2019.10.13 週報の礼拝案内

週 報 74412019. 10.13
だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(ペトロの手紙二 1章5-7節)

主 日 礼 拝  午前 10:30
奏楽 三 輪 志 都

<神の招き>
招 詞  イザヤ書57章15節

*讃 詠  545b

*罪の告白と赦し 交読詩編147編8節~11節

*讃美歌  67

<神の言葉>
聖 書 イザヤ書66章1節~2節        (旧約P.1169)

ペトロの手紙二 1章1節~11節   (新約P. 436)

祈 り              森 﨑 千 恵

*讃美歌  292

説 教 「愛を加えなさい」    三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌  Ⅱ184

*ニカイア信条

公 告

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄  544

*派遣と祝福

*後 奏

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は

お座りのままでどうぞ。

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礼拝当番(今週)松谷、新畑、青木、板垣

(次週)伊木、薄田、入江、越智

掃除当番(今週)河野武郎、安井英、大嶋

菊池淑、栗原、島口

(次週)福永真、松谷、伊木、須田

國見、河野武子、佐藤允

 
*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2019.10.13 週報掲載のお知らせ

次 週 礼 拝

<秋のオープンチャーチ・合同礼拝>

説教「救いのしるし」        三 輪 地 塩

出エジプト記12章21節~28節

ヘブライ人への手紙 11章28節

美歌 546、68、312、Ⅱ157、539  加 藤 純 子

◇「教会員の生活」による学びの会次回は27日(日)です。

◇今週、16日~18日まで第69回大会(柏木教会)です。

正議員:三輪地塩牧師、三浦勇二長老(16日17日午前)

伊木美穂子長老(17日午後、18日)

投票補助:森﨑千恵  奉仕(会場片付け):野田昭子
  秋のオープンチャーチ・オータムフェスタ
10月20日(日)10:30~ 礼拝

礼拝後11:30~13:30 バザー

抹茶チケット、入場料チケット(500円)販売中。

入場料チケット購入:4店舗で食べ放題。
日本キリスト教会手帳】2020年度は発行致しません

2019.10.13~10.19 今週の集会

集 会

 
〇日曜学校                 9:00

〇朝カフェ(担当 松谷信司)        9:30

〇入門の会(担当 三浦勇二)           9:45

〇クワイア練習                  礼 拝 後

〇コイノニア                 礼 拝 後

〇朝カフェ(ワークショップ)         礼 拝 後

〇壮年会                   礼 拝 後

〇テモテ交わりの会              同 上 後

今 週 の 集 会

 

◎祈祷題「会堂改修のため」「オータムフェスタのため」

〇靖国神社問題全国協議会(大森教会)15日(火)15:00

〇第69回大会(柏木教会)    16日(水)~18日(金)

〇全国長老交流会      16日(水) 18:15~

〇聖書の学びと祈りの会         17日(木)10:00

エレミヤ書31章31節~34節(担当 増田裕子)

司会 岡 野 庸 子

〇聖書の学びと祈りの会          17日(木)14:00

詩編121編             担当 大 和 文 彦

〇バザー準備          19日(土)10:00

2019.10.13 週報掲載の説教

<2019年3月3日の説教から>

『ユダの裏切り』
マルコによる福音書14章10節~21節

牧師 三輪地塩

「最後の晩餐」は、聖書のエピソードの中で最も有名な場面の一つである。ここには「敵」の只中で孤立するイエスの姿を見ることができる。祭司長、律法学者たちの包囲網を掻い潜って、見つからないように過ごしているイエス一行であったが、このイエスらを慕う者たちもおり、その無名の篤志家によって、彼の自宅の二階が提供され、最後の晩餐が開かれた。敵の中にある「味方の存在」がこの場面を作った

「ユダの裏切り」という行為は、ドラマチックな場面であるが、他方では、神の救いの計画の一部分を為しているということもできる。神は、ご自身の壮大な計画の中にユダの存在を含め、受難、十字架、死、復活という出来事によって救いの計画を成就させようとしている。すなわち「神の必然は何だったのか」ということである。イエスは御自分の苦難の道を知っていた。しかし、ゲツセマネの祈りにあるように、神の計画したことを、「死ぬばかりに悲しみながら」、それを受け入れている。この大きな神の計画の中にあって、ユダの裏切りはまさに「必然」となって現われたのだった。

その意味において、ユダがイエスの敵であるとか、他の弟子たちが味方である、という分け方は正しいとは言えず、全ての存在が神の計画に携わっている事実のみである。我々の人生の歩みを振り返ってみても同じことが言える。自分にとって敵と思われた人が、実はそのおかげで注意深く行動を取れるようになったとか、敵とされる人の指摘や反論があったおかげで、立ち向かい方が養われ、自分自身が強さを増していくきっかけを与えられた、などである。キリストを銀貨30枚で売ったイエスの「敵」は、聖書において特別な罪を犯すが、だが我々がユダの罪を持っていないかと言えばそうではない。我々も時にユダと同じ心の弱さを露呈し、つみを犯してしまうこともあり得るのである。キリストと共に生きるとは、我々が自分の利のためにキリストを売ってしまうかもしれない、という弱さを抱えながら、その弱さと共にキリストが歩んで下さる事を信じることにほかならない。このようなキリストに敵対してしまいがちな、「この私」をも、主は、主の救いの計画のうちに用いて下さるのである。