『ペトロの説教』

<5月30日の説教から>
 使徒言行録2章14節-36節
   牧師 三輪地塩
 このペトロの説教は私たちに、週毎の礼拝式順序を思い起こさせます。勿論意図して書かれたわけではありませんが、人が神に招かれ、罪を自覚し、御言葉に慰められてキリスト者になるということは、このようなプロセスを辿るのだと暗示されているかのようです。つまり私たちの礼拝式というのは、単に儀式的な順序、セレモニーとして整えられただけの順序なのではなく、私たちが救いに導かれるプロセスがこの1時間という小さな時間の中に込められている、ということです。この礼拝の中で語られた御言葉を、私たちが自分の事柄として受け止め、自分が悔い改めへと導かれるための糧として、自らのものにする作業こそが、礼拝への参加であり、御言葉に、又説教に聞く、ということなのではないでしょうか。
 語る者は真剣に語り、それと同時に、聞く者が全身全霊を傾けて聞く者でなければ、説教は神の御言葉としての御言葉性を失ってしまいます。礼拝は出席することそれ自体に意味があるというより、むしろ、その中から自らへ問い掛けられた言葉を捜す作業です。神様の招きの意味を礼拝の中から見出すのです。聖書の中に、説教の中に、讃美歌の中に、祈りの中に、オルガンの奏楽の中に、礼拝の奉仕や、招きの言葉の中にでさえも、神様を見出すことが出来たならば、それがあなたへの御言葉です。だからこそ説教者同様、礼拝者も御言葉の解釈者であると言えるのです。耳を澄まして、目を凝らして、神様があなたに今日語る言葉を、自らの心で、自らの信仰で、聞こうではありませんか。