いなる力と栄光を帯びて来られる』

ルカによる福音書21章25節~33節

 
牧師 鈴木美津子

 
それから、太陽と月と星に徴が現れる(25a)」。起こるべき異変は天体でのことばかりではない。事実、私たちの世界は想像もしない変化や、不条理なこと、突然の自然災害が起こっている。人間関係はなおさらである。確かなものはこの世界にどんどん少なくなっている。

主イエスは、そのような不確かな状況の中で、恐れや不安の中で慌て、脅え、惑わされそうな私たちに、本当に見つめるべきものは何かを示される。主イエスの再臨である。「人の子が大いなる力を帯びて、雲に乗って来るのを人々は見る」、と主イエスは言われる。「大いなる力」とは、神としての力、神としてこの世界の全体を支配し、そして全ての人々を審く力である。そんなことは誰が信じることができるか、と思うかもしれない。しかし、確かにこの世界は主イエス・キリストの支配の完成をもって終わる。つまり最終的に支配し、力を振るうのは、主イエス・キリストなのである。

「このようなことが起り始めたら、身を起こして頭を上げなさい。(28a)」と、主イエスは言われる。「このようなこと」とは、世の終わりに向けて起こる様々な苦しみ、戦争や暴動や地震や飢饉や疫病、天体に徴が現れ、海がどよめき荒れ狂う、ということである。世の終わりとその時に起こるイエス・キリストの再臨。しかし、実際にこの世が消滅してしまうのではなく「万物が新しくなる時」である。またキリスト者にとっては試練や迫害から「解放される、贖われる」時でもある。だからこそ、私たちを不安に陥れ、脅え慌てさせ、絶望させるこれらのことの中で、主イエスの再臨を信じ、主イエスによる救いが世の終わりに完成することを待ち望みつつ生きる者は、身を起こして頭を上げることができるのである。

これらのことをアドベントの時に心に留め置き、身を起こして頭を上げて、歩みたいと思う。

HappyNEWyear! 2025.1.5 週報掲載の説教

2025.1.5 週報掲載の説教

<2024年12月1日説教から>

『夜は更け、救いの日は近づいた』

ローマの信徒への手紙13章8節〜14節

牧師 鈴木美津子

 
本日はアドベント第一主日、クリスマスを待ち望む時であるが、私たちには、もう一つの大切な待ち望む時がある。主イエスが再び私たちのところに来て下さる「再臨」の時である。

「更に、あなたがたは今がどのようなであるか知っています。(5a)」。この「時」と言う言葉には「カイロス」という、特定の定まった時を表す大切な意味がある。一度捕らえ損なうと、後から追いかけてももう決して捕まえることはできない、一度限りの、特別に定められた時間,言わば出会いの瞬間としての時間と言うことができる。クリスマスの時といえば、主イエスが誕生された時、この時は「初臨」とも言う。パウロがここで言っている「時」は「再臨」の時のことである。かつて主イエスは弟子たちが見ている前で天に昇って行かれた。そして再び来ると約束された。キリスト者の希望は、主イエスが再び来て下さる、ここに望みがある。

今は闇の時代で、先が全く見えない、希望も持てない。ウクライナで長く戦争が続き、パレスティナでも戦争状態にある。いつの時代もこの世には完全な平和はない。また気候変動も年々激しくなり、まさに困難な時代の中に今、私たちは生きている。
しかしそのような闇の時代であっても、神は私たちに生きる希望を与えられる。主イエスが再びこの地に来てくださる。私たちを天の御国に迎え入れて下さる。神は私たちに復活のいのち永遠のいのちを与え、心に生きる希望を与えて下さる。闇のような暗い心でなく、愛と希望に満ちた明るい心を私たちに与えて下さる。

そのためにパウロはローマのキリスト者に命じる。「主イエスを着なさい。」それは主イエスの性質を自分の身に付けることである。そのために、私たちは罪と汚れに満ちた古い衣を脱ぎ捨てなければならない。主イエスは、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、罪の代価を支払われた。キリスト者が十字架を見ながら罪を犯すことができるだろうか。否、できないであろう。新しい衣を着て、キリストの愛に包まれ、キリストの愛そのものに生きること。パウロはガラテヤ書で「私はキリストとともに十字架に付けられた。もはや自分が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのである。(2:19,20)」と宣言している。
このアドベントの時を過ごすとき、主イエスの御降誕を覚えて祝う備えをし、再び主イエスが来られる日、「再臨」の時を望みを持って目を覚まして待つのである。

2024.12.15 週報掲載の説教

2024.12.15 週報掲載の説教

<2024年11月24日説教から>

『律法の本質−神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する−』
ヨハネによる福音書7章1節~13節

牧師 鈴木美津子

 
仮庵の祭の最中に主イエスの命を狙って、言い掛かりをつけてきたユダヤ人たちの偽善が律法を通して明らかにされる。主イエスは、「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか」、と言われた上で、「十戒」から「あなたは殺してはならない」を引用して、「なぜ、わたしを殺そうとするのか」、とユダヤ人たちに問いかける。「十戒」は、神の民が神と共に生きるために与えられたものあるのにもかかわらず、ユダヤ人たちは、主イエスを殺そうとしているのである。つまり彼らは律法の本質である「生きる」という神の民の祝福を破壊しようとしているのだ。

そもそも律法とは、神の民が神と共に生きるために与えられた神の言葉である。にも関わらず、ユダヤ人たちは、その命の言葉を、彼らの罪によって、自らを死へと定める呪いの言葉へと歪めてしまった。律法の機能が命から死へと逆転してしまっていたのである。

律法の本質は、「命」である。しかし、誰一人律法によっては命を得ることはできない。その現実において、イエス・キリストが、天から降り、その全き罪のない生涯によって律法を実現してくださった。そればかりか、主イエスは十字架で死んで、私たち罪人の律法違反の罪を全て洗い流して下さった。このキリストの許にあって初めて律法はその本来の機能を回復し、命になるのである。

つまり、今や律法の本質はイエス・キリストそのお方そのものであるのだ。主イエスが律法の全ての義務を果たして、律法を完成された。そうであるから、私たちは、悔い改めて、ただこの主イエスを信じる信仰だけが要求されるのである。私たちは、私たちがどう頑張っても、罪人としての実体は変わらない。しかし、その状態であっても、私たちはすでに変えられているのである。私たちは、呪いから祝福へと、束縛から自由へと、死から命へと、変えられているのだ。

そのように私たちの罪人としての実体は変わっていないのにも関わらず、もはや、私たちは罪に定める律法から解放されて、過去、現在、未来の全ての罪が赦され、永遠の命と神の国の世継ぎが約束されているのである。

そうであるからこそ、私たちは「うわべだけで判断するのをやめ、正しい判断を」する、そして「外面で判断しないで、内面を見る」のである。

NEW! 2024.12.8 週報掲載の説教

2024.12.8 週報掲載の説教

<2024年11月17日説教から>

『主イエスの時』
ヨハネによる福音書7章1-1節

牧師 鈴木美津子

そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。』(6a)」

ユダヤには過越祭、五旬祭、仮庵祭という3つの大きな祭りがある。その3つの祭りの中でも仮庵祭はもっとも盛大に祝われたと言われている。主イエスの兄弟たちは、仮庵祭こそ、主イエスが自分を世にはっきり示す良い時であると考えたのだ。

主イエスの兄弟たちは、主イエスに「ユダヤに行って自分を世にはっきり示しなさい」と語った。あなたは都エルサレムに上って行き、一度は離れて行ったあなたの弟子たちに、また世の多くの人々に、あなたの力ある業を示せと勧めた。ローマ帝国の役人や彼らと一緒になっているユダヤの王たち、神殿の指導者たちの目の前で、それらの業を行い、公然と自分の神の力を見せよと言ったのである。

しかし、主イエスはそれを明確に拒絶し、「わたしの時はまだ来ていない」と言われた。ここで「時」と訳されている言葉は、定められた時や好機(チャンス)を意味するカイロスという言葉である。しかし、その主イエスの時は必ず来る。それは主イエスの十字架、そして復活のときである。なぜなら、主イエスは十字架に死に、三日目に復活し、天へと上げられるお方であるからだ。それゆえ、十字架という苦難の死を通して、主イエスが神の御子であり、救い主であることが世にはっきりと示されるその時こそが、「主イエスの時」なのである

けれども、主イエスの兄弟たちは、主イエスがユダヤに行って、大勢の人の前で業を行えば世は主イエスをメシアとして受け入れるのではないかと考えたのである。この主イエスの兄弟たちの言葉の中に荒れ野でのサタンの誘惑と同じ響きを聞き取ることができる。主イエスの兄弟たちは、十字架という苦難の死を抜きにして、自分を世にはっきり示しなさいと主イエスを誘惑した、ということである。

しかし、主イエスは御自分の時を明確に弁えておられた。御自分がどのようにして神の御栄光を現すのかを知っておられたからである。

NEW! 2024.12.1 週報掲載の説教

2024.12.1 週報掲載の説教

<2024年10月6日の説教から>

『天から降って来た命のパン』
ヨハネによる福音書6章41節~59節

牧師 鈴木 美津子

 
ヨハネ福音書には、マタイやマルコ、あるいはルカ福音書に記されているような聖餐式制定の言葉はない。確かに、最後の晩餐の場面において聖餐式のことが全く触れられていない。けれども、ヨハネ福音書が記され、また、読まれていた当時の教会が、聖餐式を行っていなかったということを言っているのではない。なぜなら、キリストの教会は、誕生以来パン裂きを行って来たからである。当然、ヨハネ福音書もまた、主イエスが制定された聖餐式を前提として記され、読まれているのである。ヨハネ福音書は、主イエスが五千人以上の人々に食べ物を与えた奇跡の後、カファルナウムの会堂で、人々に教えられたことをここで改めて記すことによって、聖餐式の深い意味を明らかにしているのである。

56節と57節で、主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もまたわたしによって生きる」と言われた。この言葉に現わされているのは、聖餐の持っている神秘的な恵みである。私たち自身が主イエスの中にいて、同時に主イエスが私たちの内にいてくださる。さらに、その主イエスは天の父なる神と一つであるから、私たちは主イエスを通して、天の父なる神ともしっかりと結ばれている、一つであるのだ。パンを食べること、杯を飲むことは、十字架の上で死なれた主イエスとの神秘的な結合である。これこそが聖餐式の恵みの中心なのである。

主イエスの肉、そして血を食べ飲むことは、十字架の上で主イエスが肉を裂かれ血を流された、その犠牲、その恵みと一つになること。そして、主イエスが、死んで葬られた後に復活されたように、信じる者もまた復活することがここではっきりと宣言されているのである。復活は、単に死から生き返るということだけではない。死に打ち勝ち、勝利し、主イエスの栄光に与るということである。主イエスの肉と血とに与ること、それは私たちの命そのものだからである。

2024.11.17 の週報掲載の説教

2024.11.17 の週報掲載の説教

<2024年10月13日の説教から>

『永遠の命の言葉』

ヨハネによる福音書6章60節~71節

牧師 鈴木美津子

群衆の中だけでなく、弟子たちの多くも主イエスの言葉に躓いて離れ去った。主イエスは12弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問う。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。(68-69)」と答えた。ペトロは、「あなたがわたしたちの主である以上、わたしたちの居場所はあなたのもとだけだ」と答えたのである。なぜなら、主イエスこそ永遠の命の言葉を持っておられるお方だからである。このペトロの告白に、離れ去っていた多くの弟子たちと12弟子の違いが浮き彫りにされている。多くの弟子たちが主イエスの御言葉に躓いたのに対して、12人は主イエスが永遠の命の言葉を持っておられると告白することができたのである。このことは12人のうえに聖霊の導きがあったこと、彼らが父なる神の選びの内にあったことを教えている。しかし、そうであっても留まり続けたこの12人中からもやがて裏切り者が出てくる。

これらのことは、今の私たちに何を教えているのか。それは地上の教会には欠けや弱さがあるということである。立派な信仰者と思われていた人が信仰を捨ててしまう。牧師や長老などからさえ信仰を捨ててしまう人がでてくる。そのようなことが地上の教会においては起こりうるからである。このことは他の誰かのことを考える必要はない。むしろ、主イエスがここで求めておられることは、私たち一人一人が自分はどうであろうかと問うことである。「あなたがたも離れていきたいか」という主イエスの問いを自分に対するものとして聞くこと。そして、ペトロの「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」との言葉を自分の言葉として語ることである。この日本でキリスト者であり続けることは、困難の伴うことがある。またキリストを信じることでさまざまな誤解や偏見を受けることもある。いっそのこと信仰を捨ててしまった方が楽ではないかとも。しかし、もし信仰を捨ててしまうならば、何を信じて生きていけば良いのか。そもそも主イエスを真の神であると信じている私たちがこの方から離れ去ることなどできるのか。主イエスが私たちを永遠の命に生かすために十字架の死を死んでくださったことを知ってしまった今、この方のもとを離れ去ることができるのか。できないであろう。できない。なぜならキリスト者とはそのことを知っている者のことを言うのだから。自分はキリストなしでもはや生きていくことができないことを知っている者、それがキリスト者だからである。