2019.9.8 週報掲載の説教

<2019年2月10日の説教から>

天地は滅びるがわたしの言葉は決して滅びない』 
マルコによる福音書13章24節~31節

牧師 三輪地塩

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31節)とあるが「滅びる」はギリシャ語で「パレルコマイ」という単語が使われている。「過ぎ去る」と訳される語であり「過ぎ行くこと」は「そこから無くなること」を示すため「滅びる」の意味を持つ。このイエスの言葉から、我々はイザヤ書40章8節の「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という有名な一節を想起する。

預言者イザヤがこの言葉を語る時、その背景には、厳しいバビロン捕囚期の出来事があった。エルサレムからバビロンに連行されたイスラエルの民は、異国の地で、囚われの身となっていた。ヤハウェ神殿から切り離され、人間の尊厳を失う絶望の中で民は不安を抱えていた。だがイザヤ(正確には「第二イザヤ」と呼ばれる、イザヤの神学系統に属する無名の預言者)は、「神は苦しみの中から新しい御業を始められる」との展望を語る。「神の言葉はとこしえに立つのだから、これまで語られた言葉には偽りはない」と、絶望の中で希望を語る。

地上の形あるものはみな滅び過ぎ去っていく。あたかも最初から無かったかのように消えていく。人間の死も同様である。日本人はそれを「諸行無常」と語り、「諦観」の思いと共に終わりを待つことを「美徳」と考えてきた。

だがイエスは、我々の命は「諦観」によって慰められるのでは“ない”と語る。諦めは麻薬のように、我々の恐怖を麻痺させることは出来るかもしれない。だが、キリスト教信仰においてはその必要はない。「使徒信条」にあるように、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」の後に「体の復活、永遠の生命を信ず」と告白して我々の信仰の全体を言い表し、「アーメン」(そのとおり)と言って閉じられる。「我々の命の最後」と「終末」は不可分なものではない。同様に、我々の命は「主にあって永遠性を持つものとして、天国と不可分なものではないことが示される。キリストを信ずる者の命は、生きるにも死ぬにも、神の永遠性の中に存在する。つまり、希望をもって死を迎えることが許されているのである。