2019.9.22 週報の礼拝案内

週 報 74382019. 9.22
あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山のひとつに登り、彼を焼き尽くす捧げ物としてささげなさい。  (創世記22章2節)

主 日 礼 拝  午前 10:30
司式 三 浦 勇 二                     奏楽 板 垣 玲 子

<神の招き>

招 詞  ヨエル書3章1節

*讃 詠  (21)83

*罪の告白と赦し 交読詩編146編3節~6a節

*讃美歌  (21)2

<神の言葉>

聖 書 創世記22章1節~14節  (旧約P.31)

ヘブライ人への手紙12章5節~7節   (新約P.417)

祈 り

*讃美歌  (21)210

説 教 「なぜ、イサクを」    森 﨑 千 恵

<神への応答>

*讃美歌  (21)352

*十 戒

公 告

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄  (21)46

*派遣の言葉

*後 奏

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は

お座りのままでどうぞ。

**************************************************************************

礼拝当番(今週)加藤、菊地、松本、室橋

(次週)三浦、島口、諸見、安井

掃除当番(今週)入江、増田、塩澤、岩本

吉田耕、吉田さ、武政

(次週)菊地晴、松本、浜田、佐藤真

加藤ヨ、板垣、草野

*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2019.9.22 週報掲載のお知らせ

◇本日、三輪地塩牧師は、「全国青年の集い」出席のため、礼拝説教は長老森﨑千恵が代わって奉仕します。

 
【神学校特別講義】

テーマ:「カルヴァンにおける戦争と平和」

日 時:10月4日(金) 13:30~16:20

講 師:吉田 隆(神戸改革派神学校校長)

*公開講義ですので、ご自由に来会ください。昼食を申し込まれる方は、9月27日(金)までにお申込みください。

(昼食代600円)☎ 049-233-5542 FAX 049-233-7039

 
◇9月から「『教会員の生活』による学びの会」を行なっています。どなたでも参加できます。出席される方は『教会員の生活』をご持参下さい。お持ちでない方は購入できます。

☆ 次は、来週 9月29日(日)9時30分~10時15分(1階)。

2019.9.22~9.28 今週の集会

集 会

〇日曜学校                 9:00

〇朝カフェ(休会)             9:30

〇入門の会(担当 三浦勇二)         9:45

〇クワイア練習               礼 拝 後

〇コイノニア                礼 拝 後

今 週 の 集 会

◎祈祷題「会堂改修のため」

〇第2回「全国青年の集い」          21日(土)~23日(月)

大阪国際ユースホステル

〇聖書の学びと祈りの会               26日(木)10:00

歴代誌下6章(担当 三輪地塩)  司会 安 井 英 子

〇聖書の学びと祈りの会                    26日(木)14:00

詩編119編105節~112節       担当 大 和 文 彦

2019.9.22 週報掲載の説教

<2019年2月17日の説教から>

『目を覚ましていなさい』

マルコによる福音書13章32節~37節

牧師 三輪地塩

Apple社の創業者スティーブ・ジョブズは、その経営モットーを、マルコ福音書12章31節の「隣人を自分のように愛しなさい」に置いていたと言われる。彼は2003年、若くして膵臓ガンを発症し、死去までの8年間、「永遠や終わりを思う生活だった」と右腕ロン・ジョンソンは証言する。ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で語ったスピーチの中に、次のような一節がある。
“ If today were the last day of my life, would I want to do  what I’m about to do today? ”
「もし今日が私の人生最後の日だとしたら、今日 私がやろうとしていることは、本当に私がやりたいことなのだろうか?」と。我々の生きる本来的な意味を考えさせられる。

「アンパンマン」作者、やなせたかしは、日本聖公会の信者であるが、彼の作詞した主題歌にはこうある。「何のために生まれて、何して生きるのか。答えられないなんて、そんなのはいやだ」「何が君の幸せ、何をして喜ぶ。分からないまま終わる。そんなのはいやだ」。

我々には生きる喜びが与えられ、生きる意味が与えられ、生きる必要が与えられている。最後まで分からずに生涯を閉じる者もあれば、明確にされる者もある。

信仰者には「キリスト」という意味が与えられている。何のために生きるのか。それは「キリスト」であると。しかし、ここ注意深く考えねばならないが、「キリストのために生きること」が生きる目的なのではない。「生きる目的そのものがキリスト」「生きる意味そのものがキリスト」なのである。

どういう意味か。それは、「隣人を愛すること」と置き換えることも、「十字架を共に生きること」と置き換えることも出来る。或いは「神と共に生きること」と置き換えても良い。いずれにせよ我々の「生命」「生きる意味」は、徹頭徹尾「キリストの存在そのものの内にある」のである。

「終末」を考えるとき、「生きる意味」「どう生きるのか」が立ち上がってくる。「終末」は、決して、未来に起こる、我々と無関係な出来事を意味するのではなく、「今の私」「今のあなた」が「どう生きているか」を指し示す座標となる。