2019.10.27 週報掲載の説教

<2019年3月10日説教から>

『最後の晩餐』 
マルコによる福音書14章22節~26節

牧師 三輪地塩

イエスが十字架にかかる前夜の「最後の晩餐」での出来事。イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と発言し、弟子たちはショックを受けた。彼らは代わる代わる「まさか、わたしのことでは」と言い始めた。この弟子たちの姿勢は悪くない。なぜなら、「それは私ではありません」ではなく「それは私かもしれません」と言っているからである。人は罪を犯す。それが前提である。どんな立派な人間であっても、どんなに社会的地位が高くても、「聖人」と呼ばれるような者であっても、みんな罪人である。それ故に、「まさか私のことでは」と尋ねる姿勢は正しい。

この衝撃発言の後でも、イエスは晩餐を続け、これが十字架前の最後の晩餐となったのである。我々の礼拝においても、次の言葉は聖餐式でお馴染みである。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」。この言葉は重要だ。キリストの十字架の血が、個人の罪ではなく「多く人の罪のために流されたものである」と書かれているからである。ユダは明らかな「裏切り者」のレッテルを貼られる人物になったが、この罪をユダのみに着せることはできない。我々の内に「ユダ性」が秘められており、「ユダ的に」罪を犯す可能性から目を背けてはならない。ユダは我々人間界の彼岸に存在するのではなく、まったく我々と同じ此岸の存在である。それは、他の弟子たちが、それぞれの仕方でイエスを裏切った事にも示される。例えばマルコ福音書14章50節には「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあり、続く51節には「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。とある。また同14章71節には「するとペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなた方の言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」とある。ユダ以外の弟子たちもイエスを裏切っている。それは我々人間全ての姿だ。そこに言い訳も弁明も釈明もできない。我々に残されている行為は、この罪を赦し得るのは、「多くの人の罪のために流された」「キリストの十字架以外にない」と告白することのみである。