『キリストの名によって立ち上がりなさい』 使徒言行録3章1節10節 2010年6月13日

浦和教会主日礼拝説教  使徒言行録3章1節10節 2010年6月13日
『キリストの名によって立ち上がりなさい』

「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿にのぼって行った」とあるように、熱心に祈りを献げる様子が描かれています。当時のユダヤで、祈りの時は1日に3回あり、その内、夕刻の祈りと献げ物の時間が午後3時に行なわれたと言います。ペトロとヨハネは、信仰深い他のユダヤ人と同じく、神殿での祈りを捧げるためにここに来ていたのであります。

 そこへ生まれつき足の不自由な男性が物乞いをするために運ばれてきました。ここに書かれている言葉から、彼の人生と、その苦しみ全てを知ることは出来ません。どこで生まれ育ったのか、今何歳ぐらいなのか、親兄弟などはいるのか、などの詳細な情報は、この箇所から読み取ることは出来ません。しかし2節で「生まれながら足の不自由な男が『運ばれてきた』」とあるように、彼は誰かに「運ばれてきた」のです。親・兄弟たちが、物乞いをさせるために神殿に連れてくる、という事はありえないと思いますから、おそらく友人・知人たちがこの場に運んできたのだろうと思います。毎日定期的になのか、イレギュラーになのか分りませんけれども、とにかく彼はこのとき神殿の敷地内で物乞いをするために来たのです。

 そこにペトロとヨハネの二人が通りかかりました。彼らは神殿での祈りのためにここに偶然居合わせたのです。足の不自由なこの人は、ペトロたちに施しを乞いました。おそらく金銭を要求したのでしょう。今私はお腹がすいています、食べる物がありません、お金を下さい、というようなことを言ったのでしょう。ペトロたちは彼をじっと見つめます。何かもらえる、という期待が膨らみました。しかし彼らの答えは意表を突くものでした。「わたしには金や銀は無いが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。そして今日は、この言葉に思いをよせてみたいと思うのです。

 現在の私たちは、生まれつきの体の不具は、生物学的、又遺伝子的な因果の下で理解されることが多いわけですが、使徒言行録の時代、肉体的な不自由は、その人自身の罪、もしくはその人の祖先の罪が原因とされておりました。また生まれつきの障碍であれば、神の呪いと考えることもありました。そのため人々はこれを自業自得として片付けておりました。ユダヤ社会はその人に対して、福祉的な手を差し伸べることも、医療介護の手を差し伸べることも皆無であり、彼は毎日を物乞いという形で過ごすことを余儀なくされたのであります。
 
 私たちは、このような彼の不幸な人生に対して同情の念を覚えずにはおれません。けれども彼が最も不幸であるのは、その生き方の繰り返しの中に自分の人生を据えざるをえなかったということ、言い換えるならば、この生き方以外に可能性を見出せず、それに縛られ、そのサイクルに飲み込まれている、ということなのです。彼の人生は、その場しのぎの日々の糧を他者から受け、裕福な者たちの食卓から落ちる僅かなパン屑で生きる以外に、彼の命を生き永らえさせる頼るものは何も無かったのです。足が不自由なことも、物乞いをすることも、それ自体が不幸の全てではないのです。むしろ彼から、人間の尊厳が取り払われ、誇りを持って、希望を持って生きること自体が毟り取られているという事実が、彼の不幸であるのです。創世記1章27節には、神様が人間をご自分の似姿としてお造りになった、と書かれていますが、その神の似姿としての尊厳は、ここにはありません。あるのは、日々をどう生活しようかということ、目先の事だけがいつも問題にされるのです。またそれに慣れてしまっている生き方が「強いられている」ということなのです。

 彼はペトロとヨハネに金銭を乞いました。その日の糧を得るため、そして、あわよくば明日以降の必要分までを調達することを願って、金銭を要求したのです。しかし彼は、金銭を受けませんでした。勿論ペトロたちはお金をあまり持っていなかった、という事もあるでしょうけれども、しかしキリストにあって生きる共同体が行なうべき事は、一時しのぎのささやかな金銭的利益を与えることや、慈善事業を行なうことではなく、第一義的な務めがあるのだ、ということを示しているのです。それこそがキリストの御名によって救いを語ることであります。

 このことを読み取り私たちの教会を省みますとき、キリストにある共同体である教会は、苦しむ人々に対して何を行なうことが出来るのか。言い換えるならば、私たち人間が、苦しむ人々に対して何をして差し上げることが出来るのだろうかと、そのことを痛みと共に考えさせられるのであります。

 私事で恐縮なのですが、この教会に赴任し、1ヶ月半が過ぎましたが、この短期間の中で、金銭を乞いに来た人が実に6人もおりました。これは以前と比べて速いペースであると聞きます。おそらく景気の低迷や、雇用の減少などがその原因にあるのでしょう。とにかく金銭を乞いに来た人とお話しをしていていつも思いますのは、自分の無力さ、であります。この人を助けて上げたい。本当にそう思うのです。しかしこの人たちの生活を整え、仕事を探し、助け合う家族を探してあげるだけの、労力と、資金を、この人たちに費やすことの出来ない自分の無力さをいつも感じさせられるのです。今この場所で、その場しのぎのお金を差し出すことは、彼ら彼女らの救いにどう繋がるのか。むしろそうやって生きることに慣れ、それを良しとする道へと導いてしまう線を引くことになりはしないだろうか。その葛藤と悩みにいつも苛まれ、一人の人間としての無力さと悲惨さを感じさせられるのです。レ・ミゼラブルの中に出てくる、ジャン・ヴァルジャンのように、一瞬のうちに改心し、生活が一新されてしまう、あの劇的な出来事は、現実的には一つの物語でしかないと、その度に思わされてしまうのです。


 この箇所の、足の不自由な彼の物乞いの姿を見ますとき、彼の悲惨な状況に思いや同情が集まるかもしれません。しかしこの彼の姿を通して、この彼を鏡に映し返すようにして見えてくるのは、この人を救うことすら出来ない、自分の無力さであり、悲惨さなのです。その一人の人間としての小ささに気付かされるのであります。

 この一人の足の不自由な彼を見て、「この人は
救われるのだろうか」という問いと共に、「あなたはこの一人の人間を救うことが出来るのか」「あなたにこれを救う力はあるのか」という事を問われるのです。そして私たちは気付くのです。「このたった一人の苦しむ人間を救うことすら私には出来ないのだ」と。それが人間の現実なのだ。あなたの力の現実なのだと、私の無力さと、はかなさを主に突きつけられる痛みを帯びるのであります。

 しかし、これに対する今日与えられた聖書の答えは驚くべきものであります。聖書はペトロの口を通して神の示す道を語ります。つまり「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。この言葉によって足の動かない人の足を動かし、くるぶしを固定し、飛び跳ねて踊り上がるまでに回復した、というのです。この回復の出来事は、私たちの固執する思いを変化させ、そこから解き放つものとなります。「わたしたちに金や銀はないが」とペトロは語ります。この言葉が、実は私たちにとって重要なのです。
 
 この物乞いの彼は、実は用意周到に物乞いを行なっています。自分の足では動くことが出来ないから、人の助けを借りつつその場所に行きます。そして人が沢山集まる神殿の境内を選んで効率の良い物乞いを行なうのです。しかも午後3時という時間を見計らって、献げ物をしようとする人たちから、それを得ようとしていたのです。神殿に集まる人たちですから、信仰深い人たちが集まるでしょう。旧約の律法には、貧しい人への施しの一文が明記されております。信仰深い人の中には、知らぬ存ぜぬといかない人もいたでしょう。その人たちの同情を買って、その日の糧を得ようと、そう思って境内を選んだのではないかと思うのです。
 しかし彼を非難してこう言っているのではありません。むしろ彼の逼迫した生活や、止むに止まれぬ苦労、人知れず涙を流した日々を考えますならば、彼がたまたま生まれつき足が悪かったというだけで、なぜこのような苦しみを強いられるかと、このこと自体に不公平があると感じますし、なぜ神様はこのような苦しみの中に彼を選び、彼の心と体を蝕む人生をお与えになったのか、という疑問はつきません。ですから、この用意周到な物乞いのスタイルは、彼の境遇からするならば、当然の事であると思うのです。もし私たちが彼の境遇にあっても、同じように、物乞いに適した場所と効率の良い時間帯を選んでこのようにすると思うのです。だから彼を非難してはならない。

 しかし聖書は、彼の思いの全てが「金銭を得る」という事のみに集中していることを指摘するのです。彼はそれ以外に自分が幸福になる道を見失っていた。目の前のパン、目の前の蓄えに対して固執し、その呪縛から解かれることの無い、鎖で繋がれた囚人のように、彼の心は、目の前の現実のみを見つめていたのであります。物乞いによって得る金銭のみが、自分を幸福にすると信じ、それ以外では自分を幸福にし得ないと思っていたのでしょう。それと同時に、この人を救いたいと思う全ての人にとっても同じ事が言えます。この人を救うためには、「金銭を与える」こと以外にないと信じていた私たちも、その固執した思いから解き放たれるのです。自分の無力さを思い知らされていた人に、自分の無力はこの固執した思いの中にこそあるのだと気付かせ、神はそこから解き放つのです。

 聖書は、彼の思いを向き直らせます。本当に与えられるべきものに向って、彼は思いを向き直らせるのです。’「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」‘。この言葉によって、彼は歩き出したと言います。日々の生活を繰り返すだけに心を奪われていた彼に与えられたのは、しっかりとした「足」であったのです。彼は歩けないことによって、本来の彼の生きる意味を失っていました。彼は歩けないことによって、本来彼が持つべき人間の尊厳と、神への感謝を失っていたのです。しかし今やそれが回復された。彼は物乞いから、神を讃美する者へと変えられたのです。これが主イエス・キリストの名によって与えられる福音の力である、と聖書は語るのです。

 私たちはこの話を聞きますとき、足が治るという奇跡それ自体に目が奪われてしまいます。ともすれば「信仰を持つと奇跡が起こる」と、その事柄を直接的に考えてしまうかもしれません。もちろん信仰によって奇跡が与えられます。それは間違いありません。それを信じて生きるならば、その人に本当に奇跡が与えられるでしょう。しかしそれは、私たちの望むことと違うことが起こる奇跡かもしれません。足の萎えた彼の願いは「金銭を得ること」でありました。しかし神様は「肉体の回復」をお与えになったのです。その意味では、彼の望む直接的な願いは適わなかったと言えるのかもしれません。けれども彼にとって最も必要な回復が与えられたのです。そして聖書はこれが神様の奇跡である、と述べるのです。私たちの願いはいつも利己的です。エゴイスティックなのです。自分の望みと願いのみを神に乞うのです。しかし神はいつも私たちに、もっとも必要な状況をお与えになります。そしてそれを信じることから、神の奇跡が始まるのです。「ナザレの人イエス・キリストの何よって立ち上がり、歩きなさい」。この言葉は、足の萎えた人と、それに携わる私たち全てに与えられた、凝り固まった私たちの思いを解き放つ救いの言葉となるのです。