2020.3.15 週報掲載の説教

<2019年6月9日説教から>

『マグダラのマリアに現れるイエス』            
      マルコによる福音書169節~13
牧師 三輪地塩

「彼らは二人の言うことを信じなかった」と聖書は証言する。

信じなかった理由は明白だ。「信じて聞かなかったから」である。「信じることが出来ない」という状態は、「何かに縛られた状態」と言い換えることもできる。「復活を信じない」何らかの枠組み、価値観、復活の不可能性に縛られた死生観。それらは啓蒙主義の現代社会にも似ている。

マグダラのマリアはイエスの弟子の一人であったと言われる。彼女は、ガリラヤ湖の北西に位置するミグダル出身であるらしい。彼女について聖書は「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と紹介している。「七つの悪霊」の意味は明確ではないが、少なくとも「ふしだらな女性」を意味しない。むしろ、何らかの病気に罹っていたことを示すのか、または、人間関係や社会構造による「縛り」に取り憑かれるような状態だったのかもしれない。人はしばしば、家族、友人から大きな恩恵を受け、助けを受けて生きている。だが人間関係は、人間を最も強く縛り付ける要素でもある。世間体とか差別的な社会の偏見なども人を縛るかもしれないし、財産、地位、名誉もその要素である。又は、世間が勝手に作り出した「女性像」「女性らしさ」のような価値観が、マグダラのマリアを、がんじがらめに縛り付けていたのかもしれない。「女性らしく生きる」ことが強いられ、イエスの弟子として生きることは「女らしくない」と揶揄されたのかもしれない。様々な推測ができる「七つの悪霊」であるが、その共通項は「その人自身の思いとは異なる価値や状態に縛る」ということになるだろう。

復活のイエスの情報を聞いた弟子たちが、口を揃えて「信じなかった」と証言しているが、この時の聞き入れなかった者たちこそが、復活の命とは異なる価値観に縛られていたからにほかならない。それは、「死人は復活しない」という絶望の価値観である。

しかしキリストは我々を復活の価値へと解き放つ。絶望は命へと変えられる。死は生へと変えられるという希望の価値観である。我々は、根拠のない世間の縛りではなく、キリストの命に縛られたい。使徒パウロが「キリストのドゥーロス(奴隷)」と語ったように、キリストの復活の命に縛られたい。