2017.02.12の説教から

<2017年2月12日の説教から>
『その骨は一つも砕かれない』
ヨハネによる福音書19章31節~37節
   牧師  三輪地塩
 
 十字架上で脇腹を槍で突かれたイエスの体から「血と水とが流れ出た」と聖書は伝える。大変興味深く不思議な箇所である。
 水と血の「霊による一致」は、それらに分かち難い繫がりを信じ、告白することであり、ここにキリスト教信仰の重要な点を見出すものである。日キの引退牧師である
蓮見和夫は、その著書『ヨハネによる福音書』の中で、次のように語る。
 「私は若い頃、浄土真宗に出会い、「キリストにしようか親鸞にしようか」というところまでゆきました。その時、一つの大きな経験をし、キリストの十字架が目の前に現れ、(所謂回心の経験をしました)。今思うと、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われるということでは、満足できなかったのでしょう。阿弥陀仏は、理想の仏で、地上に受肉していません。それゆえ、十字架にかかりもしません。そこには、神が血を流すまで闘い、苦悩することはありません。それなら、人間は安易になって、救いがあるからと言って、罪を犯すかもしれません。神は救いの重大さと、私たちの罪の大きさを知らせるために、御子を十字架につけ、その血のあがないによって、救われるようになさったのです」
 
 十字架の上から流れ出た血は、我々の「罪の血」であり、水は「罪の赦しの徴」である。だが同時に、槍で突いた兵士こそが我々自身、つまり「罪を犯した側に立つ我々そのものだ」という事でもある。十字架上で流された「血」と「水」は、この完全なる犠牲の子羊として捧げられたキリストの血を証し、洗礼による赦しの約束を示している。