2019.9.22 週報掲載の説教

<2019年2月17日の説教から>

『目を覚ましていなさい』

マルコによる福音書13章32節~37節

牧師 三輪地塩

Apple社の創業者スティーブ・ジョブズは、その経営モットーを、マルコ福音書12章31節の「隣人を自分のように愛しなさい」に置いていたと言われる。彼は2003年、若くして膵臓ガンを発症し、死去までの8年間、「永遠や終わりを思う生活だった」と右腕ロン・ジョンソンは証言する。ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で語ったスピーチの中に、次のような一節がある。
“ If today were the last day of my life, would I want to do  what I’m about to do today? ”
「もし今日が私の人生最後の日だとしたら、今日 私がやろうとしていることは、本当に私がやりたいことなのだろうか?」と。我々の生きる本来的な意味を考えさせられる。

「アンパンマン」作者、やなせたかしは、日本聖公会の信者であるが、彼の作詞した主題歌にはこうある。「何のために生まれて、何して生きるのか。答えられないなんて、そんなのはいやだ」「何が君の幸せ、何をして喜ぶ。分からないまま終わる。そんなのはいやだ」。

我々には生きる喜びが与えられ、生きる意味が与えられ、生きる必要が与えられている。最後まで分からずに生涯を閉じる者もあれば、明確にされる者もある。

信仰者には「キリスト」という意味が与えられている。何のために生きるのか。それは「キリスト」であると。しかし、ここ注意深く考えねばならないが、「キリストのために生きること」が生きる目的なのではない。「生きる目的そのものがキリスト」「生きる意味そのものがキリスト」なのである。

どういう意味か。それは、「隣人を愛すること」と置き換えることも、「十字架を共に生きること」と置き換えることも出来る。或いは「神と共に生きること」と置き換えても良い。いずれにせよ我々の「生命」「生きる意味」は、徹頭徹尾「キリストの存在そのものの内にある」のである。

「終末」を考えるとき、「生きる意味」「どう生きるのか」が立ち上がってくる。「終末」は、決して、未来に起こる、我々と無関係な出来事を意味するのではなく、「今の私」「今のあなた」が「どう生きているか」を指し示す座標となる。