2017.06.11~17 今週の集会

今 週 の 集 会
 
 祈祷題「避難訓練のため」6月18日
 
 〇浦和教職者会(教団 浦和東教会)12日(月)10:00
 
 〇聖書の学びと祈り     15日(木)10:00
   列王記上7章(担当 三輪地塩)  司会 森崎千恵
 
 聖書の学びと祈り     15日(木)14:00
   使徒言行録9章1節~19節     担当 安井國雄

2017.02.12の説教から

<2017年2月12日の説教から>
『その骨は一つも砕かれない』
ヨハネによる福音書19章31節~37節
   牧師  三輪地塩
 
 十字架上で脇腹を槍で突かれたイエスの体から「血と水とが流れ出た」と聖書は伝える。大変興味深く不思議な箇所である。
 水と血の「霊による一致」は、それらに分かち難い繫がりを信じ、告白することであり、ここにキリスト教信仰の重要な点を見出すものである。日キの引退牧師である
蓮見和夫は、その著書『ヨハネによる福音書』の中で、次のように語る。
 「私は若い頃、浄土真宗に出会い、「キリストにしようか親鸞にしようか」というところまでゆきました。その時、一つの大きな経験をし、キリストの十字架が目の前に現れ、(所謂回心の経験をしました)。今思うと、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われるということでは、満足できなかったのでしょう。阿弥陀仏は、理想の仏で、地上に受肉していません。それゆえ、十字架にかかりもしません。そこには、神が血を流すまで闘い、苦悩することはありません。それなら、人間は安易になって、救いがあるからと言って、罪を犯すかもしれません。神は救いの重大さと、私たちの罪の大きさを知らせるために、御子を十字架につけ、その血のあがないによって、救われるようになさったのです」
 
 十字架の上から流れ出た血は、我々の「罪の血」であり、水は「罪の赦しの徴」である。だが同時に、槍で突いた兵士こそが我々自身、つまり「罪を犯した側に立つ我々そのものだ」という事でもある。十字架上で流された「血」と「水」は、この完全なる犠牲の子羊として捧げられたキリストの血を証し、洗礼による赦しの約束を示している。

2017.06.11 主日礼拝

             主日礼拝  午前  10:30
                          奏楽  板 垣 玲 子
<神の招き>
 招 詞  マラキ書3章1節
*讃 詠  (21)83
*罪の告白と赦し  交読詩編51編12節~19節
*讃美歌  (21)12(1~2)
<神の言葉>
 聖 書  詩編116編1節~7節(旧約P.956)
       フィリピの信徒への手紙1章27節~30節(新約P.362)
  祈 り                          森 崎 千 恵
*讃美歌  (21)566
 説 教  「キリストののために苦しむ恵み」
                     三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌  (21)529
*ニカイア信条
 公告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
*後奏

2017.06.04~06.10 今週の集会

             
          今 週 の 集 会

祈祷題  「家庭集会のため」「伝道所を覚えて」
聖書の学びと祈り           8日(木)10:00
  列王記上6章(担当 三輪地塩)  司会 室橋 明子
聖書の学びと祈り           8日(木)14:00
  ホセア書8章              担当 岡野 庸子

東京中会神学講座のお知らせ

       
       東京中会神学講座のお知らせ
*7月3日(月) 19:00~20:30 鶴見教会
  テーマ:旧約聖書:諸書  
               講師:三好明(志木北伝道所)

*7月4日(火)  19:00~20:30 鶴見教会
  テーマ:教理・聖霊論
               講師:有賀文彦(大垣教会)

2017.02.05の説教から

              <2017年.2月.5日の説教から>
               『「渇く」 「成し遂げられた」』
            ヨハネによる福音書19章28節~30節
                                    牧 師   三 輪 地 塩
 「成し遂げられた」とイエスは言う。このギリシャ語「テテレスタイ」の名詞形は
「テロス」である。「テロス」は「終わり」「目的」という意味を併せ持つ単語である。
 
 イエスは地上の生涯を「終えた」のであるが、むしろ我々は「終わりによって始まったこと」を読み解かなければならない。「テロス(テテレスタイ)」とイエスが語る時、第一に、「人間的な事柄の全ての終わり」が意味される。死が人間の生涯を終わらせるように、この世の可能性が終ったことが示される。十字架において、人間は弱い存在として、暴力と痛みと苦しみの中で「終わる」のである。
 
 だが一方で「テロス(テテレスタイ)」には「目的が果たされる」という意味もある。
「終わり」は神の視点から見ると「目的の成就であり、終わりではない」。つまり「目的が果たされる」という意味もある。「終わり」は神の視点から見ると「目的の成就であり、終わりではない」。つまり「人間の可能性」の観点からは終わりを告げるが、神の観点からは終わっておらず、ここから「神の確かな命の開始」が告げられるのである。それが十字架である。
 我々は歴史の中を歩んでいる。歴史は、人間がこの世に生を受けてから死ぬまでの間に「何があったか」「何を成し遂げたか」が記録されるのである。だがどんなに偉大なことをした偉人、有名人、時の権力者であったとしても、人の命には限りがあり、時間と空間の制約を受けた中で、私たちはその命の終焉を迎える。これが肉の限界である。
人間の命、人間の歴史というものは、命から死へ、誕生から死に向かうプロセスを通って、紡がれていく。
 だが、キリストの十字架において起こった事柄は、「死から命へと移っていく」という、歴史の倫理の逆転が起こっている。それがイエスの言葉「テロス(テテレスタイ)」に示されている。我々は、この世の常識、「命から死へ」という順序から、「死から命へ」という神の新しい順序へ開かれている。それは我々の常識的な時間や空間、歴史の秩序を無視した展開である。神学者の深井智朗は次のように言う。「すべてが終わった後に始まったこと、これが福音の論理である。つまり人間のあらゆる可能性が終わり、そこから神の可能性が始まるところに説教者と会衆は立っているのである。」と。