聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記13章1節-18節

創世記13章1節-18節  2010年7月29日
 エジプトでの出来事を経てアブラハム一向は、カナンに向って帰る事になりました。2節に「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」とありますが、これは恐らくエジプトで与えられえた財産の事を言っていると思われます。決して喜ばしい形で得た財産ではないにせよ、飢饉の中を生き延び、その後の生活を支えるに十分な必要な物を手にした彼らは、結果的に裕福な豪族の一人としてカナンに戻ることとなったわけです。
 ネゲブ地方からベテル、ベテルとアイ、という地名は、彼らが12章で辿った道筋を逆から辿っていることになります。彼らはもう一度この約束の地での生活に戻ることが示されているのでしょう。
 甥のロトもアブラハムたちと共に行動を共にしていたので恐らくは財産の分与を受け、かなりの物を持っていたと思われます。当時の財産というのは、ご承知の通り、家畜の数によって表されます。金や銀というのも確かに財産なのですけれども、定住しない遊牧民族は商品の取引によって生計を立てているわけではありませんから、実質的に自分の生命維持に繋がるものとして家畜が財産とされたのです。日本において牧畜というのは、ご存知の通り、近代酪農業のシステムですから、狭い牛舎や豚舎に囲って、食料を整えて毎日世話を欠かさずして育てていく、という形態をとっております。つまり広さが必要ではなく、ある一部分の土地があればそれで十分なわけです。しかし当時は放牧によって飼育する方法がとられていましたから、家畜の食料としての草が生えているだだっ広い草原が必要になってきます。家畜の頭数が増えれば増えるほどその面積の必要になりますから、誰が越えた土地を使うか、草の生い茂った場所を確保するか、という諍いが起こったことは容易に想像できます。また、水の確保という問題もあります。カナンの荒れ野においては井戸水が主流でありますが、これも日本の井戸と違い、いつも水が湧き出るわけではありません。一旦汲み上げると、水が枯れてまた溜まるまでに一昼夜、時には1週間近く待たねばならないといった井戸ですから、誰が先に汲むかは大問題で、これもまた争奪戦になるということです。
 これがアブラハムとロトとの諍いの原因でありました。人間は財産を得る為に一生懸命に働き裕福に生きることを目標にするのでしょうけれども、しかし「財産が多すぎたから、一緒に住むことが出来なかった」という6節の言葉は、人間の罪がもたらす皮肉を言い表しているものと言えるでしょう。
 アブラハムとロトが問題を回避しても、雇用人たちが争いを起こし、問題となったため8節でアブラハムは言います。「私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか」。このような提案をし、彼らは別れて生きることを選択したのです。
 バベルの塔での物語りでは、一緒に生きる事によって罪を犯すことがあれば、主は別々に生きる選択をお与えになるということがありました。それは別々という一見ネガティブな選択でありながら、ここに神の恵みがある、ということです。使徒言行録15章では使徒会議が行なわれたことが書かれていますが、ここにはアンテオケ教会のパウロと、エルサレム教会の主の兄弟ヤコブが別々の宣教の歩みを行なうことに合意したことが記されています。このように別れて生きることが主の御心であることがありますが、この時のアブラハムたちも恐らく諍いを起こすことはお互いにとって得策ではないと見て、踏み切った計画であっただろうと思います。
 しかし問題は誰がどこに行くか、という問題です。普通ならばアブラハムは年長者ですし、ロトがこれだけの財を成したのも彼のおかげなわけですから、アブラハムに選択権が合ってよいはずです。しかしアブラハムは、お前が好きな土地を選びなさい、私たちは逆の方へ行こう、と言ったのです。
 小泉達人氏はこの箇所に関して次のように言っています。「現在私たちは若者の事をドライだとか新人類だとか言って珍しがりますが、若者がドライであることはアブラハムの昔からだ、と聖書は語ります。ロトが私の今日あるのは伯父さんのおかげです。伯父さんがまずお好きな土地をお選び下さい、といえば美しい物語となり、その人柄が偲ばれることとなったでしょうが、ロトはそう言いませんでした。ヨルダンの低地、その青々と草が茂った土地をためらいもなく選び取って、さっさと移って行きました。」(小泉達人著「創世記講解説教」新教出版 88頁)
 結果的にこれがソドムとゴモラの滅亡の出来事の布石となっていくのですが、ここで注目すべきことは、ロトの選択とアブラハムの選択の決定的な違い、ということでありましょう。10節にあるように、ヨルダン川流域の低地一帯は、「主の園のように~見渡す限り良く潤っていた」ということです。これが人間的な判断の結果であるというのです。低地ということは、ほどよく川が氾濫し、上流からの良い土が運ばれて肥えた土地となったことが予想されます。そのように目に見えて素晴らしい場所は私たち人間の目には、本当に良く映ります。しかし結果的にそこは目に見えない審きの場所、罪の場所であったというのです。つまりその判断は空虚なものであった、という事が出来ると思います。ロトの判断の中に、主は居られたのでしょうか。ロトは恐らく神なしでこれを選択し、神の判断を考慮せずに自分の判断で土地を選んだということなのではないでしょうか。
 ではアブラハムはどうだったのでしょうか。ここで彼は選んでいません。残った物をただ受け取っているだけであります。ここに広がるのは単なる荒地であったかもしれません。ヨルダン川流域の肥えた土地は、食物も豊富で、草木も生い茂る最高の場所です。しかしその後ろを眺めてみると、ゴツゴツした石に囲まれた小高い岩場が広がります。これのどちらが幸福な人生を歩むことが出来るのか、というのは、人間の目から明らかであります。つまりロトの方が有利で、ロトの方が祝福されている、それが私たちの目に明らかな幸福の姿でありましょう。
 しかし14節で主は言われます。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。この「さあ、目を上げて」という言葉に注目したいのです。炉とは最
初から目を上げて昂然と将来を見渡したのに比べて、アブラハムは「目を上げよ」と言われるまで上げることが出来なかったのです。彼がこの時何を考え、どのような将来を見据えていたのかは分かりません。老年期に差し掛かっていたことを鑑みて、自分の将来よりも若いロトのことを思って最初に選ばせたのかもしれません。しかし結果として与えられた場所はあまりにも不毛な大地で、ここに夢や希望があふれ出る、と言った場所ではなかったのです。そのため彼は目を上げることが出来なかったのではないかと思うのです。
 しかし「ここから見渡せ」と主は言われます。7節に「カナン人もペリジ人も住んでいた」とあるように、敵対する者たちが住む、この不毛な山地でどう過ごせばよいのか、その事に悩んでいる姿が想像できます。敵に囲まれ細々と暮らすことを覚悟しているアブラハム。自分の将来の繁栄ではなく、むしろ少しずつ衰退していくであろうとことを予測し、覚悟を持って目を伏せているアブラハムがここにいたのではないかと思います。
 しかし主は「目を上げて」と言うのです。「見える限りの土地を全て私は永久にあなたと私の子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。」このような約束をなさるのです。子孫が増えることは、当時の価値観で最も祝福を受けることを意味します。それがアブラハムに与えられた約束の言葉であったわけです。あなたは目を上げて、立って歩きなさい。地にかがみこんではならない。下を見て思いにふけるのではなく、小さくなってもいけない。その与えられた地を縦横無尽に行き巡れ。主の約束が確かであることを、目で見て承知するだけでなく、その足で踏んで確認せよ。このように主は仰るのです。
 しかしこの話しがいう事は、結果的にアブラハムには「残り物には福があった」ということではありません。そうではなく、「アブラハムは選んでいないが、しかし神がアブラハムを選んでいる」ということなのです。「ロトは人間の思いから選び、アブラハムは神の思いから選ばれている」ということです。
 言い換えるならば、アブラハムはこの時、選びの確信を得ることが出来たのであります。つまり目に見える自分の状況や環境によって一喜一憂する人生ではなく、神さまが与え給うた土地は、如何なるものであっても私にとってそれは最善のものである、という確信に導かれたのであります。与えれらたものは、苦しさと困難さであったかもしれない。目の前に広がるのは不毛な大地であるかもしれなし。決して乳と蜜は流れ出ず、草木一本すらままならない状況であるかも知れない。しかし目を上げよ。あなたの前には私の約束がある。このことを聖書は語るのです。
 
 アブラハムの信仰は、私たちの信仰のモデルです。私たちは祈りの中で、良い土地が与えられることを願うわけですが、しかし神への信仰がもたらす最も大きな力は、良い土地が与えられることではなく、不毛の土地でさえも、それが神の与え給うた約束の土地であると信じ、確信を持って生きる力に変えられる、ということであります。
 渡辺信夫は次のように言います。「神は今日も私たちに言っておられます。目を上げよ。あなたの貧しく醜い現実、あなたがたの教会の狭さ。小ささ、不毛、無力・・。それが全てではないのだ。いや、それらに目を落とすな。目を上げよ。キリストにおいてあなたに約束されているいっさいの恵みを見よ。あなたがたの希望の視野の広がりは永久にあなたがたへの恵みなのだと。私たちは、私たちのいるところからしか眺めることが出来ないのです。なぜなら私たちの現実は、そうやすやすと変えられるものではないからです。私たちは、依然として罪に取り巻かれています。私たちは今なお深く病んでいます。けれどもこのままでも、私たちは目を上げて、恩寵の大きさをあるがままに見渡すことが出来るのです。キリストの義、キリストの聖、キリストの主権、キリストの栄光は、私たちの目の前に、私たちの受け入れられるように、差し出されています。私たちは自らの敗北の現実に目を注がず、キリストの勝利の現実に目を注がねばなりません。」(渡辺信夫著「アブラハムの神」新教出版61頁)
 私たちは、主の選びに対して常に確信をもって歩むことが出来るようにと祈り求めたいものであります。