2020.3.29 週報掲載の説教

<2019年6月23日説教から>

試練によって本物と証明される
ペトロの手紙一11節~12
              牧師 三輪地塩

「ポントス、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と書かれている。著者は小アジアに住むことを「仮住まい」と語る。口語訳聖書では「寄留する人たち」と訳されているのこの言葉は、キリスト教信仰の一面を表している。我々はこの世の寄留者、つまり「国籍は天にある」者たちなのだ、と。外国に住むのは非常に不便が多いものである。文化の違い、ものの考え方、生活習慣に至るまで、多くの違いが生じるため戸惑うことが多い。この手紙の読者たちは、異教の地で寄留生活をし「孤立」「孤独」を味わっていたのだろう。ペトロと呼ばれる著者、手紙の送り人は、彼らを励ますためにこの手紙を書いた。

寄留しているからといって適当に生活してみたり、雑に生きたりして良いはずがない。むしろ「本国」「故郷」の名に恥じぬよう、堂々とした寄留者であるべきであろう。すなわち、この世の寄留者であるキリスト者こそ、天の名に恥じぬよう、神の国の証言者として責任を持ってこの世を生きる必要がある。

6節には「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間は、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが~~」とある。小アジアという地方にとって「キリスト教徒」は、異教徒であり蔑まれる立場にあった。彼らは寄留者ゆえに蔑まれ、苦しんでいたのだ。だが著者は、「あなたがたは心から喜んでいる」と強調する。何故、悩まねばならないことがあるのに、「喜んでいる」と言うのか?しかも命令形ではなく断定形が使われるのは興味深い。それは、彼らが命令されたから喜びましょうという消極的な喜びではなく、彼らにとって「喜び」は既に与えられた「事実」「状態」であるという積極的なものだからだ。彼らにとっての苦しみ、迫害は、「今しばらくの間」と限定されている。苦しみの中にあっても、神の御手の内側にいることを信じなさいと奨められている。

『西遊記』のラストは面白い。「困難を極めた大旅行の末に、孫悟空・三蔵法師一行が気づいたのは、これまでの道のりが全てお釈迦様の手のひらの上であった」というオチがつく。第一ペトロの著者も言う。苦しみの中にある小アジアのキリスト者たちは、キリストの愛から疎外されているのではない。キリストの愛の内側で苦しんでいるのである、と。