2020.1.26 週報掲載の説教

<2019年5月12日説教から>

『自分は救えないイエス』
マルコによる福音書15章21節~32節

牧師 三輪地塩

 
イエスは、ゴルゴタの丘に連れ出された。そこへシモンという男が通りかかる。彼は「アレクサンドロとルフォスという二人の息子の父親であった」。「キレネ人」だったことから、現在のリビア、つまり北アフリカ出身者であることが分かる。彼がなぜここにいたのかは分からない。元々エルサレム近郊で働いていたのか、過ぎ越し祭の為にはるばるキレネから来たのか。一つだけ確かなことは、「たまたまそこを通りかかった」、ということである。偶然そこを通りかかったため、彼はイエスの代わりに「十字架」を背負わされる羽目になる。彼にとっては、見ず知らずのイエス某のために重労働を強いられることは、とんだとばっちりであった。

だがこのキレネ人シモンは、この強いられた重労働に対し、何の文句も言っていない。彼は、この箇所以外何処にも出てこない。十字架をイエスの代わりに背負わされた、ということだけが聖書に記されている。

しかし、ローマ書16章13節には、「主に結ばれている、選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく」とある。これが同一人物であるか議論の分かれるところであるが、おそらくこの箇所に出てくる「ルフォス」ではないかと考えられている。つまり、父であるキレネ人シモンが、この十字架を背負わされたことを切っ掛けにして、シモンの一家は、キリストと出会ったと考えられる。たまたまそこを通りかかったように描かれているが、この偶然の出会いの中に、神との必然の出会いが示されている。

コヘレトの言葉3章11節にはこう記されている。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」

このように、全ての行為は、主の目に正しく値高いものとなる。キリストとの出会い方は様々であっても、全ては神の配剤、神の計画の中にある。