2019.8.4 週報掲載の説教

<2019年1月13日の説教から>

『ダビデの子』

マルコによる福音書12章35節~37節

牧師 三輪地塩

紀元前600年~500年頃から、「メシアはダビデの末裔から生まれる」という「メシア待望」がユダヤ教の中で生まれた。ユダヤ人たちはメシアの到来を待ち望んでいた。イエスの時代、ユダヤ人たちはローマの圧政を受ける中で、強いメシア、解放者、戦う救世主の到来を願っていた。ダビデのように、南と北を統治し、統一王国を作るほどのリーダーの資質を持った者であり、戦闘民族ペリシテ人の「身長3メートルのゴリアト」を、投石一撃で倒してしまった、あの武勲に長けた人物。それが、民衆の望むメシアの姿であった。

しかしイエスは、今日の箇所で「どうしてメシアがダビデの子なのか」と、否定的に語る。それは、この時のユダヤ人たちが、単に「英雄」を求めていたからに他ならない。

エイブラハム・リンカンを英雄として信じる者たちは、リンカンを神と同じと考え、神格化されたリンカン像を待望するわけです(そこにバラク・オバマがリンカンを彷彿とさせる仕方で登場し、当時の米国は熱狂した)。

当時のユダヤ人たちは、イエスに対し、自分たちの勝手な「英雄像」を当て嵌めて「神格化」したのである。イエス・キリストを神格化した、というのは言葉の矛盾ではあるが、しかし、「神格化されたダビデ」を当て嵌めて「イエスを神と呼んでいる」ところが問題なのである。

旧約聖書の「サムエル記」は、ダビデを神格化することを殊更に嫌い、彼を徹頭徹尾「罪ある」「間違いを犯す」「人間」として描くことを是としている。ダビデは立派な王であったのは事実かもしれないが、結局人間の域を超えることのできない弱い人間でしかなかった。しかしユダヤの人々は、彼を英雄視しすぎてしまい、過剰な期待を込めて、到来するメシアが「ダビデの子」であると信じ込んでしまっていたのだ。そのためイエスは言うのである。「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と。

イエスが、明らかに「父なる神の独り子であった」ということは、英雄であったからではない。最も端的に、そして目に見える仕方で、「神の愛」を示されたからに他ならない。彼はダビデのような武勲はない。領土を広げることに心血を注いだのでもない。彼は十字架の上で「神の独り子」であることを証しした。人を殺めて英雄になるのではなく、人に殺められて、神の子であることを証しした「真の人にして、真の神」であった。