2019.10.13 週報掲載の説教

<2019年3月3日の説教から>

『ユダの裏切り』
マルコによる福音書14章10節~21節

牧師 三輪地塩

「最後の晩餐」は、聖書のエピソードの中で最も有名な場面の一つである。ここには「敵」の只中で孤立するイエスの姿を見ることができる。祭司長、律法学者たちの包囲網を掻い潜って、見つからないように過ごしているイエス一行であったが、このイエスらを慕う者たちもおり、その無名の篤志家によって、彼の自宅の二階が提供され、最後の晩餐が開かれた。敵の中にある「味方の存在」がこの場面を作った

「ユダの裏切り」という行為は、ドラマチックな場面であるが、他方では、神の救いの計画の一部分を為しているということもできる。神は、ご自身の壮大な計画の中にユダの存在を含め、受難、十字架、死、復活という出来事によって救いの計画を成就させようとしている。すなわち「神の必然は何だったのか」ということである。イエスは御自分の苦難の道を知っていた。しかし、ゲツセマネの祈りにあるように、神の計画したことを、「死ぬばかりに悲しみながら」、それを受け入れている。この大きな神の計画の中にあって、ユダの裏切りはまさに「必然」となって現われたのだった。

その意味において、ユダがイエスの敵であるとか、他の弟子たちが味方である、という分け方は正しいとは言えず、全ての存在が神の計画に携わっている事実のみである。我々の人生の歩みを振り返ってみても同じことが言える。自分にとって敵と思われた人が、実はそのおかげで注意深く行動を取れるようになったとか、敵とされる人の指摘や反論があったおかげで、立ち向かい方が養われ、自分自身が強さを増していくきっかけを与えられた、などである。キリストを銀貨30枚で売ったイエスの「敵」は、聖書において特別な罪を犯すが、だが我々がユダの罪を持っていないかと言えばそうではない。我々も時にユダと同じ心の弱さを露呈し、つみを犯してしまうこともあり得るのである。キリストと共に生きるとは、我々が自分の利のためにキリストを売ってしまうかもしれない、という弱さを抱えながら、その弱さと共にキリストが歩んで下さる事を信じることにほかならない。このようなキリストに敵対してしまいがちな、「この私」をも、主は、主の救いの計画のうちに用いて下さるのである。