2020.3.1 週報掲載の説教

<2019年6月2日説教から>

『イエスの復活』
マルコによる福音書16章1節~8節

牧師 三輪地塩

イエスの十字架を見届けた3人の女性たちは、夜が明けてすぐにイエスの墓へと向かった。墓の入り口を塞いでいたのは「非常に大きい」石であった。彼女たちが墓に着くと石は既に転がされており、「入口」が開けられていたと述べられる。「入口」と訳される「スュラス」というギリシャ語は、本来は、「門」「扉」の意味であり「出口」とも訳される。彼女たちは、墓の中に一人の若者がいるのを見つけた。彼は「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、 あの方は復活なさって、ここにはおられない」(6節)と伝えた。考えてみると、復活の主イエスは、必ずしも出入り口は必要ではない。ヨハネ福音書には、家の戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たち真ん中に復活の主が現れるという話があるように、復活のイエスは既に出入り口を超越した存在であった。

だがこれは「我々にとって」必要なことだった。出口が開かれたことに象徴されるのは、墓を遮る石が取り除かれていることが、目に見えるメッセージとして必要だったことにある。

あの朝、墓の「出口」が開かれた。墓の「入口」を開くことなら我々人間の力でも可能かもしれない。3人の女性たちも、大勢の協力者を呼んで来て人手を確保すれば簡単だったかもしれない。墓の入口を確保することはわけもなく出来るのだ。

だが「墓が出口となる」ことは人で云々の問題を超えてしまう。なぜなら「死から出てくる」ことは人間に不可能だからだ。

この出来事が我々に伝えるのは、復活のキリストは、「死からの出口」を開かれた、というメッセージがここにある。もはや人は死の中に閉じこめられる存在ではなったことを示唆するように、我々に目に見える形で、墓の石が転がされていたのである。我々は、人生を過ごす中で様々な苦難に出会う。良いことばかりではなく、挫折も経験する。恐れを感じ、失敗を怖がる。我々はいつも限界の中にいることを知っている。

だがあの朝、3人の女性たちは「出口」を見た。開かれた墓の出口。開かれた死の出口。開かれた救いの出口。まさにあの朝、3人の女性たちが目にしたのは、この出口が確かに開かれたという事実、キリストによって我々の閉じられた命が開かれた、という事実の示しであった。死の出口は開かれたのだ。