2019.10.06 週報掲載の説教

<2019年2月24日の説教から>

『ナルドの香油』
マルコによる福音書14章1節~9節

牧師 三輪地塩

ある女性がイエスのもとにナルドの香油を持って来た。香油は純度が高く大変高価な物だっだが、惜しげも無くその壺を割りイエスの頭に注いだ。この香油は、殺菌効果の高い植物で作られた防腐剤であり、葬りの準備をするものであった。この女性がなぜ高価な香油を持っていたのかは分からない。元々良い家柄の女性なのか、頑張って貯めたなけなしのお金で買ったものなのか。

この香油注ぎを見た弟子たちは憤慨した。「大変な無駄遣いをした!なんてバカなことをしたのだ!」と。もっとも、弟子たちのこのような批判もあながち間違いとは言えない。ベタニアという町は「貧しい者たちの町」であったため、共に同じ痛みを背負っている者たちに対して施しをした方が、有効活用できたと思われるからだ。弟子たちの批判は正論であるし、相互扶助や助け合いの観点から言っても、ごもっともな意見であることは間違いない。

だがここで彼女が行なっているのは、単にイエスのため、イエスの葬りの準備のため、ということだけでなく、その根本にある、イエスへの愛、神への愛の表現である。何よりも、彼女のこの奉仕の行為が、極めて十字架的なものであるということが重要である。人間の目には全くの無駄な行為であるように映ってしまうことの中に、神の愛の本質、救いの本質がある、という意味において、彼女の行為は「十字架的」である。

彼女の献げ物は、人間の評価、経済原理、貧困や富、など、この世の人間的価値観を越えるものであった。彼女は様々なしがらみを越え、解放され、自由になり、一心に十字架に向かって歩む命へと切り替えたのだ。その意味において、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」という最後の言葉は真実となる。