浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節 『面と向かって語り合いなさい』 2013年8月4日

 浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節 『面と向かって語り合いなさい』

 2013年8月4日

 司法制度改革が行われてから約10年が経ちました。この改革は、司法が抱える様々な問題を法律によって解決する事が出来る社会の実現するために行われた改革でありました。生活上のトラブルを、法律によって解決し、予防する事は、これからの日本の社会を見据えた上で必要だという理念の下、このような改革が行われたのであります。具体的には1000人の司法試験合格者を3倍の3000人に増やすという数字が掲げられ、その為に幾つかの大学に法科大学院というものが設けられたのです。しかしこのような10年前の見通しとは裏腹に、現代の日本において、私たちの日常生活レベルにおいて、全てのトラブルを法によって解決しようという考えをどれだけの人が持っているでしょうか。むしろかえって、様々なトラブルが起こった時、その解決に司法が活用されるどころか、行政や法の専門家ではない人が仲介に入ったり、その社会の慣例に任せられたり、ひどい場合には暴力や脅しが未だに横行しているような事も少なくありません。法的な解決は最後の手段と考え、又、弁護士費用の負担や、長期にわたる裁判などを考えると、司法を活用するのはかえって面倒な事であると言うのが、今でも我々の心の中にあるのではないかと思うのです。いまだ尚、法的手段は高いハードルであるという現実があるのです。
 元々アメリカを初めとする、西欧的な法概念を日本にも植え付けたいという事があるのかもしれませんが、しかし日本人においてはトラブルの解決はそんなに簡単ではありません。つい最近も、山口県周南市の小さな集落で男女5人が犠牲になった事件も、近所付き合いのトラブルが元であると言われておりますし、このような事件は後を絶ちません。ここまでではないにしても、近所付き合いや、ご近所トラブルというものは、誰もが避けて通る事が出来ず、日常茶飯事のように起こるものでありましょう。
 会社の中でも、学校の中でも、近所付き合いでも、残念な事に教会の中でさえも、そのようなトラブルは起こるのであります。

 今日与えられた聖書箇所は、このような私たちに色々な事を考えさせるでしょう。この箇所を一読して思いますのは、教会内でトラブルが起こった時の法的手段について、という事であります。つまり自分が、ある信徒から被害を受けた時どのように対処するか、というトラブル解決方法を、教会法的な見地から語っているように思うのです。この箇所から読み取れるのは、こういう事です。

 自分に対して罪を犯した人のもとに行き、誰もいないところで「私はあなたに罪を犯されました、あなたから被害を受けました」と言って抗議するべきである。もし相手がそれを聞き入れるならば、その人と和解が成立するわけだから、その相手とは良好な関係を結ぶことが出来る、これが第一に言われている事であります。

 しかし1対1で話しても埒が明かない場合は、1名か2名の人を一緒に連れて行き、そこで忠告すべきである。その1~2名の物は、あなたの言い分の正しさと相手の罪の証人となってくれるだろう。これが二つ目であります。

 それでも駄目な場合は教会に訴え出なさい。教会が相手の罪を認めた場合、相手側に罪を認めさせるが、それでも拒否する場合は、異邦人か徴税人と見做しなさい。

 このような3段階の法的手段があると言っているように読み取れるわけであります。そして教会における、言い換えるならば、信仰者同士の間におけるトラブルの解決方法には、このような3段階のやり方があるので、私たちはこの段階に従って行いなさい、と言われているように読めてしまうのであります。

 けれども、この箇所は表面的にはそう読む事が出来るかもしれませんが、しかし少し深く読む方であれば簡単に気付くと思いますが、ここには色々な問題点や疑問点が挙げられると思うのです。

 例えば、この訴え出る人、つまり原告側の訴えそのものが不当なものである場合、という事であります。その事については一切語っていません。相手が悪い、相手が罪を犯した、という一方的な訴えの事しか書かれていないという事は、聊か疑問が残るものであります。
 もう一つの問題点は、訴え出る人が1~2名を連れて行く、とありますが、その連れて行く人は当然、訴え出る人のシンパであり、原告側に有利な証言をする人である事は火を見るよりも明らかであります。そうなると当然のごとく、ここでは被告側には大変不利であると言わざるを得ず、この2段階の内、2段階で不正な裁判が行われるというように思えてならないのであります。

 さらに、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」という言葉に引っかかります。つまりここで主イエスは何を言おうとしているのかが明確ではないのです。あれほど異邦人と共に生き、徴税人こそ神の許に来なさい、と言って、招いた人々であるのに、それらのように見做される、というのは、これまでの主イエスの行いからは場違いな言葉であるように感じるのであります。

 そしてもう一つは、教会が出す判決それ自体が、そもそも本当に正しいのか、という事も重要です。この3段階の法的手段は、言ってみれば、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所の3段階の控訴制度のようでもありますから、最終的に最高裁である教会が出した結論は全て正しい、というこの文脈は、随分と乱暴な言い方であるようにも感じるのであります。そして聖書は、否、主イエスが、このような「罪多き教会に、人を裁く権威をお与えになった」というのは、考えられないのです。何故なら同じマタイによる福音書7章1節では、「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにする為である」とはっきりと「主イエスの口を通して」語られているわけでありますから、これは今日の箇所と矛盾するように思えるのです。

   (2に続く)

マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』 2013年5月26日

  マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』② 2013年5月26日

 ≪続き≫

 この群衆が異邦人であるという事から考えると、弟子たちからではなく、主イエスから空腹を満たしてやりたいと願い出ている事は納得がいくのです。つまり、弟子たちはここに来た群衆たちに対して、そこまで配慮する必要はないと考えていたかもしれません。異邦人なのだから、そしてイエス様がその苦しみに手を差し伸べて癒して下さっているのだから、もうそれで十分なんじゃないか、と。
 33節で「弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」と言っているこの弟子たちの返答には、「そこまで面倒見なくていいですよ、だって何も持っていないのですから」という意図が込められていたのかもしれません。

 しかしここで主イエスは、異邦人である彼らの空腹を満たすという奇跡を行なうのです。「ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ」とパウロが言う通り、主イエスはそこに隔てない恵みを与えられるのです。先週のカナンの女性の願いに対してイエスが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と冷たくお答えになった事が記されていましたが、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と願う異邦人に対し、イエスは食卓から落ちるパン屑をお与えになったのです。そして今日の箇所では、単なるパン屑ではなく、4000人もの大勢を養い、祝福し、命の糧を与えているのです。異邦人である事とそこに神の祝福が与えられる事は、決して切り離されるべきことではない、と伝えているかのようであります。その意味において、このカナンの女性の出来事と、今日の箇所は裏と表の物語として語られるべきものでしょう。

 このように4000人を養った主イエスですが、弟子たちはどうだったのでしょうか。ここには弟子たちの様子は「それを配った」という事しか描かれていません。主イエスがカナンの女性との出会い、そしてガリラヤ湖のほとりでの異邦人たちとの出会いを経て、主イエスが示そうとされる恵みと祝福の大きさに、私たちは心を柔軟にして主イエスに従う事が大切なのです。

 このような異邦人と共にする食事は、弟子たちにとってはおそらく初めての経験だったことでしょう。パンが増えることは既に14章にありましたが、ユダヤ人の言い伝え、ミシュナーと呼ばれる口伝律法によりますと、ユダヤ人が異邦人と食事をすることが禁じられています。ミシュナーは異邦人を「汚れた民」と教えているからです。食事はもちろん、共に交わりを持つ事も禁じられていました。もっとも、モーセの律法によると、レビ記や民数記では、ユダヤ人が異邦人と一緒に食事することを禁じていませんので、後に出来上がった律法ではあります。いずれにせよ、そのような慣習の中で育ってきた弟子たちだったので、異邦人と、しかも4000人もの異邦人たちと共に食事をすることは、彼らにとって初めての経験であ、しかしその心境としては、いたたまれないものであったと思います。これまでも徴税人や娼婦たちといった「罪人」と呼ばれていた人たちとの食事はありましたが、これらはユダヤ人でした。それに対して今日の箇所では周りを無数の異邦人で囲まれていたのです。熱心党のユダヤ主義者シモンは、「絶対に一緒に食事しない」と頑なに拒んだかもしれません。ペトロも同じだったかもしれせん。特にペトロは、ガラテヤ書2章11節で、異邦人と一緒に食事をするのを同胞のユダヤ人に見られる事を懸念して逃げて行ったと言われているぐらいです。当時の律法を頑なに守って生きていた者たちにとって、イエスの行ないはあまりにも逸脱したものでしたから、弟子たちは恐れていたと思うのです。

 今日の箇所を、マタイ福音書全体の大きな流れの中で捉えてみましょう。29節で、最初に主イエスが山の上に座られたとあります。14章の5000人の話の時は、イエス一行は舟を下りてすぐに平地で行なった奇跡でした。しかし今日の箇所では山に登ってしかも腰を下ろしているのです。マタイによる福音書では山は神の顕現される場所として捉えられます。この後起こる、山上の変貌の話が17章にあります。そして最も重要な場面は「山上の説教」です。イエスは、山に登り、腰を下ろし、そして語り出されたとあります。すなわちイエスの「言葉」を通して「神の意志」が啓示された出来事、それが山上の説教だったのです。それに対して、今日の箇所は、山に登り腰を下ろし、イエスの「行為」を通して「神の権能」が啓示された出来事であります。すなわちこの場面が、山上の説教との関連で読み解かれる時、そこには神の栄光が示されるのです。

 私たちは「御言葉を糧にする」と言いますし「人はパンのみによって生きるにあらず」という言葉を知っています。それは命のパンとしての御言葉こそが、最も重要であるという事が示された言葉です。しかしそうは言っても、空腹は命の問題でもあります。この世における生命の問題であります。死ぬほどに空腹の極限の人に聖書を読み聞かせても空腹が満たされる事はありません。しかし今日の箇所で主イエスは、その両方の両方を与えて下さると言っているのです。私たちは主の祈りの最初で「御名を崇めさせ給え、御国を来たらせたまえ」と主の国の到来を願う、いわば高尚な祈りから始めます。しかしそのすぐ後に「我等の日用の糧を今日も与え給え」と卑近な祈りをするのです。しかしそれらは決して分けて考えられるものではなく不可分なものである事を主の祈りは示します。そして主はその両方を与え、その両方に責任を持って下さる、という事が今日の箇所に示されているのです。

 主は民族主義的なところから人を養われません。主義・主張・文化・人種、と言ったような実に複雑で、問題を孕む人間の問題があるにも拘らず、しかしそこに主は立っておられないのです。如何なる場合でも、主は御言葉をお与えになり、その日の糧を与えられるのです。弟子たちが、いささかの抵抗を持っていたにも関わらず、主なる神は、それでも尚も、主のなさりたいように御言葉をお与えになり、その日の糧を与えて下さるのです。

(日本キリスト教会 浦和教会  主日礼拝説教 2013年5月26日)

マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』 2013年5月26日

 マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』① 2013年5月26日

 この箇所を最初に読んで思いますのは、あれ?4000人?5000人じゃなかったっけ?という疑問です。マタイ福音書では14章に5000人の群衆の空腹を満たす奇跡についてすでに語られていました。この箇所はいわゆる5000人の給食、という言い方がされていますが、今日の箇所は4000人です。多くの人はこれを見てマタイは同じ話を間違って2度記したのか、もしくは強調するために似たような話をもう一度書いてみた、と思うかもしれません。聖書をある程度知っている方に「大勢の群衆の空腹を満たす」というキーワードで連想するものは「5000人の給食」であり、決して「4000人の給食」ではないでしょう。試しに「5000人」と「給食」キーワードからインターネットで検索して最初にヒットしたのは、主イエスの5000人の給食であり、5つのパンと2匹の魚に関する事でした。それに対して、「4000人」と「給食」で検索してみると、トップ記事に出てきたのは「トルコの学校給食で無料で牛乳を配布したところ4000人が食中毒になった」という似ても似つかぬ話でした(笑)。

 それが証拠というわけではありませんが、私たちは大勢の人々の空腹を満たすと言えば「5000人」というイメージがあると思うのです。しかしこの話を詳しく読んでいきますと、それがイメージ先行である事が分かり、むしろ私たちはこの4000人の給食の物語の内容の深さに驚くのです。そしてある一面から言うならば、5000人の給食の話よりも、むしろ今日の箇所の方が聖書全体にとって意味のある、主イエスの歩みにおける転換点であると受け取る事も出来るぐらいなのです。今日はその事を考えつつ、共にこの箇所から御言葉に聞きましょう。

 先週の箇所で主イエスは、カナンの女性に対する癒しを行ないました。それはイスラエルのだいぶ北の方であったと思われます。そして今日の箇所ではイエス一行は南下してガリラヤ湖のほとりに帰ってきたのです。そこには多くの群衆が集まってきました。30節「足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」。すなわちこの時イエス様は多くの群衆たちの、様々な体に癒しを行なっていたのです。

 5000人の給食の話では、時刻は「夕暮れになった」とあるように、群衆を解散する時に行なわれたのが5つのパンと2匹の魚の出来事でした。それは空腹のまま薄暗くなったところを帰らせたくないという思いがあったからです。この時の状況は14章15節にあります。「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

 ここで「食事を与えたいと」という事を申し出て、群衆に配慮したのは「弟子たちであった」と書かれています。しかし今日の箇所15章32節では「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」 このように言われており、この時、イエス側から群衆の空腹を満たしてやりたい、と申し出たのです。
 一方は弟子たちが配慮し、もう一方では主イエスが配慮している。それ自体は何ら不思議な事ではありません。主イエスも、弟子たちも、集まってくる群衆を大事に思っているわけですから、むしろこのような配慮をお互いにし合うのは大切な事です。

けれども、ここで弟子たちではなく、主イエスから言い出したのにはわけがありました。それは「籠」であります。5000人の給食の話では12の籠がいっぱいになった、と書かれており、今日の箇所では7つの籠がいっぱいになった、とあります。ですから同じように籠が満杯になるほどに、祝福もいっぱいになったという事が示されているわけです。しかし実はこの籠という言葉、違う単語が使われています。5000人の方では「コフィノス」という言葉、4000人の方では「スピリス」という言葉です。勿論両方共に籠である事には変わりはないのですが、5000人のコフィノスは、ユダヤ人が旅をする時に食べ物を入れるために使っていた籠でありまして、それには覆いが付けられていました。何故おおいが付くかと言うと、ユダヤの律法に従って、異邦人の地にある塵や埃が入らないようにするために蓋をする事が必要だったのです。それに対して4000人の方の籠スピリスにはおおいはありません。かなり柔軟性のある大きなかごで、品減でも入ってしまうほどの大きさであったそうです。そしてこれにおおいが無いのは、異邦人の土地の塵や埃が入っても構わない、つまりそのような律法に従わなくて良い人々が使うものであったからです。ですからこれは、異邦人が使う籠なのです。

 ここにいた群衆とは「異邦人」でした。ガリラヤ湖北部地域は、西側がユダヤ、東側が異邦人が住む土地でありましたから、恐らく東側の山で起こった事なのでありましょう。そこに異邦人の群衆がたくさん集まってきたわけであります。

 新約聖書学的な言い方をすると、12の籠と7つの籠という数についてもそれを表しているとも言われます。12はイスラエル12部族を表しており、これがユダヤ人である事が分かる。それに対して7と言うのは、70の異邦の国々であるとか、使徒言行録にあるような、ギリシャ人への配慮をするために選ばれた7人の執事を示しているとも言われます。つまり7が異邦人の象徴であると考える事が出来るわけです。そもそも5000人の「5」という数はモーセ五書の象徴でユダヤ人を示し、4000人の「4」という数字が、東西南北の方角、四方八方の異邦の国々を示しているのである、と解釈する事が出来ます。エゼキエル書やダニエル書でも4という数字が全世界を表わす幻について語られている通りであります。

浦和教会主日礼拝説教  マタイによる福音書9章1節-8節 2012年9月2日

浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書9章1節-8節 『子よ、元気を出しなさい』①


 ガリラヤ湖を向こう岸に渡られたイエス一行は、湖の上で嵐を鎮める主イエスの業を目にし、ガダラ地方においては、悪霊に憑りつかれた2人の男に対して、豚の群れの中に悪霊を追い出すという驚くべき仕方によって、癒しの業を行ないました。この二つの出来事を終えて、一行はまたユダヤ地方に帰ってきたのです。
 そして帰るな否や、そこで中風を患った一人の人と出会いました。出会ったというよりも、むしろ人々が中風の人を床に寝かせたまま連れてきたのです。この人たちがどういう関係であるのか分かりません。親や子供などの肉親なのか、友人たちなのか、それともたまたま通りかかった人が中風を患っているのを不憫に思い、衝動的に連れて来たのか、それは分かりません。他の福音書の同じ並行箇所では、その人が4人であり全てが男たちであった、という事が書かれています。それから最も重要な出来事として、イエスが話をし、癒しの業を行なっている家の屋根の上に勝手に上がり、屋根を剥がして中風の人の床を吊り降ろすという行為に出ているという事も記されています。しかし今日の箇所では、床を担いできた人の人数、性別、中風の人との関係などに関して、一切何も語っていません。つまりこのような並行箇所との比較をしてみて明らかな事は、マタイ福音書の著者にとっては「誰に連れてこられたか」のも「屋根を剥がして吊り降ろされた」のも重要ではなく、むしろ枝葉の事であると暗に示しているのです。

 ではマタイ福音書のこの箇所において何が中心的なメッセージなのでしょうか。それが2節の言葉に示されています。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。」

 この言葉は大変不思議な言葉であります。何が不思議かお分かりになるでしょうか。このやり取りを良く読んでみますと、まず数名の人が床を担いで来てイエスの前に現われ、そしてその信仰を見て、「あなたの罪は赦されると言った」のです。まずイエスは、「自分のところに連れてきた事が信仰である」、と理解しているのです。そしてその人の体の癒しではなく、罪の赦しに言及し、赦しの宣言をしているのです。普通に考えるならば、この4人の行動を見て、中風の人に癒しの業を与えるのが順当な行為であろうかと思いますが、しかしここで与えられたのは「癒し」ではなく「赦し」だったのです。

 ここで私たちは、信仰上最も根本的で重要な問いに辿り着くのです。それは、「一人の人間の生涯にとって、何がより重要であるのか。癒しか。罪の赦しか」。その問いを与えられるのです。
 主イエスが罪の赦しを宣言するのを聞いた律法学者たちは、こころの中で批判します。「この男は神を冒瀆している」と思う者がいたというのです。それはこの律法学者がそう考えるのも無理はないと思います。何故ならば、罪の赦しを行なえるのは神以外にありえないからです。イエスを『主である』と信じていない彼らにとって、それは神への冒瀆以外の何物でもなかったことでしょう。

 これに対して神の子イエス・キリストは、一つの重要な問いを投げかけます。「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」この問いです。これは大変難しい言葉です。皆さんはどちらだとお思いになられるでしょうか。「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが簡単な事なのでしょう。

 これは全く議論の分かれるところであります。注目したいのは、赦されたと「言う」のと、起き上がれと「言う」のとどちらが易しいか、とあるように「言葉で言う」事についてどちらが易しいか、と問うているように理解できるということです。

 現実的に考えるなら「あなたの罪が赦されたと『口で言う』」方が簡単であるかもしれません。何故なら「赦された事」は確認が出来ないからです。その反対に「あなたの病気は治ったと『口で言う』」ためには、実際に体が治らなければその言葉はウソになってしまいます。動かない腕や足が動き、見えない目が見えるようになり、話せない口が言葉を持つようになる、という事は、実際に目で見て確認する事が出来る。しかし罪が赦される事は確認が出来ない。だから「あなたの罪は赦された、と、口で言う方が易しい」と理解する事も可能でありましょう。

 しかしこの箇所の文脈から言って、やはり癒されたというよりも、罪の赦しを宣言する方が難しいと捉える方が良いのかも知れません。それは罪の赦しが目に見えないからこそ、確認できないからこそ難しい、という理解であります。

 赦しの宣言が難しい、という事は、ともすれば私たちにとってなかなか腑に落ちないものかもしれません。何故なら、赦しを乞う人「加害者」に対して、被害者があなたを赦します、と宣言すれば、謝罪と赦しは成立するからです。ですから、どうしてイエス様は、この赦しの方が難しいと考えたのか。この事が問題となります。

 しかし罪の赦し、というのは、被害者と加害者との関係の中だけで行われる単純なものではありません。ときに罪の赦しは、誰に対して行えば良いのか分からない事も起こり得ますし、赦して欲しい人からの赦しを得られないという事を起こり得るのです。

 随分昔の事になりますが、ある女性の信徒から悩みを相談をされた事がありました。その女性は若い頃、所謂人工妊娠中絶を行なったというのです。それは悩みに悩み抜き、その時の自分に育てる事が出来ないから、という苦肉の決断であったという事でありました。しかし堕胎した事による罪の意識を何年経っても拭いきれず、毎日を苦しく過ごしているというのです。
 その方はクリスチャンではありませんでしたから、水子供養であったり、何らかのお祓いのようなものであったり、色々な民間信仰的な事を試してみたけれども、小さな命を人工的に奪ってしまった事への罪の意識が日に日に増すばかりであるというのです。そしてその女性は「誰もこの罪を赦してくれない」と、そう言って嘆いていたのでした。私はそれに対して、軽々しく赦される事を語る事は出来ませんでした。何故なら私自身に赦しの権威が
無いからです。又、もし私が神様の名において赦しを宣言したとしても、この女性が根本のところで赦しを実感する事は不可能だったと思うのです。

(②に続く)

 

マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』

 ≪①からの続き≫

 私たちは、最後の34節の「すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。」の一文だけを読む時、町の人たちは、主イエスの驚異的な力、神の権威に驚愕し、この人こそ私たちの主である、と告白しにやって来たに違いないと、とっさそう考えるでしょう。しかし状況は全く違っていました。彼らはイエスに出て行ってもらいたい、という事を依頼しに来たのでした。町の人たちにとってイエスこそが厄介者であると意思表示したのです。居てもらっては困る。邪魔だ。それが町の人たちが出した結論でした。

 それは、この町が異邦人の町であった事に原因があります。ユダヤ地方では豚は不浄な動物である為、家畜として豚を飼う事はありません。ですから豚が群れをなしていて餌をあさっている事から鑑みますと、これが異邦人の町である事が分かります。8章18節でイエスは、「舟に乗って向こう岸に行こう」と言っているように、イエス一行はガリラヤ湖の東側沿岸の町に来ているのであります。

 異邦人の町ですから、ユダヤの律法、特に食物規定が適用されません。つまり彼らは豚を食べても良かった。豚は彼らにとって大事な食糧であると同時に、財産でありました。ユダヤ人たちが羊の数によってその裕福さを誇示するるのと同じように、この異邦人の町にとって、豚をどれだけ所有しているかが、その人の裕福さを示すバロメーターになっていたのです。

 時に町の人たちは、人間の命よりも、豚の命を大切にしました。それは言い換えるならば、人間の裕福さの誇示と財産の所有が、人間の命よりも重たいという価値観の中に生きていた事を示しているのです。ですから町の人たちとしては、大量の豚が湖になだれ込むなどという事は、目を覆いたくなるような出来事であり、悪霊に憑りつかれた2人の命が救われるぐらいなら、大量の豚の群れが安全であったほうが良かったのです。

 聖書はこの物語で、人の救いは、例え財産を失っても何にも替えがたいものである、と伝えようとしているのかもしれません。あるいは、「神と富とに仕える事は出来ない」、というマタイ6章24節を敷衍する言葉として、これが読まれる事を望んでいるのかもしれません。いずれにせよ私たちは、この2人の男たちが、厄介者であるというレッテルを張られ、彼ら自身が加害者でありながら、被害者でもあるという非常に複雑極まりない状況の中で、彼らが必死に救いを求めている事を冒頭で確認しました。そのような混乱をきたした人間の心の状況や、もはや自分の力では如何ともし難く立ちはだかる内的な自己破壊的な暴力行為、それはまさに悪霊の仕業としか思えないような、人間の力の及ばないような自分の悪い行いに対して、福音は何を語り、何を伝え、福音は如何なる力をその者たちに及ぼす事が出来るのか、という事を示しているのであります。

 まさにそれは、人間の罪に対して、主イエスは何を語るのか、という事を示すのです。私たちの罪は主イエスによって取り払われました。ユダヤ人であろうとなかろうと、その力の及ぶ範囲は、異邦の地にまで広がっており、それはその人々が最も大事にし、価値あると考えている物(つまり豚の群れ)の価値を超えて、人の命、人の救い、すなわち我々の救いは如何なる価値ある物にも勝って価値ある物なのだ、という事をこの箇所は示しているのであります。悪霊の滅ぼし、罪の赦しと同時に、私たちを救おう救おうとなさる主イエスの力が象徴的に示されたのがこの物語なのであります・

 豚の群れの中に、悪霊が入り込み、悪霊に取り付かれた豚が、崖から落ちて死んでしまう。何とも無残な光景です。しかしこの出来事が象徴しているのは、「この世の財産よりも、一人の苦しむ命の方が、価値が高い」「この苦しむ命が救われる事は何と素晴らしい事か」という事を示しているのです。この悪霊に取り付かれた2人は、この世の中から見捨てられ、町の中に住む事も許されず、手枷、足枷によってその自由が奪われ、彼の苦しむ命を誰も顧みる事もなかった状態にありました。だから屍のように墓に住む事を余儀なくされたのです。しかしイエス・キリストは、この誰からも見放された小さな魂の価値を認め、その価値が、この世の価値よりも遥かに高い事を示してくださったのです。町の人たちは悪霊に憑りつかれた2人に手を焼いていた事でしょう。この2人が困難で凶暴な事を誰もが知っていたはずです。しかしこの男たちが癒され、正気に戻っても、町の人たちは彼らが癒され救われた事に対して無関心であります。ただただ大切な財産を守るために、「出て行って欲しい」とイエスに告げているだけなのです。

 私たちの生きる世の中も、これと大して違いは無いという気も致します。この世の財産と、それに基づくこの世の価値観の中で私たちは生活しています。格差が更に広がりつつあると言われるこの社会にあって、この世の価値に縛られ、それを守ろうと必死になる中で私たちは生きています。しかし今日の箇所で主イエスは私たちに告げるのです。「どんなに小さな者であっても、どんな財産よりも価値高く、尊いのだ」と。
 この箇所を、私たちは第三者として聞いてはなりません。この救われた2人に対して言葉を掛けるとすれば、私たちは何というでしょうか。「救われて良かったね。」と、あたかも彼らと私たちの間に何の関係もないように語り掛けるでしょうか。しかし良く考えてみてもらいたいのです。
 彼らは自分の意志であるか否かに拘らず人に危害を加える、その罪の故に人々から厄介者というレッテルを張られると同時に、彼ら自身も罪の被害者である人たちです。彼らは墓という自らの殻に閉じこもり、人との関係を遮断して生きているのです。時に孤立し、時に人を愛する事が出来なくなり、彼らは自らのうちに籠ってしまう。

 つまり私たちは、この2人と無関係に生きているのではなく、ともすれば私たちはこの2人自身ではないだろうか、と思わされるのです。自らの罪に囚われる私たち。しかしここに書かれている恵みは、この私たちをも解放して下さる神の恵みがここにあるのだ、という事であります。この2人の絶望的な人生を、うちに籠った孤独な命を、主の御前に引き戻し、主と共に歩ませようとされるイエス・キリストがここにおられるのです。  この恵みによって、私たちは生かされているのであります。

マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』

 マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』
                  (日本キリスト教会浦和教会 主日礼拝説教 2012年8月19日)

 先日の夜中、「エクソシスト」という映画が放映されており、懐かしい思いを持って興味深く観てしまいました。これはカトリックの神父が悪霊払いをするというストーリーで、わたしとしては30年以上も前に幼少時以来でしたから、昔は怖くて画面を直視出来なかったな、という懐かしさと共に観たわけであります。1973年に公開されたエクソシストは、ホラー映画としては珍しくアカデミー賞の2部門を受賞しておりまして、当時のその反響の大きさが分かります。

 ある町に住んでいる少女が、突然原因不明の病にうなされます。母親は医者たちに色々な検査をしてもらい、原因を究明しようとしますが全く分かりません。その後、どんどんと奇怪な言動が続き、ある時には娘が寝ていたベッドごとガタガタと揺れているのを見た母親は、これは病気ではない、という事に気付きます。医者はカトリックの神父である、デミアン・カラスという司祭を紹介し、そこから悪霊を追い出す、つまり「エクソシスム」が始まり、壮絶な戦いが続いて行く、という事になるわけです。
 結局最後は、娘に憑りついた悪霊が、カラス神父に乗り移り、それと同時にカラス神父が高い石畳の階段を転げ落ちてしまい、悪霊も、神父も、両方一緒に絶命するという幕切れでありました。ああそんな終わり方だったかと、何となくしっくりといかない思いを抱きながら、調べてみますと、やはり世界各国、特にカトリック国では、この終わり方は、悪霊が勝利を収めたという印象を抱かせてしまう、という理由で、当時上映禁止になったのだそうです。正確には相打ちというか、刺し違ったという事ですから、それだけエクソシスムは壮絶な行為なのだ、という事なのでありましょうが、カトリック側としてはなかなか認める訳にもいかないのでしょう。

 このような悪霊払いでありますが、映画や小説での話ではなく、現代の特にロシア正教ではこの行為は生き続けているという事です。有名なのは、19世紀のドイツメットリンゲン村のルター派の牧師をしていたクリストフ・ブルームハルトという人の悪霊払いは有名でありまして、このブルームハルトは、カール・バルトやブルトマンという著名な神学者にも影響を与えた事で知られています。

 このように、エクソシストにせよ、ブルームハルトにせよ、色々と世に出回っている出来事や証言の数々があるとは言え、いずれにしても、悪霊払いという行為が、私たち現代人にとってはそうそう身近なものではなく、むしろオカルト的な出来事として捉えられている事は間違いありません。
 その為、この箇所のイエスの行為は、馴染み深い話というよりは、むしろ私たちを困惑させる話であるのです。この2人の男たちとはどのような状況なのか。何故ここに豚が出てくるのか。そしてなぜ豚の群れが湖になだれ込んで落ちるはめになるのか。ここから聖書は、私たちに何のメッセージを伝えようとしているのか。などなどであります。

 ですから、現代的な解釈や、又、注解書などを紐解きますと、この2人は解離性の人格障害であるとか、統合失調症であるとか、何らかの精神疾患の分類の中に彼らの症状を当てはめて理解しようと致します。当時悪霊と呼ばれていたものの多くは、確かに精神疾患であろうと考えられていますので、間違った解釈ではないと思います。むしろ病理的な観点から言うと、正しい理解であるのかもしれません。
 しかし私たちが聖書を読むのは、それを科学の分野から説き明かす事ではなく、聖書がこのように自らを読めとする聖書の要求を汲み取って読む事であります。つまりここに出てくる悪霊に憑りつかれた人たちも、豚の群れも、町の人たちも、聖書の語ろうとする内容に沿って読む事によって、その意味が浮き彫りにされてくるのです。
 
 まずこの悪霊に憑りつかれた2人について考えてみましょう。この2人は、人に危害を加える町中の厄介者であると同様に、彼ら自身も又悪霊もしくは病気の被害者である、という事が言えると思います。彼らは墓場に住んでいました。現代の我々でも墓場に住むという事が尋常な住処ではない事ぐらいは分かります。墓は町の賑わいから遠く離れた場所に作られておりまして、人里離れたひっそりとした場所に、彼らがいた事が分かります。彼らは何故このような場所に住むことになったのでましょうか。それは「そこにしか住めなかった」、というのが正しい言い方であるかも知れません。つまり彼らは悪霊に憑りつかれていたがために、厄介者であり、人との交わりを遮断され、孤立し、人を人として愛する事の出来なくなった状態にありました。彼らは自らのうちに籠っていました。それは振る舞いにしても、住む場所にしても、孤立を選び、孤立せざるを得なかったのです。彼らに近づく者はいませんでした。彼らは非常に凶暴で、人が近寄れないほどであったからです。

 ここで主イエスが彼らの場所にやって来ます。誰も近寄れない彼らの下に主イエスは出向いて来たのです。そして悪霊たちはイエスに対し「あの豚のところに追い出してくれ」と唐突に願い出たのです。そして悪霊たちは豚の群れの中に追い出され、豚は驚きのあまり、湖になだれ込んで死んでしまうのであります。大変に奇妙であり、それ故に印象的な場面であります。
 しかし彼らはなぜ豚の中に入れてほしいと願い出たのでしょうか。そもそも豚には何の意味があるのでしょうか。この物語を難しくさせているのは、この「豚の群れ」、という奇妙な対象が現れているからです。これを解く鍵は、この物語の最後で町の人たちがイエスに会おうとしてやってきた事に示されています。 (②に続く)