聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー出エジプト記5章1節-23節 2011年9月22日

 出エジプト記5章1節-23節 2011年9月22日
この箇所はモーセとアロンのファラオに対する対決が記される(5:1-5)。
次にファラオは「追い使う者」と「下役」に命じて、ヘブライ人への労働を一層過酷なものにしている(5:6-9)。
同じ数量の煉瓦を、わらを支給せずに作れという。彼らはイスラエルの民にこの命令を実行させる(5:10-14)。
その結果イスラエルの下役たちがファラオのところへ行って、不当な労働に抗議する(5:15-16)。
しかしファラオはイスラエル人は怠け者であると言うのみで命令を撤回しなかった(5:17-18)。
下役たちは自分たちが苦境に立たされた事を悟り、モーセとアロンに抗議して自分たちの困窮を訴えた(5:21)。
モーセはこの抗議を主に訴えた(5:22-23)。
主は6:1でモーセに主の強い御手の力がファラオに向かって示されることを約束された。
そして7:1-11:10の10の災いが示される。
 モーセとアロンは民の批判を受けている。しかしこの時の会話を見てみると面白い事が分かる。ここでの会話をしているのは、ファラオ、民を追い使う者たち、イスラエル人の監督として立てられた下役たち、モーセとアロン、そして神である。しかしここでは民だけが沈黙している。彼らは語られ、問い掛けられはするが(5:10、13)、彼らは応答の言葉が用いられない。これらの直接話法が民の沈黙を囲い込み、5章12節はその真ん中に位置している。しかしこれによって逆に語り手は民の困窮と忍耐しなければならない苦難を如実に表しているのである。彼らは上の言うとおりに働く以外に自らの生きる道を持っていないのである。9節~21節には「アーバド」(使役する・仕える)という単語が7回も出てくる。これはいずれもファラオを対象としている。
 このことが示すのは、1:13-14の繰り返しを想起させ、更に迫害と重労働が厳しくなった(1章の)あの時を思い起こさせているのだろう。
 ファラオは労働条件を厳しくする。労働倫理もへったくれもない。彼らには更に働かせ、多くの苦役を強いて、労働時間を増やし、余計な事を考える暇を与えるな。自由を得たい、自分の信じる神を祭りたいという要望は、労働時間の激増と共に夢と潰えるのである。彼らには余裕を与えてはならぬ。下手な革命思想を植え付けられてはならぬ。福祉的な配慮などの無駄な行為に時間を奪われてはならぬ、とファラオは考えた。そしてそれは権力者の考えることでもあった。
 さらに抑圧する者たちは、下役になりたいものを抱き込んで被抑圧者を食い物にするという手法をとっている。実際下役と呼ばれる者たちは、同じイスラエル人の同胞でありながら、彼らに対して苦役を強いる側にもなっている。これらの下役たちは、仲間のヘブライ人たちに、こう告げている。「搾取の体制を受容することで自分たちの生活レベルを改善できるチャンスがある。それは抑圧者・権力者に力を貸し、その搾取システムの中の歯車となることである」と。下役たちは、「搾取体制に魂を売り、その体制に参加することで利益を得ている者たち」なのである。
a ではなぜ彼らがモーセとアロンに詰め寄ったかということが疑問になる。イスラエル人の苦役などどうでもよい、と言って無視することもできたはずなのにである。
 それは、彼らがより良い生産行為を行っていることが都合が良いからではなかろうか。たしかに彼らの訴えはイスラエル人の訴えを代弁していると捉えることも可能であろう。しかし彼らは一方で、ファラオに身を売っている身分である。そう考えるならば、彼らは問題なく生産することの中で、利益を享受する、つまり何事もなくイスラエル人が働いてくれることが何よりもの報酬を受け取ることの出来る状態となるからであった。
 マーティンルーサーキングはこう言っている。「ファラオたちは、彼らの奴隷たちを、虐待し続けるために、効果的でお気に入りの戦略を用いた。それは奴隷たち自身を互いに戦わせることだ。分裂させて支配する戦略は、抑圧と言う武器庫の中にある強力な武器であった。しかし奴隷たちが団結する時、歴史という紅海は開かれ奴隷制度と言うエジプトは崩れ去る。
 
 しかしここで注目したいのは、この下役たちも恐らく出エジプト(奴隷からの解放)
が与えられたということであろう。すなわち十字架の隣でイエスを罵倒したあの犯罪者のための十字架であり、イエスの服を分け合ったローマ人のための十字架であった、ということから分かるように、それが神の愛から生み出される解放であり、救いなのである。
事態は深刻さを増し、民の困窮は深まるが、しかしモーセはかつてのような行動を取らなくなるのだ。つまりあの時のモーセは、善意と直接的な行動のゆえにただちに挫折し、逃亡を余儀なくされたというあの行動にでていたのである。確かに彼は実直であった。しかし無鉄砲であった。善意はあったがそれがストレートすぎた。それは彼を挫折させたのである。我々もまた、直接的な善意者がその善意によって挫折することをみるであろう。しかし今や、あの時のモーセとは違うのだ。なぜなら彼は「ヘブライ人の神が私たちに出現された(5:3)」ことを知っているからであり、他でもなく彼自身の前に、神が現れたのであるから。彼の心が折れなかったのは、彼の召命体験によるのである。