地の果てに至るまでわたしの証人となる

2010.5.9 使徒言行録1章6節-11節  三輪地塩牧師

 イエス様は私たちに「地の果てに至るまでわたしの証人になりなさい」と言い残して昇天されました。つまり主イエスは宣教の働きを私たちにお委ねになったのです。

 ともすれば教会の集まりは、古の指導者イエス・キリストをノスタルジックに懐かしむ行為となってしまうかもしれません。しかし礼拝はイエス様の記念会ではありません。礼拝は週毎にイースターを想起することの中にその本領があるのです。だからこそ天使が現れてこう言うのです。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのか」と。つまりイエス様の昇天をただポカンと見上げ、黙って懐かしんでしまいがちな私たちに対し「イエス・キリストの証人となりなさい」と我々を派遣するのです。

 もちろん私たちには賜物の違いがあります。体の動く人。動かない人。それぞれ出来ることと出来ないことがあります。しかし一人ひとりが信仰者として生かされ、赦されていることを実感しているならば、その生かされ赦された事実を背負って生きる事それ自体が主イエスの証人となることなのです。特別な伝道活動は必要です。それぞれの賜物を生かして宣教に励むことなくして教会は教会として立ちえません。しかし神様が、あなたのその動かないからだ、聞こえない耳、見えない目、弱る気持ち、そして心に渦巻く不信仰さえも用いて、イエス・キリストがあなたの中に生き、あなたを生かし、あなたを励ますならば、そのあなた自身が既にキリストの証人足りえるのだと主はおっしゃるのです。今あなたに出来る最良の仕方で、キリストの証人となろうではありませんか。

もし神がわたしたちの味方であるならば

2010.4.18  ローマ 8:31-39  牧師 中家 誠
 
 ローマの信徒への手紙8:31-39は、同書の中のクライマックスの部分と言える。福音の核心(確信)を高らかに謳いあげたものである。

 ここには、「神がわたしたちの味方である」と告げられている。

 その確証の第一のものは、神が御子(独り子)イエス・キリストをわたしたちに賜ったことである(ヨハネ福音書3:16参照)。かけがえのない「独り子」をさえ、惜しまないでお与えくださったことが、ここに告げられている。

 その確証の第二は、死んで復活されたキリストが、神のもとで「とりなし」てくださることである。それは聖霊のとりなし(26節)でもある。神のご存在も、そのみ心も、容易に受入れられないわたしたちのために、人の心の中にまで入って来て、とりなしてくださるのが霊なる神の働きなのである。

 第三に、キリストを信じ受入れた者の中に働く神の力である。この世の中に働く患難や危難にも打ち勝つ力が与えられるのである。

 この世には、人をおびやかす様々の力が働いているが、それらに打ち勝ってあまりある勝利が神から与えられてくる。これが、神から与えられる愛の力である。

 神は創造者なる方であるから、「死も生も、天使も支配者も、その他どんな被造物にも」打ち勝つことができる御方なのである。

死ぬべきものが、死なないものを着る

2010.4.4  Ⅰコリント15:42-58  牧師 中家 誠

 今日は、待ち望まれていたイースター(キリスト復活)の日である。キリスト教は、このキリスト復活から始っている。キリストの十字架の死は、罪の贖いのかけがえのない保証なのであるが、それは「キリストの復活」によって保証される。キリストの復活はまた、わたしたちの復活の保証でもある。

 ところで「復活」とは、人が死ねば、自然に新しい命に生き返るといった「自然の変容」ではない。それは神の救いのみわざそのものなのである。「一瞬のうちに変えられる」(15:52)という表現も、全能の神の力強さと、その恵みであることを物語っている。

 更に「朽ちるべきものが、朽ちないものを着、死ぬべきものが、死なないものを着る」というとき、それは身体にまとう「着物」になぞらえられている。即ち、それは憐れみ深い神の「恩寵の衣」を着せていただくことに他ならない。

 神は、御子イエス・キリストの贖いにより、わたしたち背く者をも赦し受入れ、神の子としてくださる。その最終的な賜物が復活の身体であり、永遠の命なのである。それは高価な(キリストのいのちの代償を払っての)贈り物なのである。わたしたちは深い感謝と信頼の心をもって、これを受取る者である。

主、弟子の足を洗いたもう

2010.3.14  ヨハネ福音書 13:1-15  牧師 中家 誠

 主イエスが十字架に赴かれる時のことを、聖書は、「この世から父のもとへ移る、御自分の時が来たことを悟り」と記している。十字架の道は、「父のもとへ帰る道」であり、「神の御旨の中にある時」なのである。

 その時、主は弟子たちの足を洗いたもう。それは御自分の身を低めての行為であり、僕(奴隷)となってなしてくださる事なのである。キリストの十字架の死は、人間の罪を負って死ぬ「神の小羊」としてのみ業(わざ)なのである。「主は極みまで愛し抜かれて」とも記されている。

 わたしたちは皆、この師であり、また神の御子であるお方によって、足を洗っていただく者たちなのである。

 人類の歴史は、始祖アダムの時以来、神に背き続けてきた歴史である。わたしたち一人ひとりも、その罪の責任を負っている。従って、この罪の赦しなしには、誰も正しく神の前に生きることができない。

 主は今日もなお、わたしたちのほこりにまみれた足を洗い続けておられる。この御愛によってのみ、わたしたちは、正しく生き得る者であることを、深く覚えたいと思う。

一つになるための最後の祈り

2010.2.28  ヨハネ 17:20-26  河野美文神学生

 イエス様は目を天に向けられ、祈り始められます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてくださいました」と。

 受難の時は、イエス様の肉体が死を迎えるときですが、ヨハネの福音書では、初めから、「栄光の時」と言われています。この「塵から造られた儚い血肉の体」が死を迎え、全人類の罪の為の、身代わりの死が成し遂げられました。その結果、私達は罪に勝つことが出来ます。永遠の命に連なる復活の命に与ることが出来るのです。

 イエス様は、更に今キリストを信じる者達に、彼らの言葉によって信じる新たな者達が迎え入れられることを予告されます。それらの人々を含めた「すべての人を一つにしてください」と。それは、この世を見捨ててのことではありません。この世から、イエス様に属する者が起こされるという予告であります。

 そして、一つにされることは、まず御父と御子の愛による結びつきを基礎として、その愛の中にすべての人が入ることなのだと説明し、求められています。「そうすれば、世は、あなたがわたしを御遣わしになったことを、信じるようになる」と。ひたすら世から守られることを祈っておられたのに、ここからは一転して、世に対する働きかけを述べられます。

 教会の一致は、時を経るに連れて破壊される恐れがあります。しかし、信者の全てが、神とイエス・キリストから来る交わりの中に立つならば、教会の存在は、世に対する強い伝道になるということであります。

キリストにある人は、常に新しい

2010.1.3  Ⅱコリント 5:16-21  牧師 中家 誠

 新たな一年を迎えるに当り、み言葉の光に導かれつつ歩み行く者でありたい。

 そこで、「キリストにある人は、なぜに常に新しい」のであろうか。それは、人間は常に古び衰えるのだが、神は無限の方であり、常に新しいからである。イエス・キリストの背後には、この神がおられる。「キリストにある」とは、このキリストと結ばれて生きることである。

 それはあたかも、母の中に宿る胎児のごとく、へその緒を通じて、常に新鮮で栄養のある血液が送られてくる。キリストと結ばれる時、わたしたちは神の霊をいただくことができるのである。それは「真理の霊」、また「助け主」であって、わたしたちに必要な神の助け、また神の思いを、日々新たに送ってくださるのである。

 この神の霊、キリストの霊はまた、神からの「和解の霊」でもあって、これを受ける人は神と和解し(神を愛し、神から愛されて)、更に人々とも和解することができる。なぜなら、キリストはすべての者の「和解の源」となるために、十字架につかれたのである。