2020.11.1 主日礼拝の案内

週 報  75巻 34号 2020.11.1
 
イエスは汚れた霊を叱り、

子供をいやして父親にお返しになった。

(ルカによる福音書9章42節)

主 日 礼 拝  午前10:30

奏楽  板 垣 玲 子

<神の招き>
 
招 詞 詩編115編1節

*讃 詠  545A

*罪の告白と赦し 交読詩編32編1節~2節

聖 書 ルカによる福音書19章11節~27節

(新約P.146)

日曜学校説教「イエスさまは恵み深い主人」

岩 本 道 子

*讃美歌 312〔1-2〕

<神の言葉>
 
聖 書 サムエル記下22章2節~4節

(旧約P.518)

ルカによる福音書9章37節~45節

(新約P.123)

祈 り

*讃美歌 234A〔1-2〕

説  教 「神の偉大さに心を打たれる」

三 輪 地 塩

<神への応答>
 
*讃美歌 537〔1-2〕

公 告

*主の祈り

*頌 栄  541

*派遣と祝福

*後 奏

「*」の箇所は起立して行いますが、

立つのが困難の方はお座りのままでどうぞ。

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礼拝当番(今週)松谷信司、薄田東正

(次週)三浦勇二、野田昭子

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2020.11.1 週報 教会からのお知らせ

◇本日は13:30から青葉園にて墓前礼拝を行います。

今年は従来のように教会から青葉園までの配車の

ご案内を致しませんので、ご了承ください。

◇11月定期小会は次週11月8日(日) 12:00から行います。 
◇個人消息

10月20日(火) 安藤律子さんが召されました。

享年81。

葬儀は25日(日) 礼拝後、13:00から

三輪地塩牧師司式により

浦和教会で行われました。

(火葬15時・戸田葬祭場)

皆様にお願い

これから寒いシーズンを迎えますが、

礼拝中・祈祷会中はウイルス感染予防のため、

窓を開け、換気を致しますので、各自、

寒くないような服装をなさいますようお願いします。

2020.11.2~11.8 集会案内

      集 会
〇「教会員の生活」による学びの会  休 会
〇朝カフェ             休 会
〇入門の会             休 会
〇クワイア練習           中 止
〇コイノニア            中 止
〇礼拝堂・1階の消毒・清掃(有志) 礼 拝 後
〇墓前礼拝(青葉園)       13:30
 今 週 の 集 会
◎祈祷題 「こども祝福式を覚えて」(11月8日)
〇聖書の学びと祈りの会 5日(木)   10:00
ヨハネの黙示録13章(担当 三輪地塩)
司会  鈴 木 惠 子
〇「生と死」の学び    担当 板 垣 玲 子
 ボンヘッファー著『共に生きる生活』第1回
〇聖書の学びと祈りの会  5日(木)14:00
ヨブ記2章        担当  大 和 文 彦
次 週 礼 拝
<こども祝福日・合同礼拝>
説教 「最も小さい者こそ最も偉い」 三 輪 地 塩
  イザヤ書5章15節~16節
  ルカによる福音書9章46節~48節
讃美歌
545B、454(1-2)、514(1-2)、284(1-2)、542
                                 岩 本 道 子

2020.11.1 の週報掲載の説教

<2019年8月4日の説教から>
『キリストの受けた傷によって
ペトロの手紙一218節~25
              牧師 三輪地塩

「キリストの十字架は、我々を生かすための犠牲であった」。

このことに異論の余地はない。だがここで「犠牲」について考えたい。例えば、ある信仰深い人がブラック企業に勤めていたとして、無慈悲な上司の言いなりになり、身体を壊すまで我慢を続けたとしよう。このようなに健康を害して「企業」を生かすことは、「キリスト教的な十字架的行為」であるはずがない。あるいは、ある高校球児が、全ての試合を一人で投げ抜き、甲子園優勝をもぎ取ったとしよう。その一人の犠牲によってチームは成功を手に入れたかもしれないが、決して「美しい犠牲」などではない。「犠牲」には「いけにえ」と、「目的のために大切なものを捨てる」という二つの意味がある。前者は「痛み・苦しみ」の意味、後者は感動的要素が含まれるかもしれない。

「キリストの十字架」には、「目的のために大切なものを捨てる」という後者の要素(聖書的には「燔祭」)に、プラスして「刑罰的要素」が含まれる。つまり「美しい死」ではないことは明らかだ。我々は、人類の罪の犠牲になったイエス・キリストの十字架を、美しく死んでいった「感動物語」にしてはならない。言い換えるならば、キリストの十字架は、感動でも、美しさでも無く、まして、クリエイティブで発展的行為なわけでもない。キリストの死は「悲惨」である。

「犠牲者」とは「悲惨」と「痛々しさ」と「苦しみ」の中に置かれる者のことをいう。「犠牲」になった企業戦士も、肩を壊してプロに行けなくなった高校球児も、我々の感動や喜びを満足させる「美しい犠牲者」であってはならないのだ。

 このことを、キリストの十字架の内に見なければならない。十字架は「悲惨」である。第一ペトロ2章22~24節は、初期キリスト教会の「キリスト賛歌」として読まれ、唄われていた箇所である。フィリピ書2章と異なるのは、ここに「高挙のキリスト」が書かれていないことにある。高く挙げられた、復活と昇天のキリストの「栄光」と「犠牲」とが繋がっていない。

 我々は、キリストの犠牲を理想化してはならない。十字架とは、我々が、苦しむ人をみて痛々しく思い、また自らが痛むあの「苦しみ」である。はらわた掻き毟られるような悲惨さと挫折に目を向け、それゆえに救われている我々の命を感謝して歩みたい。