2019.9.8 週報の礼拝案内

週 報 74362019. 9.8
死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。(ペトロの手紙一 4章6節)

主 日 礼 拝  午前 10:30        奏楽 岩 本 道 子

<神の招き>

招 詞  ヨエル書3章1節

*讃 詠  (21)83

*罪の告白と赦し 交読詩編145編17節~21節

*讃美歌  (21)3〔1-3〕

<神の言葉>

聖 書  箴言10章9節~12節   (旧約P.1003)

ペトロの手紙一4章1節~11節

(新約P.432)

祈 り              加 藤 純 子

*讃美歌  (21)411

説 教 「愛は多くの罪を覆う」  三 輪 地 塩

<神への応答>

*讃美歌  (21)57

*日本キリスト教会 信仰の告白

入会式             (平野 桃子)

讃美歌  (21)513

公 告

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄  (21)46

*派遣と祝福

*後 奏

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は

お座りのままでどうぞ。

礼拝当番(今週)伊木、済陽、福永真、藤沢

(次週)加藤、岩本、星野、松沢

掃除当番(今週)済陽、森﨑、國久、新畑

鈴木惠、小出勝、武政み

(次週)深沢、阿部、岡野、松沢

小出和、室橋、

*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2019.9.8 週報掲載のお知らせ

バザー品提出のお願い
次週からバザー用品を集めます。事務室隣りの部屋に

お持寄りください。食料品は賞味期限内のもの。

衣料品は汚れやシミの無いものでお願い致します。

(担当 福永真理)

【タビタの会献金のお願い】

期間:9月~11月末まで献金をお受けいたします。

タビタの会献金は日本キリスト教会の牧師として教会

に仕えてこられ、引退された先生方とそのお連れ合いの方々の生活支援や傷病のお見舞いなどに用いられます。

 

2019.9.8~9.14 今週の集会

集 会

〇日曜学校                 9:00

〇朝カフェ(担当 松谷信司)        9:30

〇入門の会(担当 三浦勇二)          9:45

〇クワイア練習                  礼 拝 後

〇コイノニア                礼 拝 後

〇第4回執事会  9月15日 12:00に延期となります。

〇壮年会                  礼 拝 後

〇テモテ交わりの会             同 上 後

今 週 の 集 会

◎祈祷題「聖書の学びと祈りの会のため」

「中会長老・執事・委員研修会のため」

〇聖書の学びと祈りの会は午前・午後とも

718()~912()まで休会です

◇牧師予定

〇北関東牧師会(宇都宮松原教会)  9日(月)

〇第67回日本基督教学会(青山学院大) 9日~10日(月・火)

〇第78回日本宗教学会(帝京科学大)  13日~15日(金~日)

 
次 週 礼 拝

説教「神の栄光が留まる」        三 輪 地 塩

エレミヤ書25章27節~29節

ペトロの手紙一4章12節~19節

讃美歌 (21)83、16(1-3)、18、361、46 三 輪 志 都

日曜学校説教「異国にいる寄留者」     伊 木 美穂子

出エジプト記2章11節~25節

2019.9.8 週報掲載の説教

<2019年2月10日の説教から>

天地は滅びるがわたしの言葉は決して滅びない』 
マルコによる福音書13章24節~31節

牧師 三輪地塩

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31節)とあるが「滅びる」はギリシャ語で「パレルコマイ」という単語が使われている。「過ぎ去る」と訳される語であり「過ぎ行くこと」は「そこから無くなること」を示すため「滅びる」の意味を持つ。このイエスの言葉から、我々はイザヤ書40章8節の「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という有名な一節を想起する。

預言者イザヤがこの言葉を語る時、その背景には、厳しいバビロン捕囚期の出来事があった。エルサレムからバビロンに連行されたイスラエルの民は、異国の地で、囚われの身となっていた。ヤハウェ神殿から切り離され、人間の尊厳を失う絶望の中で民は不安を抱えていた。だがイザヤ(正確には「第二イザヤ」と呼ばれる、イザヤの神学系統に属する無名の預言者)は、「神は苦しみの中から新しい御業を始められる」との展望を語る。「神の言葉はとこしえに立つのだから、これまで語られた言葉には偽りはない」と、絶望の中で希望を語る。

地上の形あるものはみな滅び過ぎ去っていく。あたかも最初から無かったかのように消えていく。人間の死も同様である。日本人はそれを「諸行無常」と語り、「諦観」の思いと共に終わりを待つことを「美徳」と考えてきた。

だがイエスは、我々の命は「諦観」によって慰められるのでは“ない”と語る。諦めは麻薬のように、我々の恐怖を麻痺させることは出来るかもしれない。だが、キリスト教信仰においてはその必要はない。「使徒信条」にあるように、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」の後に「体の復活、永遠の生命を信ず」と告白して我々の信仰の全体を言い表し、「アーメン」(そのとおり)と言って閉じられる。「我々の命の最後」と「終末」は不可分なものではない。同様に、我々の命は「主にあって永遠性を持つものとして、天国と不可分なものではないことが示される。キリストを信ずる者の命は、生きるにも死ぬにも、神の永遠性の中に存在する。つまり、希望をもって死を迎えることが許されているのである。