2018.04.12 説教より

422日の礼拝説教から>
『五千人の給食』
マルコによる福音書630節~44
                 牧師 三輪地塩
 5つのパンと2匹の魚について、原文でパンは「アルトス」という語が使われている。これは小さなパンを示す。そこに2匹の魚があったとしても焼け石に水であり、何の足しにもならない食料であった。しかしこの箇所が語るのは、その小さな食料が、5000人の成人男性たちの空腹を満たした、という驚異的な出来事であった。「パンを食べた人は、男が5000人であった」と締め括られている通り、男性に限って言えば5000人であった、という事であり、女性を含めるともっと数字は大きくなると思われる。

 マタイ福音書1413節の平行箇所と比べてみると、小さな言葉の違いでありながら、正反対の事を語っている部分がある。マタイ福音書1416節では、空腹の人々を見て、イエスは言う。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。これに対して弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と応答している。英訳では「We have only fiveloaves」。つまり「five loves」(5つのパン)「only」(しかない)と訳しているのである。新共同訳も「5つのパンと2匹の魚しかありません」というように、「しか~ない」の言葉を使って邦訳している。

 だがこれに対してマルコ638節では、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」というイエスの言葉に対し、弟子たちは持っている食料を確認した上で「五つあります。それに魚が二匹です」と結果報告をするのである。ここには、5つしかない」「2匹しかない」という消極的ものではなく、まるで「ある」ものを(例えそれが少なかったとしても)喜んでさえいるように感じられる応答となっている。喜んでいなかったとしても、少なくとも「事実確認」以上でもそれ以下でもない、「正しい現状把握」を行っている。
我々人間は、多いとか少ないなどと言いながら、その量に対して、評価をする。善悪の評価、幸不幸の評価、喜びと悲しみという評価を、その「量」「数」によって行うのだ。我々が主の言葉を信じ、それに従って「~しかない」から「~もある」と喜びの認識に変わる事が出来れば、本当に5つのパンと2匹の魚で5千人を養うことが出来るかもしれない。