2019.12.15 週報掲載の説教

<2019年4月7日説教から>

イエスの裁判

マルコによる福音書14章53節~65節

牧師 三輪地塩

 
イエスの活動は、律法学者たちの反感を買った。イエスが神の律法に違反しいるように、律法学者たちの目に映ったからである。しかしイエスは彼らの間違いを臆することなく追求した。

主イエスは、彼らとことなり、律法を文字どおりにではなく、律法の「文字」にではなく、「守るべき内容の意味」を大切にしようとされた。イエスは、神から与えられた律法の意味は「愛すること」であると再解釈したのであった。「神を愛し、隣人を愛する」ことこそが「最も重要な掟である」とイエスは述べた。

また、当時は罪人と見做されていた病人や障がい者たちを次々に癒やした。困っているからでも、不自由そうだからでもない。それは救いの副産物であり、最も重要なのは、魂の救い、永遠の命をうけること、にあった。「この人をもう誰も罪に問うことのないように」と語り、体の癒やしはその証拠となって表出した現象であった。

律法によって「罪人」と見做された者たち、社会の中で疎外されている者たちを、共に同じ食卓に呼び寄せ、主にある交わりに加えた。人間は特定の人だけが罪深い者であるのではなく、格差も価値の差もなく、皆が罪深く、皆が救いに値することを示す行為であった。しかしこのような行動は、律法学者には受入れがたく、そこに「殺意」が芽生えたのであった。

過越祭になり、イエスがエルサレムに入城した時、神殿を訪れたイエスは、境内で不当な商売がなされている様子と、それを許可している祭司・律法学者たちの姿を見て、「ここは強盗の巣だ。あなたがたが祈りの家を強盗の巣にしてしまった」と非難し、商売人たちの台をひっくり返した。これこそが、祭司長たちの目に「神殿への暴挙」「神に対する冒涜」と映り、十字架刑への道を決定的とした。表面的な「律法の遵守」を求めた律法学者に対し、その内実(つまり神の愛の豊かさ)を求めたイエスは、「文字を」遵守する者たちに十字架にかけられた。それは、「神の言」(ヨハネ福音書1章)が、「文字信奉者」によって極刑に処されることであった。だが我々は、神の「文字」ではなく「神の言」が真実であり、その言葉が、「愛の言葉」であることを知っている。クリスマスを迎える我々は、この「神の言」が来られたことの意味と、神の救いの内実に思いを寄せたい。