2017.09.03の説教から

    
              <93日の説教から>
        『いついかなる場合にも対処する秘訣』
                       フィリピの信徒への手紙410節~14
                                       牧師 三輪地塩
 
 11節には「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と書かれている。「満足する」は「アウタルケース」というギリシャ語だが、「自立」「自足」を意味するストア派哲学の用語であった。ストア哲学で「満足する」「自足する」とは、「自己訓練・修行・鍛錬によって獲得する徳目」である。だがパウロは、当時一般的に使われていたストア派の概念ではなく、キリスト教的アウタルケース、キリスト教的「満足」としてこの言葉を使っている。すなわち、13節「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」に示される。ストア派の「アウタルケース」「自立」「自足」は「自分の力でするもの」であった。しかしパウロは、「キリスト教的な満足」は「神によって満たされるもの」と述べる。それをパウロは「習い覚えた」と言う。「習い覚える」とは、ギリシャ語で「マンサノー」と言い、「体験や経験によって体得・習得する学びである」という意味である。
 「体験や経験によって体得・習得すること」は、「信仰」の行為そのものである。洗礼を受けても、すぐ教会から離れる方々を見かけるが、大変もったいないことである。信仰とは、いつも浸かり続ける「風呂」であり、飲み続ける「漢方薬」のようなものである。特効薬や外科手術ではない。我々の罪は、特効薬的に即座に消えるものではない。「罪なきお方の十字架によって、罪なしと見做された」状況を「続けて行くこと」が重要である。
 
 「いついかなる場合にも対処する秘訣を」を我々は「既に」「授かっている」(12節)。キリストと共にある時、我々は、どんな悪い状況、環境、人間の目に悪と映ることさえも、それを乗り越える力を与えられる。キリストの十字架こそ、究極的な悪い状況からの栄光が示された出来事であった。
 
つまり、イエス・キリストこそが「いかなる場合にも対処する秘訣」そのものである。この方こそが福音であり、この方以外に我々の救いは無いからである。神の導きを信じ、キリストから離れずに、信仰の歩みを続けたい。

2018.0128~02.03 今週の集会

       

      

今 週 の 集 会

 

祈祷題信教の自由が守られるため」(211日)

聖書の学びと祈りの会        1日(木)1000         

  列王記2章 (担当 三輪地塩)   司会 板垣 玲 子 

「生と死」の学び          担当 菊 地 晴 子              

聖書の学びと祈りの会     1日(木)1400

  使徒言行録101節~33      担当 安 井 国 雄

 

2018年度浦和教会定期総会 ご案内

  
        【公  告
         2018年度 浦和教会定期総会を開催します。
       日時:1月28日(日)礼拝後 1230
       場所:浦和教会会堂2
       議題:2017年度報告、
      長老・執事・日曜学校長選挙
          2018年度計画、予算案、その他
         ◎万障お繰り合わせのうえ、ご出席ください。
 

                  2018.01.21  教会庭

 
  
 

2018.01.21~27 今週の集会

今 週 の 集 会
 
祈祷題
  「定期総会のため・浦和教会の新しい歩みのため
聖書の学びと祈りの会   25日(木)1000         
  列王記下2章 (担当 三輪地塩) 
                  司会 吉田 さとみ               
聖書の学びと祈りの会   25日(木)1400         
  テトスへの手紙2      担当 大月 美智子
 

2018.01.21 礼拝予定

 

主 日 礼 拝  午前 10:30 
  奏楽 岩

招 詞  詩編119105

*讃 詠   (21)83

*罪の告白と赦し 交読詩編381623

*讃美歌  (21)6


<神の言葉>


聖 書 民数記2718節~23 (旧約P.262

マルコによる福音書3章7節~19                

              (新約 P65

祈 り            河 野 武 郎                                                                                                                                                                         

*讃美歌 (21)462

 教 「12人の使徒を選び出す」

  三 輪 地 塩 

                                                       
<神への応答>

 

*讃美歌 (21)405

*使徒信条

 公 告  

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)  

*頌 栄  (21)46

*派遣と祝福

後 奏 

2017.08.27の説教から

                      <827日の説教から>


               『平和の神はあなたがたと共にいる』


             フィリピの信徒への手紙48節~9


                                    牧師 三輪地塩


 8節の「真実」「気高さ」「正しさ」「清さ」「名誉」などはギリシャ哲学「ストア派」に由来する言葉である。パウロは当時、「世界が高く評価している思想・哲学を、正当に評価するように」と考えていたようである。言い換えるならば、キリスト教会を「隔離されたセクト的な集団」として歩ませようとはしていなかった。我々は「キリスト者」なのだから、それ以外の考えを排除し、切り捨てようとは考えていなかった。むしろ違った考えを受け入れ、周囲の世界や言葉に目を向け、世で認められている価値観や大切にされている感覚を、正当に評価し、受け止めよ、とパウロは言っているようでさえある。


 これは、異教の真ん中に建っているフィリピ教会ゆえに抱える問題であるが、我々日本の教会もこれに類似している。我々が宣教する相手は、日本社会と日本文化に生きる人たちなのである。当然ながら、他宗教や文化に「おもねること」や「迎合する」必要はない。この土地を愛し、この土地に住む人々を愛する、という事が大事である。言い換えるならば、「他者理解」を如何にして行うか、である。


 まことに「他者」とはややこしい相手だ。自分と異なるのが「他者」であるならば、そこに確執や敵対が生まれる可能性もある。それが「他者」である。だが「三位一体なる神」とは、神ご自身の中に、他者性が内在された神であるという事を意味する。唯一の神、は絶対の神、でありつつ、多様性をご自身の内部に存在させる神なのである。


神が創造された世を愛する、とは、自分の愛したい世界を愛するだけではなく、自分とは異なる考えも愛する事を意味する。それは、キリストが、仲間の為だけでなく、敵の為にも十字架に掛かられた事からも明らかとなる。