2021.3.7 主日礼拝の案内

週 報  76巻 10号2021.3.7
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。(ルカによる福音書11章34節-35節)

主 日 礼 拝  午前 10:30から

<レントⅢ>
奏楽  板 垣 玲 子

<神の招き>
招 詞 エフェソの信徒への手紙5章14節b

*讃 詠  546

*罪の告白と赦し 交読詩編94編12節~15節

*讃美歌 19〔1-2〕

<神の言葉>
聖 書 詩編139編11節~12節 (旧約P.979)

ルカによる福音書11章33節~36節

(新約P.129)

祈 り

*讃美歌 Ⅱ188〔1-2〕

説  教 「その輝きであなたを照らす」

三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌 534〔1-2〕                                                         公 告

*主の祈り

*頌 栄 543

*派遣と祝福

*後 奏

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難の方は

お座りのままでどうぞ。

礼拝当番(今週)松谷信司

(次週)菊地晴子

2021.3.7 週報 教会からのお知らせ

2021.3.7 週報 教会からのお知らせ
◇本日は第1主日ですが、「緊急事態宣言」が解除されて

おりませんので、聖餐式は見合わせます。

4月4日イースター礼拝から行う予定です。

【第70回定期中会日程】
日時:3月18日(木) 9:30~開会礼拝 10:30~議事

会場:柏木教会

《主日以外に教会にいらっしゃる方へ》
受付けに『入館管理表』が置いてありますので、入館の

時刻と名前、退館の際には暖房器具、エアコンなどの運転停止の確認とご記入をお願いします。

2021.3.7~3.13 集会案内

2021.3.7 本      集 会

〇「教会員の生活」による学びの会  休 会

〇朝カフェ             休 会

〇入門の会             休 会

〇クワイア練習           中 止

〇コイノニア            中 止

〇礼拝堂・1階の消毒(有志)     礼 拝 後

〇定期小会               礼 拝 後

2021.3.7~3.13  今 週 の 集 会
◎祈祷題 「日曜学校生徒と教師のため」

〇聖書の学びと祈りの会   3月11日(木)10:00

歴代誌下31章(担当 三輪地塩)  司会 板 垣 玲 子

37日以降の午前・午後の祈祷会及び「生と死」の学びについては、定期小会で協議・決定し、お知らせします。
2021.3.14~3.20 次 週 礼 拝
<レントⅣ>

説教 「正義の実行と神への愛」 三 輪 地 塩

歴代誌下24章17節~22節

ルカによる福音書11章37節~54節

讃美歌

545A、20(1-2)、249(1-2)、533(1-2)、544

岩 本 道 子

2021.3.7 の週報掲載の説教

 <2019年11月24日の説教から>
ルカによる福音書1章1節~25節

洗礼者ヨハネの誕生』
牧師 三輪地塩

ザカリアは天使に「あなたの願いは聞き入れられた」と言われ「それを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」とある。アブラハム、モーセ、イザヤなども神の顕現を受けたとき、不安と恐怖の思いにかられた、と聖書は伝えている。老いた夫婦が「子が授かる」と天使に言われても、信じることが出来ないのは当然であろう。ザカリアは、天使ガブリエルの言葉を否定するように18節で言う。「私は老人ですし、妻も年をとっています」。このように天使の預言を拒否した。これに対して天使は言う。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話す事が出来なくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」。

ザカリアの「口が利けなくなった」理由を、我々は「ザカリアの不信仰」と理解するだろう。信じなかったからための罰だと。勿論そのような意味もあったとも思うが、正確にはそうではない。19節「私はガブリエル。神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」。ここに「この喜ばしい知らせを伝えるために」と書あるが、直訳すると「これらを福音として知らせるために」となる。つまりガブリエルが伝えたいことは、「洗礼者ヨハネが誕生する」という誕生予告でなく、ヨハネの誕生自体の「福音性」にある。「キリスト誕生前に先立って歩む者、つまりキリストの準備をなす者」、これこそが我々に与えられる救いである」と言うのだ。これあザカリア一家に訪れた幸せにとどまらず、世に対する福音であると聖書は示す。

つまり、天使の言葉を信じなかったための「口閉じ」という単純なものではなく、「信じていない者の口から語られる福音は、語る事を許されない」という意味なのだ。神は信じる者の口から福音を伝えさせようとしている。もし信じないのなら、黙っていた方が良い。本当に福音なのかどうか疑う者は、語る必要はない。語ってはいけない。

天使が目の前に現われるなどという事は、現象的にはそうそう起こることではない。だが我々は「経験的に」起こり得ることを知っている。何も語れなくなるような時があり、熟慮が必要な時があり、「沈黙」が必要な場面がある。ザカリアはその時、沈黙を経て、語る者に変えられたのである。