2018.11.04の説教から

 
              <114日の説教から>
                『山も動く
            マルコによる福音書1120節~26
                         牧師 三輪地塩
 
  赦すというのは大変難しいものであり、誰でも彼でも、
 何でもかんでも赦すことなどできない。或いは、キリスト
 者だから、信仰者だから「赦さねばならない」と自分の能
 力や素質以上の義務を自分に課してしまうことがあった
 とするならば、信仰が信仰者を破壊することにもなりかね
 ない。「赦せない私は信仰者としては劣ってる」と、もし
 考える事があったならば、それは、赦すことを義務化し、
 赦せない自分自身の足りなさばかりを見つめることにな
 ってしまう。

  しかし、そうであっても、もし主の「愛に押し出された
 赦し」が成り立つのならば、大変に素晴らしいものとなる
 だろう。我々の教会という共同体は、神を礼拝する者たち
 が集まった信仰者同士の交わりである。そこには一つの神
 に対して、一つの信仰が、一つの礼拝によって守られてい
 る場所である。心の中で、隣り人を裁いたまま、仲たがい
 したまま、或いは憎しみをもったまま祈ることは、神への
 不敬、つまり、神への敬いを失った行為となるのである。
 他者への赦しを失ったまま、神様から自分自身の罪の赦し
 を願うことはできない。25節にあるように、「立って祈る
"margin:0mm 0mm 0pt;line-height:115%;"> とき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦し
 てあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父もあなた
 がたの過ちを赦してくださる。」と主は言われる。人を赦
 さないままで祈るとき、自分自身が神から赦されたことに
 まで疑いが生じてくる。私がこんなに赦せていないのに、
 私の罪は赦される筈がない。そのように感じてしまうと
 き、神様の赦し自体を疑ってしまうのである。しかし、神
 はキリストの十字架の赦しは、疑いの余地のないほどに、
 完全な赦しとして完成される。我々の赦しの根源はまさに
 ここにあるのだ