使徒言行録23章12節-35節 『ユダヤ人の陰謀』 2011年7月10日

 浦和教会主日礼拝説教 使徒言行録23章12節-35節 『ユダヤ人の陰謀』

 先週私たちは、「勇気を出せ、力強く証しせよ」と主がパウロに語りかけた励ましの言葉についてみたわけです。このような勇気の出ないとき、証しできないような心の萎えた状態にありながら、しかし神はこのような我々であるからこそ、勇気を出すことを宣言なさる。ということです。もっと進んで言うならば、神はどのような時においても勇気を出すに足る状況を与えてくださるという事が言えると思います。つまり単なる気休めの言葉として語られるのではなく、それが真実の言葉であるように神はご自分の手で、すべてを計画なさり、そのとおり行わしめるということであります。

 この勇気を出せという言葉は、今日の箇所にもかかってきているのですが、しかし12節では、おどろおどろしい内容から語り始められています。「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた」このような恐ろしい計画を企むところから始まるのです。しかもこの企みに加わった者は40人もいたと言います。このような彼らユダヤ人たちの行動を見ていますと、ユダヤ人という民族に対するイメージが、好戦的で、恐ろしく、手段を選ばないというような印象を受けると思います。しかしそれは少し事実とは異なるようです。

 つまりこの40人をメンバーとするグループは、秘密結社的集団で、シカリ派という政治的超過激派に属するメンバーであったと想定されるのだそうです。つまりすべてのユダヤ人がこのように怒りに燃え、計画的殺人を実行しようと企んでいたのではない、という事を彼らユダヤ人という民族に対するフォローとして入れなければなりません。

 しかしながら、ここでの事実は、パウロを亡き者にしてやろうという強い決意と、周到な準備が行われていた、ということであります。とにかく彼らがやろうとしていることは、パウロを消す、というこの一点のみでありました。このような極限の緊張状態の中で、さて神の約束「勇気を出せ、力強く証しせよ」という言葉が、本当に意味ある言葉となるのか否か。むしろ空しく響く現実とは程遠い偽りの言葉となるのか。そのことを考えつつ見ていきましょう。

 このパウロの様子は、あまりにも尋常ではありません。このような恐ろしいことは、私たちはめったに会うことはないと思います。しかしもっと卑近な問題に照らして考えてみますと、実際に起こり得ることでもあります。つまり意図して陰謀が企てられ、計画が組まれ、それを実行しようとする。そのようなことは、ことの大小こそあれ、意外と多くの場面で起こり得る事柄であります。

 このパウロ暗殺計画は、ある意味で人間の英知を結集した緻密な計画であると言えます。暗殺計画に英知を結集した、というのは不適当な表現かもしれませんが、しかし彼らは、物理的に自分に加担してくれる人を40名も集め、彼らはそこで固く誓いを立て、宗教的行為としてこれを正当化し、祭司長、長老たちに対してこれを実行する宣言し、そして標的を連れてくる裏工作を示し合わせておく、という用意周到でよく考えられた計画を立てていることは間違いありません。そういう意味でこの計画は人間の知恵を振り絞ったよくねりあげられた暗殺計画と考えることができるのです。

 しかし旧約聖書、箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」。このように書かれてあります。つまり「人間にはたくさんの計画や策略がある。しかし神の御心のみが実現する」という意味であります。人間の計画がどれだけ周到なものであっても、どれほど完璧なものであっても、神の御心がそこになければ、成し遂げることはないのだということであります。

 ここには40人の暗殺者が鼻息を荒くして待ち構えています。大祭司にも承認されました。長老たちも認めています。あとは実行に移すだけでありました。しかしそれは叶わなかったのであります。実現されなかったのです。結果的にパウロへの陰謀はローマ側に察知され、カイサリアに逃れることとなったのであります。これもまた箴言の21章31節を見てみますと、「戦いの日に馬が備えられるが、救いは主による」とあります。つまり「戦いの日のために戦う道具や武器を備えても、勝利させて下さるのは主である」ということです。ユダヤ人の陰謀は勝利しなかった。彼らがどのように用意周到に陰謀を企てたとしても、それは戦争の馬の備えをしただけであり、そこに勝利が伴うか否かは、主の御心によるのである、ということであります。
 
 結果的にパウロの姉妹の子供、つまりパウロの甥がユダヤ人の陰謀を察知し、ローマの兵営の中に入り、それを伝えたのです。パウロの肉親について語られている非常に珍しい箇所の一つなのですけれども、おそらく彼らはタルソスから引っ越してきて、ここエルサレムに住んでいたのであろうと思います。その甥が陰謀をローマに伝え、事なきを得たのでありました。この甥は、何歳ぐらいだったのでしょう。名前も出てきません。年齢も出てきません。これ以外の箇所に何か大きなことを行ったとも書かれていません。つまり歴史的には小さな働きなのです。人物としても取り立てて素晴らしいという事が出来ないほど情報の少ない人です。しかしこの小さな働きが、神の計画に参与していたということであります。

 私たちは、大きなことを成し遂げようという願望や、歴史に名を刻みたいというような願い駆られることがあるかもしれません。そしてその時自分に何が出来るだろうと考えたりすることもあるでしょう。しかしそれはあくまでも人間の思いから離れ得ない場所での願望であって、神の場所からの行動にはなりえないのです。大事を成したいという大きな野望を抱くことは大切かもしれませんが、しかし本当の意味で神の真実に参与するというのは、このパウロの甥のように、名も知れぬ小さな働きが、神の計画の中では重要な位置を占め、それがなければすべては繋がらなかったという非常に複雑で繊細な神の計画の一端を支えることになるのです。もちろんこの計画を支えるのは神です。一貫して揺るがぬ決意のもとで行われる神です。私たちが神の計画を変更することなどありえません。しかし「戦いの日のために、馬を備える、しかし勝利は主による」というのであれば、
戦いの日のために、主の勝利のための馬の備えでありたいと思うのです。人間には多くの計画がありますが、しかし主の御旨のための計画や行動でありたいと思うのです。それがどんなに小さな働きであっても、このパウロの甥のような名も知れぬところで行われる行為であっても、これが神の勝利の側の働きであるなら、なんと嬉しいことであるでしょうか。

 イザヤ書8章10節には「戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられるのだから」とあります。戦略を練っても挫折し、策略を決定しても実現しない。それは神が誰にとって、何にとってのインマヌエルであるのかによるのだ、ということであります。神は誰の側でもありません。異邦人の味方とか、ユダヤ人の味方、というのでもありません。そこに神の真実があるところに神が共にいまし給うのであります。
 
 しかしながら、これまでの話を真逆に考えることもまた必要なのであります。つまり勝利と神の御心、という問題であります。ともすれば、私たちは形の上で神の勝利が実現した側に神がおられたと考えることが多いかもしれません。「勝利」。それは人間のとって非常に魅力的であります。勝利したものには発言権が与えられ、敗北したものに対する処分の決定権も与えられる。神の名の下では、勝利は神がおられたからという根拠にもなり、敗北したのは、神が見捨てたからだと考える。そのようなことが多いと思うのです。

 しかしそうだとするならば、人間の行為が神の御心になり、神の御心が強者の論理の中にあることになります。勝つ者は、得てして物質的にも、人的にも、能力的にも有利であり、経済的な優位に立つ者であることが多い。だから勝つ。しかし私たちは、勝つから神の御心があるのではなく、神の御心があった方が結果的に勝つことがある、という論理で考えねばならないのです。

 つまりこういう事です。たとえば、ビンラディンは殺されました。しかしそれはアメリカに神がついていたからなのであろうか。アメリカがここ10年来行ってきたことは、神の名によって正当化されるのであろうか。もちろんテロリズムは正当化されません。しかし一人のテロ首謀者を暗殺するために何千人という民間人の犠牲者が出たことは、神の名に正しいことなのでしょうか。そうではないと思うのです。物的にも、人的にも、技術的にも勝っていたからアメリカはこの首謀者を暗殺できたのであります。

 そうであるならば、勝利者の側に神がおられるというのは、必ずしも正しいこととは言えないのです。そのことを忘れてはなりません。むしろ今日の箇所から鑑みますならば、もしこのとき、パウロが暗殺されたとしても神はパウロの側におられた。パウロは死ぬまで神の側で、暗殺される陰謀の論理のもとに晒されつつ、神の御心を行おうとして、神の下で死んでいったということになりはしませんでしょうか。

 そんなおかしなことがあろうか、と思われる方もいるかもしれません。しかしインマヌエルと呼ばれたあの方は、最終的な勝利の仕方をいかなる形で成し遂げていったのでありましょうか。敵対者を駆逐し、ぐうの音もでないほどコテンパンにやっつけた結果、勝利がもたらされたのでしょうか。そうではありませんでした。イエス・キリストの勝利は「十字架」でした。あの痛々しく、苦しみ悶え、見るも無残な形をとって、神はキリストに復活という仕方で勝利を与えたのです。無残な死が、神の下で復活の命を以
て、この方こそがインマヌエル、神我らと共にいまし給うことを証言なされたのです。

 私たちはこのことを忘れてはなりません。あの神の勝利は物質的に勝った負けたという意味概念で受け取られるものではなく、神の中で敗北が勝利とされるというロジックの中で、行われるのです。パウロに与えられた「勇気を出せ」という神の約束は、この約束であったのです。つまりパウロは、決して命が助かることを求めていたのではなく、神の真実を伝えることの中にある命を求めていたのでありました。それが成就されるならば、たとえ肉体の死を伴っても構わない、という覚悟の下で、そしてそれでも尚も主は私を述べ伝えさせるために生かすに違いないという確信の中で、神に与えられた「勇気」を以て、彼はこの時を過ごしたのではないかと思うのです。
 ユダヤ人の陰謀という、私たちにとっては決定的悪としか思えない事柄を通してさえも、神は一人の信仰者を真の命に生かし、用い、歩ませ、力を与えるのであります。そうであるならば、同じく私たちも。このことを覚えたいと思うのです。

(日本キリスト教会 浦和教会主日礼拝説教)