4月8日

  2012年4月8日(日)の礼拝<イースター>

◇日 時:4月8日(日)午前10:30~

◇説 教:「見ないのに信じる人間は幸いである」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:ヨハネによる福音書20章19節~29節

4月1日~7日

4月1日~4月7日の集会

◇中連婦委員会(浦和)      4月2日(月) 午前 10:00

◇中会青年部委員会(浦和)  4月2日(月) 午後  2:00

◇聖書の学びと祈り        4月4日(水) 午後  7:30
  Ⅰコリント15章12節~34節

◇聖書の学びと祈り        4月5日(木) 午前 10:00
  出エジプト記29章

ヨハネによる福音書18章28節-38節 『真理に属する者はキリストの言葉を聞く』

 ヨハネによる福音書18章28節-38節 『真理に属する者はキリストの言葉を聞く』

 裁判員制度が始まってから来月で3年が経過致します。いささか混乱を招きつつも、少しずつ浸透しつつあるこの制度でありますが、当初この制度は、司法関係者だけでなく、一般市民を判決に巻き込むという事で混乱が生じました。つまり先週一年数か月ぶりに行われた死刑執行に関しても、犯罪者とは言え一人の命を一般市民が担うという事ですから、その責任の重さは並大抵ではないと思います。又、実際の裁判に関して言えば、見たくもない証拠資料を見せられたり、心痛むような自供を聞かねばならなかったりと、強制的に嫌な事をさせられるという点で、人権侵害であると考える人もいるぐらいであります。
 しかしこの制度は、裁判所をオープンにする、というのが本来の目的であるそうです。私たち日本人は、裁判所に対して、社会正義を行使する立派な行政機関であると思い込んでいる向きがありますけれども、実際は、閉鎖的で、中身の見えない、密室で行なわれる、言わば「官僚主義の役所である」というのが現実であるようです。もちろんこれは司法関係者の言葉ですから、あながち間違いではないと思われます。つまり、検事や弁護士たちが議論を戦わせ、積み上げられた証拠を基にして被疑者の罪状の白黒をはっきりとさせる、というような裁判のイメージを映画やドラマの中で、私たちはそのように思い描くのですが、実際の裁判はもっと官僚的で、機械的で、事務的であるという事であります。例えば、少しでも目立つような画期的な判決を下した裁判官は左遷され、裁判長の印象を良くするための判決をし、それによって出世するか否かが決まってくる。そのためには、事件に対して余計な詮索はしない、と言うのが暗黙の了解であるそうです。勿論これは現在の司法制度に疑問を投げかける一部の関係者の言葉ですから、真実が如何なるものであるかはもっと検証の余地があるのでしょうけれども、ある意味で事実であるという事であります。ですからこのような官僚的な裁判所に対する非難を回避するために、一般市民を判決の仲間に入れて、透明性をアピールするというのが、裁判員制度の目的なのだそうです。
 政財界と異なり、裁判所だけは信用できると思い込んでいる私たち日本人にとって、いささか残念な話ではあるのですが、しかし司法のみならず、一般企業であれ、教育機関であれ、どのような機関であっても、本音と建て前の矛盾のような問題は存在するわけでして、裁判に関しても同じという事であります。そして「裁判の不正」と「そこにある官僚的な性格」に関しては、時代や文化が違っても同じことが言えるようであります。
 それが今日の箇所にあります、主イエスの裁判の場面であります。ここには3人の人物が登場します。一人はユダヤの総督ピラト。そして訴えを起こしているユダヤ人祭司たち。そして主イエスであります。
 これは、エルサレム入城から始まって、最後の晩餐を終えた木曜日の夜、ゲツセマネで逮捕され、十字架に架かるために行なわれた裁判であります。クエンティン・マセイスという中世の画家がおりますが、彼が「この人を見よ」という題の絵を描いております。そこには、茨の冠を頭に乗せて惨めに立っているキリストと、それに群がる民衆の異様な光景であります。理性を失い、異常な心理状態で、目を剥き出しにして、血眼になってイエスの死刑を求めている、民衆の憎悪に満ちた表情が印象的な絵であります。機会があればぜひ一度ご覧になって頂ければと思いますが、いずれにしましても、今日の箇所で行われた裁判は、まさに異様な興奮状態の中で行なわれていたと思われます。人間がひとたび憎しみに取り付かれ、そこに執着する時、異様な状況になっていく。その事を表しております。
 しかしこの中でただ一人だけ、その異様な心理状態になかった人がおります。それがユダヤの総督ポンティオ・ピラトであります。彼は民衆とイエスの間に立ち、裁判の判決を出すように迫られておりました。しかし彼にとって、イエスが有罪であろうとなかろうと、生きようと死のうと、関係なかったのです。それは彼がローマの官僚であったからです。
ローマ帝国の属州であった当時のユダヤ地方は、ローマ皇帝から派遣された総督がエルサレム一体を治める事になっていました。ローマ総督は一年の大半を地中海沿岸のカイザリアという町で過ごしておりました。しかし「過ぎ越し祭」というユダヤ最大の祭りが行なわれる期間中に限り、エルサレムに滞在する事になっていたと言います。それは、暴動や犯罪などを取り締まる、治安維持のためでありまして、過ぎ越し祭が無事に終わる事が総督の最終的な目的であったからです。つまりピラトは、ローマ皇帝から権限を委ねられ、ユダヤが平定されることによってその仕事ぶりが評価されたわけです。ですから、エルサレムで暴動や混乱が起こった場合、彼は出世できなくなります。その為彼は「イエスを十字架にかけよ」という民衆の異様な雰囲気に飲み込まれることなく、彼はただ只管(ひたすら)、治安維持のため、暴動が起こるのを阻止するため、その事のためだけに働いたのであります。31節に「あなたたちが引き取って自分たちの律法に従って裁け」という言葉には、余計な事に巻き込まれたくない、という心境が現れています。彼の心には、目の前に連れてこられたこのナザレのイエスという罪人を「適切に、正しく裁く」ということ念頭には無かったのです。むしろ彼が求めたのは、自分に対する皇帝の心象を良くすることと、ローマに帰ってからより高いポストに就くこと。それだけであっただろうと思うのです。ピラトにとって恐れるべきはローマ皇帝あり、神も、神の独り子も、彼にとっては恐れるべき対象ではなかったのです。混乱を避けるために、ただただローマの法律にのみ忠実であろうとしたのであります。

 それに対してユダヤ人の権威者たちはどうだったのでしょうか。主イエスをここに連行してきたのは、祭司長や律法学者たちでありましたが、彼らが規範とし、従っていたのは「律法」であります。律法とはご存知の通り旧約聖書のモーセ五書に記されている、神の言葉である、あの「律法」です。しかし彼らは決定的な矛盾の中で律法を守っておりました。その矛盾が、今日の箇所の最初に記されています。28節。「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし彼らは自分で官邸に入らなかった。けがれないで過ぎ越しの食事をする
ためである」。ここに書かれているのは、完全な矛盾であります。つまり、彼ら祭司たちは、「イエスを殺そうと急ぎながら、不浄を避けることには几帳面であった」のです。不浄というのは「汚れた行い」ということであります。「彼らはイエスを殺そうというけがれた行為に躍起になりながら、律法のけがれは行なわないようにしていた」。完全な矛盾であります。総督官邸は異邦人の場所であり、血なまぐさい場所であるために、律法上は不浄の場所とされていたのでしょう。だから彼らは官邸に入らなかった。けれども彼らが行なおうとしているのは、他でもなくイエスという律法違反の罪人の血を流させるためであったのです。完全なる矛盾に彼らは気付いていません。ユダヤの法律には人を死刑にする権限はないからローマ法で死刑にしてくれと懇願するほどイエスの処刑を望んでいた。しかし自分は汚れないようにしていた。律法が神の愛の言葉であるならば、彼らの律法解釈から、「愛」と「慈しみ」の文字消えていたのであります。
 つまりここにあるのは、ローマ帝国の官僚として、ローマ法に則ることだけを考えて行動した総督。そして自らの利権と名誉を守るために、自らの矛盾に気付かずに、もしくは気にせずに、イエスを死刑にしようとする祭司長たちがここにいたのです。

 ピラトと主イエスのやり取りの中には、「お前はユダヤ人の王なのか」という言葉が何度も出てきます。それに対して37節で主イエスは「私が王だとはあなたが言っていることです。私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」。このように答えるのです。
 ここでは「真理」が語られています。ピラトは思わず「真理とは何か」と質問しましたが、このことは大変重要であります。 
 ピラトにとっても、祭司長たちにとっても、真理は大して問題ではありませんでした。真理が何か関係ないから矛盾にも気付かないわけです。ピラトも祭司長も、立場は違えども、事務的に仕事を遂行することを目的としている、ということからするならば、彼らの目的には真理は必要ないのです。真理を伝えるイエスが自分たちの偽善を暴いてくため、イエスの存在が邪魔になったから消そうとするわけですし、またピラトにとっても、真理を追究しても出世できないから、真理など必要ないのです。機械的に事務的に裁くことや、おかみの顔色を伺う事が何より大事であるならば、キリストの真理はいりません。実用主義とはそのようなものであります。実用主義には真理は邪魔なのです。
 例えば第二次大戦中の日本では、哲学や文学などは見向きもされず、ただ、物を作る技術、生産するための政策や方法だけが重宝されました。それは「戦争に勝つ」という実用主義のゆえでありました。実用主義は、ある一面では私たちの生活を便利にし、活発にします。固定概念を取り払い、必要なものを作り上げるための力となります。けれども、そこに理念や理想、哲学や思想が皆無であったらどうなるでしょうか。自分の国を繁栄させ、裕福にさせる事のみを考える国家と政治家が、神の真理を見失ったとき、日本では侵略に侵略が重ねられ、ドイツでは600万人もの人間が虐殺されたのです。実用的であること、事務的であることは効率が良いかもしれません。しかしそこに神が居られるのか。神の真理が存在するのか。そこが最も大切なのではないでしょうか。
 信仰から真理を抜き取ったとき、そこに現れたのが、「イエスの裁判」であります。神の愛の律法から神の愛という真理を抜き取ったとき、祭司長たち、ユダヤの権威者たちは、実用主義的に律法を適用したのであります。「私たちには人を死刑にする権限がありません」という言葉は、それを象徴しております。もはや彼らの信仰には神はいない。彼らが読み、そして従おうとする聖書には、真の神は存在していないのです。そのとき十字架が起こりました。人間の中から神の存在が消し去られるとき、十字架が起こるのです。
 
 しかし37節で主イエスは大切なことをお語りになります。「私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」。「真理に属する人は皆、私の声を聞く」。私たちはこの言葉を忘れてはならないのです。言い換えるならば、「キリストの言葉を聞く人は皆、真理に属している」と言うことです。キリストの言葉を聞く私たちは、皆真理に属する者たちである、ということです。であるならば、私たちは神の真理によって歩まねばなりません。物質主義や実用主義に流されて、真理を見失ってはならないのです。知恵と賢さを与えられておきながら、中傷、誹謗、憎しみ、殺戮のために自らを加担させてはならないのです。むなしい働きにではなく、神の栄光を輝かせる働きに従事していきたいのです。なぜならば、いつも私たちのうちにはキリストの真理があり、私たちはその真理と共に歩んでいるからです。そしてそのように聖書が証言してくれているからです。次週のイースターに向けて、自らの思いを人間の罪に向け、その贖いの主に祈り求める一週間でありたいと思います。この受難週をキリストの真理の言葉と共に過ごしましょう.

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月1日 棕櫚の主日) 

マタイによる福音書6章12節 『汝、赦しの中に立て(主の祈りⅣ)』

 マタイによる福音書6章12節 『汝、赦しの中に立て(主の祈りⅣ)』

 以前、モーツァルトの特集番組が放映されておりまして、大変興味深いものでありました。それはモーツァルトという天才が如何にして造られたのか、という事と、彼の頭の中にはどのような働きが隠されていたのか、という事を解明するという、非常に興味深いものでありました。その中でピアニストの内田光子という人が、モーツァルトのオペラを批評して次のように言っておりました。「彼の作品の根底には、赦す事と赦される事、という大きなテーマが流れている。それは彼が本当に自分の罪を知っているという事、そして他者の罪を赦す事が如何に美しい事であるかが彼のオペラに描かれている」。と、このように言っておりました。フィガロの結婚などに代表される彼の作品は、非常に陽気で、明るいものであり、彼の作品の多くがそのような明るさに満ちたものであります。しかしその根底に流れている思想が「赦す事と赦されることである」、というのであります。彼はオーストリアに生まれました。オーストリアは非常に厳格なカトリックの教義を基盤とする土地柄ですから、おそらくこのような事も起因しているのであろうと思います。

 第一次世界大戦の時のことですが、ドイツ軍がベルギーに攻め入って、多くの町を破壊しました。その次の日の日曜日、壊された教会の中で礼拝が行なわれました。しかしいつものように、主の祈りになって、この一節のところまで来ると、皆んな黙ってしまったというのです。その時、全ての礼拝者は、ドイツ人が自分たちに対してした事を思い出していたためでありました。「我らに罪を犯す者を、我らは赦せない」、だからこの一節を祈れなかった、というのであります。
 私たちにはこの事が、とてもよく分かると思います。自分を迫害する者、直接的な害を与えてくる者を「赦しなさい」と言われたとしても、そう簡単に許せるものではありません。主イエスが、いくら「このように祈りなさい」と言われたのだとしても、そう容易く祈れるものではないのです。このように本来祈る事が大変困難な事柄を、私たちは毎週祈っているというわけであります。

 マタイによる福音書の6章12節をもう一度見てみましょう。「私たちの負い目を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と書かれております。主の祈りとして完成された定型文では、赦す事柄は「我らの罪」となっておりますが、その原型の一つであるマタイ福音書の原文では「私たちの『負い目』」となっております。口語訳聖書では、これを「負債」と訳しております。負債、つまり支払いの責任を負うことであります。負債とは、私たちの罪の事です。私たちは罪を犯します。その行動において又その思いにおいて、罪は、他者に対する悪として行われるものです。罪を犯す相手、損害を与える相手がいて初めて罪は成り立ちます。もし誰も嫌な思いをせず、誰にも損害を与えないのなら、それは罪にも負い目にもならないかもしれません。相手を傷つけ、他者の心や体に損害を与えるからこそ、それは罪であり、負債となるのです。
 ですから、主の祈りで祈られる負債とは他者に対する「罪」であり、相手を傷つけ、相手の痛みになる事を言い表しています。しかし主の祈りは私たちをこのように祈らせます。「我らに罪を犯す者を『我らが赦すごとく』」と。つまり私たちは、私たちに負債を抱えた者、私たち自身に罪を働いた者、私たちの心を傷つけた者を赦せるのであろうか。この事が問われるのです。

 この祈りの難しい所は、「我らが赦すごとく」という言葉がくっついている事にあります。つまり「私たちが相手の罪を赦しますから、あなたも私たちの罪を赦してください」、と祈られているのです。このため罪の赦しを祈るのにたじろぎ、小声でしか祈れないような時もあるのだと思うのです。
 しかしここで考えておきたいことは、そもそも神というお方は赦しの神である、という事が大前提である、という事です、それは新約聖書ではなく旧約聖書の中で既に赦しの神である事が明らかなのです。

 例えば詩編103編
103:2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
103:3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
103:4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
103:5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。

それから詩編130編
130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
130:5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。

出エジプト記34章でも
34:6 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
34:7 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。

このように言われています。主は私たちを赦される神であり、私たちの罪を贖って下さる神である事が旧約聖書のあらゆる箇所であきらかとなります。
 しかしここで主の祈りは、私たちに重要なもう一つの赦しの要素を祈らせます。それは「我らが赦すごとく」という言葉です。つまり私たちが赦すように、私たちの罪を赦して下さい、という意味です。
 ここで疑問に思うのは、私たちの信仰告白の中で、「功なくして罪の赦しを得」と常に告白しているように、私たちの赦しは神の一方的な恵みによって赦されているという事であります。功、つまり私たちの功績がなくても罪赦されている、というように我々は教えられてきたし、そう信じてきた。だから私たち罪人は赦されるのだと考えてきたのです。
 しかしここで重要な間違いが潜みます。それは、私たちは赦されるけれども、私たちは赦さなくても良い、という間違いであります。それは大変自分勝手で、都合の良い解釈となってしまいます。つまり私たちは人を赦さなくてもよいけれども、人が自分を赦さない事は神様の意に反する、と考える事です。
 その事が明確に譬えられているのが、マタイによる福音書18章21節~35節に記されている「1万タラントンの家来の譬え」です。新約聖書35ページ下の段であります。
 
 この譬えは、私たちに今日の主の祈りの文言の何たるかを
伝えます。この家来が負っていた1万タラントンの負債を、主君が赦してやったのは、ただひとえに主君の憐れみによったのであります。何の条件もなく負債を帳消しにしたのでありました。しかしこの家来は、自ら受けた赦しを、他人に与えませんでした。負債が免除された事を本当に恵みとして受け止めていたのならば、彼もまた他者に対して負債を免除せざるを得なかった筈です。徹底的に大きな赦しが目の前にあるのだから、その赦しの中に置かれた赦された者として、彼は赦す必然を負わされ、赦す力が神から与えられているはずなのです。
 ある人が「本当の愛を知らなければ、本当の愛を行なう事は出来ない」という事を言いました。まあ一概にそうとは言い切れない部分もありますが、ある意味において真理でありましょう。本当の愛し方、愛され方を知らなければ、どのように愛して良いのか戸惑ってしまうでしょう。赦しもそれと似ております。つまり私たちは、大きな力で、大きな心で赦された時、本当の赦しとは何であるのかを知るのであります。
この家来は膨大な負債を、主君の寛大な心と憐れみによって赦されました。1タラントンというのは、6000デナリオン。現在の貨幣価値に換算いたしますと6000万円ほどの膨大な金額であります。しかしここで家来が主君に対して負っている負債額は、1万タラントンであります。つまり6000万円の1万倍、6千億円という事になります。これは文字通りの金額というよりも、私たちの罪はこれほどに膨大だと言っているのです。彼はこの6千億円を主君に帳消しにしてもらった、というのです。しかしこれだけの赦しを得ておきながら、彼は友人の100デナリオンの負債を赦すことが出来なかったのです。彼は6000億円が帳消しにされたその足で、100万円の借金を取り立てにいった。それが赦された者の行いなのか。そう聖書は問うのです。

 ここで言われている事は、あまりにも桁外れな数字である為、私たちにとってはあまりにも現実離れしている、想像の世界のように思えてしまうかも知れません。けれども本当にそうでしょうか。私たちの罪を数字に表すとしたら、低い数字に留まるのでありましょうか。そうではありません。私たちはこの家来が負っていた負債1万タラントンに匹敵するか、それ以上の罪の負債を負っているのであります。その私たちは赦されたのです。キリストの十字架によって。私たちの負債があまりにも膨大である為に、自分自身では償う事が出来なかったのです。しかし神は御子イエス・キリストをお遣わしになり、私たちに代わって、十字架によってそれを負って下さったのです。その事を心の底から本当に自分のものとして知る人は、人の負債を帳消しにする事が出来るというのであります。言い換えるならば「我らに罪を犯す者を我らが赦す」ことが出来るのは、「我らの罪が赦されている」「しるし」であると言えるのです。本当に神の下にへりくだって、自分の罪の大きさを知っているならば、自分が赦された事を棚に上げて、人の罪に執着する事は出来ないのです。つまり神に赦されている私たちは、自ずと人を赦す事ができるようになるのだ、と言われているのです。

 真の赦しを本当に良く知っている人は、自分の生活の中にその赦しがどう反映されるかにを向けるのです。赦された事を知った時、もはや「他人が自分を赦すのか」とか、「自分が他人を如何に赦しているか」、などという事を推し量るのをやめ、又、私があの人を赦すのと、あの人が私を赦すのと、釣り合いが取れているとかどうかなどという打算や計算が行なわれるのではないのです。神が私を赦して下さっている事によって、全ての計算は終わっています。大きな1万タラントンの負債は帳消しなのです。だからこそ私たちは、安心して人を赦す事が出来るのであります。
 「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。主の祈りの中でこのように我々が祈る時、そこには、既に赦された私たちが、神の恵みの無限の大きさと、その下にあって私たちもまた、赦す事の出来る者であるという確信が与えられ、常に新しい赦しへの決意に立たせられるのであります。「汝、赦しの中に立て」とこの祈りは私たちの告げているのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年3月25日)

マタイによる福音書6章11節 『我らの日ごとの糧を』主の祈り (Ⅲ) 

 マタイによる福音書6章11節 『我らの日ごとの糧を』 主の祈りⅢ

 インターネットのブログに「パンも大好き―聖書読んではひとりごと―」というサイトがあります。ご存知でしょうか?そしてこれには「日本キリスト教会発行『家庭礼拝暦』にそって」という副題が付けられております。ご覧になられた方はおられるでしょうか。これは未だに謎なのですが、日本キリスト教会関係者の誰かが立ちあげているらしいのですが、それが誰だか分からないのです。しかしその内容は、家庭礼拝暦の毎日の言葉に対しての雑感を書くというものでして、それが非常に的確で、且つ、好意的であります。聖書を良くお読みになられる方か、もしくは教職の誰かが書いているように思うのですが、だれかお分かりになる方がいれば教えて頂きたいと思います。
 しかしこの「パンも大好き」という題名はユーモアに溢れていると思います。イエス・キリストが40日40夜の荒れ野の誘惑を耐え忍ぶ中で、「この石をパンに変えたらどうだ」という唆しに対して「人はパンのみに生きるに非ず」と答えて悪魔の誘惑を蹴散らしたという話しがありますが、これに倣って、「私は御言葉の糧も好きだけどやっぱりパンも大好き」というユーモアの一つとしてこの題を考えたのではないかと思うのです。
 しかし私たちキリスト者はパンに対して如何なる思いを持っているでしょうか。キリスト教会でパンと言えばパンと葡萄酒というように聖餐式のイメージがあるかもしれませんが、しかしパンを欲する、という事を考えますと、荒れ野の40日の逸話にもある通り、パンを欲する事はキリスト者的ではない、というようなイメージがあるのではないかと思うのです。つまり「パンのみによって生きるに非ず」という言葉が植え付ける印象、すなわち第一義的に私たちに必要なのは御言葉であり、パンは二の次であるというイメージです。金銭などと同じように、パンを欲する事は物欲の一つとして捉えられがちであります。
 出エジプト記にあるように、エジプトの奴隷の身分から脱出してきたイスラエル人たちは、すぐにモーセに、ひいては神に対する不平不満をぶつけるのです。それこそが、食べ物がない、つまり「パンがない」「パンが欲しい」というものでした。
 ですから私たちが「我らの日用の糧を今日も与え給え」と主の祈りを祈るとき、この言葉があまりにも卑近な問題を扱っているかのように思えてしまうのは、聖書を良く知る私たちにとって当然の事なのかもしれません。これまで、神の御名、御国、神の御心を願っていた祈りであったのに対し、ここから突如として人間のおなかを満たす事を祈るのです。言うならば高尚な祈りの次に、突然卑近な祈り「パンを下さい」と祈りだす。とても不思議な感じがし場違いな感じも致します。

 しかし食べ物を求める祈りとは、そもそもそんなに卑しいものなのでしょうか。むしろ人間にとって、これほど切実な祈りは無いのではないか。そのようにも考えられます。私たち人間は、なぜ毎日働くのでしょうか。その第一義的な理由は食物を求める為、日々の糧を得る為という事ができましょう。自分の、そして家族の食事を守る事は、すなわち神に与えられた命を維持する事になる。そう考えるならば、食事を求める事は被造物としての我々が、神に対して負う責任、と言えるのかも知れません、
 そもそも主イエスの時代、ナザレの労働者の家に育った主イエスや弟子たちは、パンを得る事がどれほど深刻な問題であるのか、身をもって知っていたことでしょう。パンがないという事が、どれほど苦しい事であるのか。パンの問題の為にどれほど人を狂わせたか。その事を知っていたのだと思うのです。
 人類の歴史は食料調達の歴史と言っても過言ではありません。1789年フランス革命においてルイ王朝が滅ぼされます。王侯貴族から受ける搾取にあえぐ民衆たちは、度重なる飢饉と貧困の末、ヴェルサイユ宮殿に集まり、ルイ16世に向かって、「ドゥパン、ドゥパン、ドゥパン」、と叫びました。それは「パンを、パンを、パンを」という切実なシュプレヒコールであったわけです。
 日本でも百姓一揆と呼ばれる納税義務の軽減を求める最下層民の武力行使が行われました。現代社会でも、貿易の自由化によって問題になるのは、国益と共に、食料、つまり農業や漁業などの第一次産業への影響であります。
 このように見ていきますと、食料の事を求める祈りが卑近であるとか、卑しい事であるというのは、飽食の時代に、何の不自由もなく、不足もなく生きている我々だからこそ生まれる思いであって、食事もままならない環境に生きる者たちには、パンを求める事によって戦争や革命が起きるほどのものであったという事を、我々は知らねばなりません。
 
 先ほどお読み頂きました、出エジプト16章にはマナの出来事が記されております。エジプトの奴隷から解放されてモーセに導かれた民らは、荒れ野の真ん中で食糧難に喘いでおりました。そして民らは文句を言いだすのです。こんなだったらエジプトにいた方がマシだった。エジプトの奴隷の時の方がウマい肉鍋を食べられた。このように具体的に文句を言うのです。まさに人類が食糧調達の歴史を歩んできたように、彼らも又、その事で今まさに暴動が起こらんとしていたのです。

 しかし神は、この時マナとうずらを与えられました。この時一つのルールがありました。それは「一日分しか取ってはならない」ということです。安息日の時だけ二日分とって、それ以外は一日分だけにしなさい。明日を思い煩った者が二日分取ると、腐ってしまった、と書かれています。ここには民を養う神の姿が描かれます。その日一日の糧を与えて下さる神の姿です。

 けれども、この出来事についてモーセがあとから回顧している申命記の8章3節で、注目すべき言葉があります。旧約聖書294頁の上の段、申命記8章3節以下、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わった事のないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる事をあなたに知らせるためであった」。このようにあります。つまり、マナの出来事というのは、人間の食糧確保、肉体の維持、空腹の解消を目的とするものではなくて、神はそれ以外の事柄を、第一義的に示そうとした出来事であった、という事であります。それは食料を与えることによって、実は、神の御言葉の意味と重さを知らしめる為の、マナの出来事であった、というので
あります。

 出エジプトの旅は、長く重苦しい旅でありました。距離にすると大した事のないところを、40年もの間の長きに渡り、行ったり来たり、放浪の旅を続けたのです。生まれたばかりの人は40歳になり、二十歳の若者は還暦を迎えるほどの長い期間彷徨っていたのでありました。彼らは何を感じて旅を続けたのでしょうか、自分の家も持たず、帰るところもなく、単調毎日が続くだけ。何となく繰り返される日々。昨日も今日もそう変わる事なく続く毎日。そのような旅であったと思うのです。40年の旅の最中に亡くなった人も大勢いたようですから、この出エジプトの旅は一体なんなのかと神に問いたくなるような、そんな思いの中にある長き旅であっただろうと思うのです。
 しかしこのようなイスラエルの民らと私たちは、全く掛け離れた存在なのでしょうか。そうではないと思うのです。私たちの毎日とは、いつもいつも新しい事で満たされ、新鮮な毎日に満ち溢れていれば良いと思いつつも、しかし、日ごと平凡単調な出来事の繰り返し、いつも新しいことを発見していたいと思いつつ、そうもいかない日々。ただ食べていく事のために汗水流す日々。三度の食事と掃除と洗濯をすれば、何となく一日が終わってしまうような毎日。嫌な上司に頭を下げ、働かない部下に心を痛める日々。ふと気がつくと、どうして毎日働いているのだろうか、どうして生きているのだろうか、とすら考えてしまう事しばしば、なのではないでしょうか。つまり、出エジプトの経験した旅と、我々の生涯には、非常に似通った部分があるのでは無いかと思うのです。

 主の祈りの中で、私たちは「われらの日用の糧を」と祈ります。この「日用」というのは「毎日の」と訳される言葉です。ですから「私たちの毎日のパンを下さい」と理解するのです。けれども、この「日用の」という言葉の持つ意味を、我々はいささか誤解している傾向にあるようです。つまり「日用の糧」というのは、「今、この時の糧を」をいう意味だけでは無いからです。毎日の単調な生活の中にあって、昨日の食事のように、今日もまた同じように恵まれた食事をお願いします。という、反復を促す「日用の」という意味ではないからです。
 ここで言われている「日用の」という言葉には、「差し迫っている次のこと」が示されています。つまり、朝この祈りをすれば、そのすぐ後に続く昼食や夕食の事を思い、夕べの祈りであれば次の朝の朝食を求める祈りとなります。差し迫った次の時の、つまり、明日の命を支える糧を与えてください、という意味が、ここに含まれるのです。

 明日の命は誰にも分かりません。今この次の瞬間であっても誰にも保障は出来ません。このような私たちのために、差し迫った次の命を生かす糧を下さい、と祈るのです。このように考えますと、「我らの日用の糧を今日も与え給え」、という祈りは、自分自身の限りある命を直視しながら、新しい命を求める祈りであると言えるのではないでしょうか。それは、ただ肉体の生と死に関わることだけでなく、いつ死ぬかと怯える事でもなく、少なくとも今日だけは生き延びさせて下さい、という消極的な祈りでもありません。それは、神の確かな養いのうちにいる事を確信させて下さい、という祈りであり、たとえ明日この肉体が滅びようとも、キリストによって神の国の永遠の命に生きる事を求める祈りなのです。

 詩編145編14節15節は、今日の箇所に一つの示唆を与える重要な言葉があります。旧約聖書986頁の上の段ですが、(詩編145編15節)「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物を下さいます」。このように書かれております。しかしこの15節は14節と共に読む時、初めてその意味の深さが立ち上がってきます。145編14節「主は倒れようとする人を一人ひとり支え、うずくまっている人を起こして下さいます」。このように書かれております。そしてその後に、時に応じて食べ物が与えられる事が記されているのです。
 今、しっかりと立っていても、次の瞬間は誰にも分かりません。うずくまるかもしれないし、倒れてしまうかもしれない。しかしそのようなうずくまる時、私たちは、主イエス・キリストの父なる神が、そのようにかがみこんでくださる事を知っています。十字架という低さに降りて下さり、倒れてうずくまった私たちに対し、限りなく低くうずくまって下さり、私たちの倒れんとするこの体を支え、抱き起こして下さる神がおられるのです。あの十字架の上に居られるのです。
 「我らの日用の糧を今日も与え給え」。この祈りは、単に食料を求めているのではなく、主イエス・キリストによって、私たちは現在の命を保ち、これが滅びようとも尚も命を保ち続けて下さる事を求める祈りであるのです。この祈りは、決して卑近で卑しい事なのではなく、むしろ私たちの命が主によって守られるという願いと確信に基づいた祈りであります。主の祈りの後半の最初に、最も適切な祈りがなされているのだ。この事を覚えたいのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年3月18日)