マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』 (後半)

 マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』

≪前半からの続き≫
 しかしこのような人間の思いは主イエスの時代にまで続いて行きます。主イエスの時代、ファリサイ派などの律法の専門家たちが、民の信仰の中心となって指導しておりました。私たちは聖書を読んでいると、どうしてもファリサイ派を悪者として理解しがちであります。確かにイエス様がファリサイ派たちの事を「偽善者」と呼んでおりますから、そこからイマジネーションされるのであろうと思います。しかしそれには様々な歴史的事情があります。セレウコス帝国と呼ばれる国によって支配されていたユダヤ人たちは、律法を厳格に守る事を信仰上の重要な要素として再確認したそのような時代がありました。その中で律法に関して厳しく、忠実に、信仰的行いとして、これを守る事が大事にされてきたのです。それが紀元前160年頃以降の話ですから、イエス様の時代のファリサイ派たちは、そのような時代の要請から、律法をしっかりと解釈し、厳しく取り扱っていたわけです。ですからファリサイ派を悪者とか偽善者というステレオタイプに区切ってしまうのではなく、時代の産物であると考えてよいのではないでしょうか。そして彼らが当初厳格に信仰的行いとして律法を守っていたのに、あのような偽善者的な行為を行うように堕落していった様を知る私たちは、ファリサイ派を馬鹿にすることは決して出来ないのであります。つまり最初は純粋で、高尚な行為であっても、それは偽善的になる要素を「私たち人間が」持っているからであります。つまり私たちには、ファリサイ派的要素がある、という自覚を持たねばならないのではないでしょうか。

 私たちは人に見せ、評価される事によって、それが励みになったり、やる気が増したりも致します。それが私たちのモティベーションとなるわけです。しかし殊、信仰に関して言うならば、それは信仰を立ちもし倒れもする、あなたの信仰それ自体を決定的に価値付ける要素となってしまうのが、「他人からの評価である」と主イエスは言います。つまり信仰が、他者に信仰深さを見せることや、他者からの評価を得るための偽善的なものとなってしまったら、それは既に信仰ではないと主イエスはおっしゃるのです。音楽作品や小説などの文学、テレビドラマや、サービス業、役者や、演奏者、お笑い芸人などに至るまで、他者からの評価によって価値付けられる物は多くあります。視聴率や、発行部数、批評家からの評価などが、それらの力となります。しかし信仰はそうではないのです。あなたの信仰は素晴らしい、と言われる事が第一義的な目的になったとき、その信仰は最も核心的な部分を取り去られたのと同じことになるのです。

 これまで2か月に亘って主の祈りを詳しく見て来ましたから忘れがちなのですが、マタイ福音書6章1節~18節は、一つのまとまりを持って、一つのテーマを持っています。真の施し、真の祈り、そして真の断食、という真実の信仰の3つの要素について語られてきました。真の施しとは何か。人にこれ見よがしに見せて善行をしたフリをするな。人前で恭しく信仰深そうに祈るフリをするな。そして、さも悔い改めたようなフリをして、信仰深そうにするな、という、どれもこれも、大変厳しい言葉であります。しかしこの6章を通して主イエスは、表面的な行いに沈んで行きがちな私たちを支え、励まそうとしているのであります。

 聖書の中にはレプトン銅貨をたった2枚捧げた貧しい女性の献げ物こそが、真の献げ物であると主イエスは言うのです。それは貧しさの象徴であり、それ以上を献げる人がずらずらと立ち並ぶ中で、本当に哀れで、失笑を買いそうな献げ物であったかもしれません。しかし彼女は周囲の目による評価によってではなく、自らの信仰を通して、あの小さな物、たった2枚を献げたのであります。これを主イエスは目に留めて下さったのです。

 また、ナルドの香油を注いだ女性の話も同じであります。非常に高価なナルドの壺を惜しげもなく叩き割って全ての香油を主イエスに注いだあの女性は、人に見せようとしたために行った行為ではありませんでした。むしろあの場面では、評価されるどころか、イエスの弟子たちからの痛烈な批判を浴びているのです。しかし女性は一切語らず、自らの思った通りの信仰の表し方をしたのであります。それは十字架の葬りの準備でありました。もし彼女が名声を得たかったのならば、それを換金し高額な金額として献げ物にしたでしょう。そして主イエスと弟子たち皆からの評価を得るために大判振る舞いしただろうと思います。しかし彼女はそれを惜しげもなく、主イエスの為に使い切ったのです。そこには、十字架と葬りの為の準備、偽善によってではなく、真の信仰からの思いがそうさせたのです。だからこそ聖書は、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコ14:9)と言われているのです。

 預言者イザヤは、真の行い、真の断食とはこれである、と言って、次のように語ります。
 (イザヤ書58章3節-10節)
58:3 何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う。58:4 見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。58:5 そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。58:9 あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、58:10 飢えている人に心を配り、苦し
められている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。


 真の断食とは、自分が苦しい思いをするだけではなく、飢えた人にパンを与える事だ、とイザヤは言います。本当に断食したいなら、つまり本当に信仰者として生きるなら、自分自分と、自らを主張する事を止め、他者に施し、他者を生かし、他者を愛して生きる事。それが主の示される信仰者の生き方であるのです。

 何よりも主イエスは、多くの律法学者たちからは猛烈な批判を浴びましたが、人を生かしました。特に蔑まれた者、生きる気力を無くした者、生きる価値がないと言われた者、粗末に扱われた者、呪われていると言われた者、そのような者たちの苦しさと共に生き、その痛みを共に痛んだのであります。それは十字架の痛みによって示されます。主イエスの痛みによって私たちには、恵みが与えられた。主イエスの断食とは十字架の事であり、真の断食とは、人を生かす、つまり私たちを生かすための痛みの断食であったのです。その十字架の光に照らされる我々は、どのように生き得ましょうか。イザヤは58章10節で言いました。58:10 飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
 それは、人の為の施しではなく、私たちを包む闇を晴らす光となるというのです。私たちの信仰が曇る事があるとするなら、他者を忘れ、自らの光に没頭する時である。聖書はそのように語るのです。
 復活節の第3週目のこの時、私たちの信仰がキリストの十字架と復活の光に照らされるものでありたいのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月22日)