2018.03.04 説教から

   <34日の説教から>
            『風を叱る』
        マルコによる福音書435節~41
                       牧師 三輪地塩
 
 舟に乗っていたのは、ガリラヤ湖の“専門家”である漁師出身のペトロたちであった。その彼らが恐れおののくほどの嵐が吹いのだから、かなりの暴風であったのだろう。彼らは怯えた。「死んでしまうかもしれない」「何とかしなければ」、そう思った弟子たちはイエスに目を向けた。「しかしイエスは舟の艫の方で枕をして眠っておられた」のであった。悠長に眠っているイエスを見た弟子たちは、イエスの存在に安心するどころか、「苛立った」のであった。彼らは「イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った」のである。
 この弟子たちの苛立ちは、我々が日常の中で、「あたかも神がいないかのように毎日を過ごしてしまっていることへの悔い改めを促すだろう。もしガリラヤ湖が平穏で安心に航行できる状態であったら、イエスの眠りを妨げることはなかっただろう。或いは、寝ている事にすら気付かなかったかもしれない。そして「平穏であること」「安心して航行できること」への感謝を忘れて歩んでしまうのである。
だが、ひとたび大嵐が来ると、安らかに眠っているイエスを叩き起こし、自分たちが窮地に立たされている事に怒りを覚え、その原因をイエスに向けてぶつけるのである。この姿は、我々に似ている。平穏の中では神を忘れるのに、困難になると突然神に八つ当たりしてしまう私たち。安心できる時には神が何をなされようとしているのか考えもしないが、ひとたび自分に被害が生じると、神を恨み、神に怒りを発するのだ。我々の信仰が、何とも脆く、躓きやすいものであるかを、この箇所は弟子たちを通して我々に伝えている。
このような我々人間の不安と恐怖に対し、イエスは悠然と起き上がり嵐を静めた。風はやみ、高波は凪になった。自然を従わせるイエスの姿を見て、弟子たちは恐れおののく。嵐と波の力に恐れおののいていた彼らは、それ以上の力を見て神に畏れおののいた。神が共に(艫に)おられるのであれば、我々にはもはや「安心」しかない