マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』 (前半)

 マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』

 一昨日の金曜日、宮城県の東松島市に行ってまいりました。これは中会連合婦人会の働きの一環として、東松島市の仮設住宅の方々への支援をしようと取り組み始めた事によります。私は今回が初めてだったわけですが、高速道を降りてすぐの工業団地内に小さな仮設住宅の集落がありまして、ここに8世帯の方々がお住まいになっております。

 仮設というぐらいですから仮に設置された住宅でありまして、この住宅は様々な問題を持っておりまして。印象的だったのは、この住宅の構造が、阪神淡路大震災の時と同じような構造で建築されている為、温暖な気候が前提にされている造りになっている事でした。薄い壁と一重の窓からは、冷気が入り込み、冬場は大変に寒かったそうです。途中から作り変えて二重窓と断熱材を入れたとはいうものの、完全な寒冷地仕様ではありませんから、はやり問題も多い。特に壁一面が結露して水滴がびっしりとついてしまい、寝ていると天井からぽたぽたと水滴が落ちてきて、顔がびしょびしょになるという話はその大変さを語るお話でした。壁が薄いため、隣の声が丸聞こえであるという事や。一人暮らしの方の場合、4畳一間に住むことを余儀なくされる事など。本当にご苦労なされていると感じました。奥尻島の津波の時は義捐金の金額に対して、被災者の世帯が少なかったため、全て新築で新しい家が賄われたそうです。しかし今回は何万人という人が被害を受けている為、今の義捐金では、人世帯数百万が配られただけで、流された家は帰ってこないという事でありました。

 このような現状に対して、県庁、政府筋の人たちの対応が遅い、という事が問題点として挙げられていましたが、驚いたことに、岩手県では県知事が仮設住宅に1週間住んだという事でありました。宮城県知事はやらなかったようですが、岩手県知事は、この仮設住宅に住んだ場合、どのような問題があるのかを肌で感じてみよう、という事を考えてそのように行ったのであろうと思います。それは大変あっぱれな事であるなと思います。造りっぱなしではなく、そこには生活が続くわけですから、自分の体で感じてみよう、というのは、住民にとっては良くやった、という思いはあるかと思います。

 しかし裏を返せば、1週間という期限が付きますから、ゴールがあるわけです。この一週間何とか耐え凌げば、元の生活に戻る事出来るのです。その間だけ、目に見えて分かる機関だけ我慢すれば良いのです。ですから、本当の意味でそこの住民と同じになる事はできません。むしろキャンプ感覚で、少し不便な経験をすることで、むしろ周囲から「よくやった」という言葉をもらえるという、政治家としての株を挙げ、「支持率」という十分な報酬を頂けるよいパフォーマンスともなり得ると思うわけです。大変穿った、ひねくれた考え方だと仰るかもしれません。この知事にそのような意図が微塵もないのでしたら、大変申し訳ない事を言っているのかもしれません。しかし期間限定の苦しみというのは、そういうものだと思うのです。事柄が本質から離れ、周囲からの評価の問題にすり替わってしまう。あの人は良く頑張っているのね。良く耐え忍んでいるのね、という言葉が自らの行為の意義そのものになってしまうのです。

 何が言いたいがお分かりかと思います。今日の箇所で与えられましたのは、断食の話です。本当の意味での断食とは何か、その事を主イエスは問うておられます。断食という信仰的行為が、その純粋性を失い、その事によって本当に表そうとした断食の意味ではなく、見苦し顔をしてあたかも私は信仰深いのですよ、という事を周囲にアピールする事が第一義的な目的になるのだとするのならば、その断食の意味とは何なのか。本当に断食をしようと、信仰心からするならば、顔をきれいに洗って、人に見えないような仕方でそれを行いなさい、という趣旨であります。

 断食という行為は、そもそも「あるもの」を、「無い物」としてそのように生活することでありましょう。元々目の前にある食料を「あたかもない物」として生活する事が断食であります。断食とは飢えて苦しんでいるから食べられないのではなく、あるけど食べない行為の事を言うのです。それによって悲しみや苦しみを信仰的に共有するという目的として行うのであります。

 そもそも断食とは、聖書の古い記述の中に見られます。モーセ五書であるレビ記16章に既に登場し、使徒言行録27章の時代まで、これが行われた事を示します。これはイスラエル共同体が悔い改めを告白し、神の助けを願うために行われて来たものであります。又信仰行事として国の記念日に行ったり、バビロン捕囚期には年4回これを行い、エルサレム陥落と神殿崩壊の悲しみを覚えて行っていたものであります。またサムエル記では共同体ではなく個人的にこれが行われていた事が示されますし、ある預言者は病の癒しを願って断食したというように祈願として行っていた事も記されております。

 このように断食という習慣は、信仰的なものとして定着しておりました。ですから悔い改めの断食、悲しみを表す断食、記念の断食、神への祈りとしての断食など、これが全て神に対して行う行為として守られてきた事が分かります。

 しかしその目的が人に見せる事に変質した時、それは信仰的な行いから、偽善的な行いへと変化していくのです。信仰的な行いが、形骸化し空洞化した時、その行いは真実な行いから離れ、偽善へと変わっていきます。その事も又、聖書で何度も語られています。

例えばエレミヤ書14章12節 「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。」

ゼカリヤ書7章5節-6節 「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。」

 神はこのような痛烈な批判をイスラエルの歴史のあらゆる箇所で浴び
せてきたわけであります。

≪後半に続く≫