2017年4月16日主日礼拝
主 日 礼 拝 午前10:30
【イースター合同礼拝・聖餐式・入会式・任職式】
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 マルコによる福音書11章9節b~10節
* 讃 詠 (21)83
* 罪の告白と赦し 交読詩編16編7節~11節
* 讃美歌 (21)352(1ー2)
<神の言葉>
聖 書 ダニエル書7章13節~14節(旧約P.1393)
マタイによる福音書28章16節~20節(新約P.58)
祈 り
* 讃美歌 (21)333(1ー2)
説 教 「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」
三 輪 地 塩
<神への応答>
* 讃美歌 (21)575
* 日本キリスト教会 信仰の告白 * 入会式 〈鈴木恵子)
* 日曜学校教師任職式 (岩本道子)
* 讃美歌 (21)98
* 聖餐式
* 讃美歌 (21)79
公告
* 献金感謝 (21)328 クワイア
* 主の祈り
* 頌 栄 (21)46
* 派遣と祝福
* 後 奏
聖餐補佐 増田、三浦、松谷、安井
<2016年12月4日の説教から>【世に向かって公然と】
<12月4日の説教から>
『世に向かって公然と』
ヨハネによる福音書18章19節~24節
牧師 三輪地塩
大祭司邸宅に連行されて尋問を受けている主イエスの場面である。夜、薄暗い中でこの尋問が行われている。ヨハネ福音書は、光と闇一つのテーマとして語っており、光は神の栄光を、闇は罪と悪を表している。この時の尋問は薄暗い密室で行われたこと、つまり「罪」と「悪」とが示唆されている。
イエスは大祭司から「弟子のこと」と「教えについて」を質問されている。「弟子」「教え」についての尋問は、この当時「異端審問」が行われる際の質問と同じであり、ここでイエスは異端審問(宗教裁判)を受けていたことが分かる。実際に審問しているのは隠退した元大祭司アンナスであり正式な役職にはない。つまり非公開で行われた、非公式な裁判に過ぎない。
イエスはこの場で堂々としている様子が伺える。逃げも隠れもせず、公然と世に向かって語ったのである。マタイによる福音書の5章14節以下には、次のような言葉がある。
「あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなた方がたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
イエスが公然と語ったように、弟子たちに対し、公然と語りなさいとイエスは勧める。我々は、主の御言葉によって生き、生かされる者たちであるから、主イエスによる永遠の命の内に生きる者は、隠れる必要がないし、隠される必要もない、と聖書は語るのである。
2017年4月9日~15日今週の集会
2017年4月9日主日礼拝
主 日 礼 拝 午前 10:30
【受難週・棕櫚の主日】
奏楽 三 輪 志 都
<神の招き>
招 詞 マルコによる福音書11章9節b~10節
*讃 詠 (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編102編16節~29節
*讃美歌 (21)7(1~2)
<神の言葉>
聖書 ヨブ記33章8節~18節 (旧約P.818)
マタイによる福音書27章15節~26節(新約P.66)
祷り 安井國雄
*讃美歌 (21)313
説教 「あの正しい人に関係しないでください」
三 輪 地 塩
<神への対応>
*讃美歌 (21)306
*ニカイア信条
公告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄 (21)46
*派遣と祝福
*後 奏
<2016年11月27日の説教から>【あなたも弟子の一人ではありませんか】
<2016年11月27日の説教から>
『あなたも弟子の一人ではありませんか』
ヨハネによる福音書18章15節~18節
牧師 三輪地塩
東洋医学では「未病」と呼ばれる状態がある。西洋医学の{疾病」に限りなく
近い状態でありながら、一応健康を保っている「病気に近い健康状態」ということだそうだ。これは「罪」の次元においても似ている。
ペトロは命を捨ててでも付き従っていきます、と主イエスに宣言した。しかしそう豪語しながら、あっさり「違う」と、イエスとの関係を捨てたのであった。
四つの福音書のどれもがこの「ペテロの拒否」のエピソードを伝えているが、特にヨハネ福音書は独特な形式をとっている。話が一旦途切れているのである。
私たちにとって信仰とは、いつも直接法で語られ、自らの主体性の中で自分の告白として言い表すものである。しかしペテロが主を否み「違う」と言ったその瞬間、彼は主イエスにしたがう主体者ではなく、客体者(傍観者)になったといえる。彼は主イエスの痛みを、自分の痛みとして受けるつもりで大祭司邸宅に入ったのだが、彼はイエスとの関係を「違う」と否定した。彼は無自覚に主を否定したであろうが、罪において「病」に罹ったのである。キェルケゴールが「死に至る病」と言った我々の罪。この罪が死に至る病であるならば、無自覚に罪に生きていたペテロは大祭司邸に入ったとき既に「罪の未病」(未罪)の状態であり、「違う」と否定した時、いよいよ「死に至る病」の状態になったと言える。
ヨハネ福音書が、18節で場面を転換し、その後、鶏が鳴くまで「暫しの猶予」を与えているのは、「立ち返れ」というメッセージが込められているからだろう。つまり、我々もまた「未病」の状態であり、いつどちらに転ぶか分からない状態であるからだ。我々は、主に従うのか、あるいはそのように告白しながら傍観者となるのか。その瀬戸際を歩む「未病の民」であり、「未罪の民」である。クオ・ヴァディス「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13章36節)というペテロの言葉は、私たちは主と共にどこに行こうとしているのかが示される言葉でもある。イエスが度々語られたのは、十字架のない信仰、十字架を飛び越えた救いの無益さ、であった。我々は、今一度、この時ペテロに与えられた状況を、自らのものとして受け止めたいのである。