7月26日の説教 『つぶやき合うのはやめなさい』


     『つぶやき合うのはやめなさい』
     ヨハネによる福音書641節~51
                牧師 三輪地塩
 47節の言葉「信じる者は永遠の命を得ている。」は意義深い言葉である。ヨハネ福音書が好んでよく使う言い回しであるが、ここでは「得ている」という現在形が使われているのである。「信じる者は死んだ後に永遠の命を得る」と言っているのではない。もう既にこの世にいるときから得ているという。これは我々に天の国を「彼岸のもの」にするのではなく「此岸」にあるもの、つまりこちら側のものとして考えることを促している。
 先日、真宗大谷派の僧侶をしている知り合いから、「キリスト教で天国とはあの世のことですか?」つまり「彼岸にあるものですか?」という質問をされた。ふと思い起こしたのがマルコ福音書1「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。ここには聖書の語る神の国(天国観)があるように思う。聖書は「神の国が近づいた」と言う。「この世において」、この世に居ながらにして天国が来る、とマルコは言う。
 大谷派の知人とは親鸞と聖書の天国観(浄土観?)の近しさを改めて認識することができた。その後 歎異抄(たんにしょう・親鸞の弟子が書いた親鸞の言葉)を開き、信仰理解や救済理解のキリスト教信仰との近さを再認識することが出来た。
 「天の国はどこにあるか」と言われて、我々キリスト者は「いずれ行くところですよ」「あの世のことですよ」というよりも、むしろ「すでにここにあるものですよ」と答えた方が我々キリスト者には正しい感覚なのではないか。我々が信仰者としてキリストを信じ、キリストと共に生きているという現実の中で天国があり、キリストがそれを「結び」「つなげ」て下さる。今生きているところ(現実のこの場)において、神の国、天の国を受けることが出来るのである。
これに関して、フィリピ320節の「しかし、私たちの本国は天にあります」の言葉に、我々のアイデンティティの所在が示されている。

7月19日の説教 『主よそのパンを』 ヨハネによる福音書6章34節~40節

『主よそのパンを』
ヨハネによる福音書634節~40
                牧師 三輪地塩
 M.ルターは「讃美歌は信徒の説教だ」と言った。信徒たちの信仰を歌う讃美歌の歴史を見ることは、教会と信徒の信仰理解・聖書理解の歴史を見ることになるのである。この箇所では「イエスは命のパン」ということを語るが、これまで讃美歌ではどう理解しているだろうか。
 まず1954年版の(いわゆる現行讃美歌187番)には
「主よいのちのことばを/与えたまえわが身に/われは求むひたすら/主より給う御糧を。ガリラヤにて御糧を/分けたまいしわが主よ/今も活ける言葉を/与えたまえ豊かに」(1節と2節)(作曲1877年) とある。この讃美歌では「パン」という言葉はなく「パン」を「糧」と読み直し「御言葉」と解釈している。つまり「命のパンを下さい」という群衆の言葉を、我々自身の祈りに代えて「御言葉を与えて下さい」と解釈している。同じ現行讃美歌287番では 「イエス君の御名は/たえなるかな。聞けば悲しみも/恐れも消ゆ疲れしこの身のいこいとなり/飢えたる心のマナとぞなる」(作曲1779年) とあり、この歌詞がヨハネ6章によって書かれたとされている。イエスの御名が「たえなる」すなわち「言葉に表せないほどの素晴らしさを持っている」ということを1節で歌い、2節で「イエスの御名が、疲れた我々の憩いとなり、飢え渇く我々の心を満たす糧となる」と歌う。ここでも187番と同じように、本物のパンではなく、イエスのパンを「御言葉」と解釈するのである。
 しかし上記2つよりも最近の讃美歌419番(作曲者ロルフ・シュバイツァー1936年生まれ。恐らく今も存命中)ではこう歌われている。「さあともに生きよう/主は飢えた者に/その身をパンとして与えて下さる」
 これまでは、イエスのパンは「御言葉である」と歌ってきたが、419番では「イエス自身がパンである」と歌っている。これは大きな違いである。つまり聖餐式がイメージされているのだ。我々は単に言葉を聞いて心の内に(精神的に)癒されるというのではなく、信仰とはキリストの十字架と共に生きる「救いの出来事」である、イエスの肉と血による贖いを受けることなのである、という事を示している。ここに現代の教会における「教会論」と「信仰観」が示される。すなわち「我々の信仰は、キリストの十字架においてのみ建ち得るものである」ということである。