2017.02.26の説教から 

<2017年2月26日の説教から>
『見て、信じた』
ヨハネによる福音書20章1節~10節
牧師  三輪地塩
 ここに消息が途絶えていた弟子が再登場する。シモン・ペトロである。イエスの裁判が行われていた大祭司邸の庭で、彼は3回も弟子であることを打ち消し、その時「鶏が鳴いた」のであった。聖書はその後の彼の行動について何も伝えていない。そのペトロは十字架の後になってやってくる。我々は彼が悔い改めたのだと信じたい。彼はマクダラのマリアの証言に促され、愛弟子と共にイエスの墓に急行する。
  
 墓につくと「石」は「取り除けられて」いた。「取り除け「られていた」」と、慎重にそして的確に聖書は語っている。これは「神的受動態」(Divine Passive)と呼ばれる、「行動する主体」を明示せずに神の存在を示すよう用法である。マクダラもペトロも愛弟子も誰も動かしていない。誰が動かしたのでもなく、石が自然に動いたのでもない。ここには「誰か」の存在が明確に表れるように記されている。
 この時、「まだ暗いうち」であったという。「人間が活動を始める前」「人間が関与する事が出来ないときに」「活ける神は自らの主体性をもって」この石を動かした、という意味で「まだ暗いうち」は重要である。人の思いに先んじて、人間の思いを超えて神は働かれる。神の先導性、神のイニシアチブ、先行する恩寵を、「空虚な墓」は示すのである。つまり、復活は、徹頭徹尾「神の行為」である。
 ペトロも愛弟子も「二人はまだ理解していなかった」(9節)との言葉は、「まだ〰していなかった」という意味のギリシャ語「ウーデポー」が使われている。「まだ理解していない」という翻訳語はネガティブに聞こえるかもしれない。だが「ウーデポー」は「今のところはまだ理解していない」という意味を持っている。それは「完全な理解」ではないが、「今後に希望を持ちうる無理解」であり、今はまだ理解していないが、今後はっきりと理解する事が出来る「ようになるであろう「希望的観測」を含んだ、ポジティブな否定詞である。
 我々の信仰においても同じことが言える。我々もまた「ウーデポー」の信仰なのかもしれない。今はまだはっきりとは見えない、いつも信仰の途上にある「希望に向かう民」である。神の主権と支配の中で、共に成長し、歩んでいきたいと願う。