2021.3.7 の週報掲載の説教

 <2019年11月24日の説教から>
ルカによる福音書1章1節~25節

洗礼者ヨハネの誕生』
牧師 三輪地塩

ザカリアは天使に「あなたの願いは聞き入れられた」と言われ「それを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」とある。アブラハム、モーセ、イザヤなども神の顕現を受けたとき、不安と恐怖の思いにかられた、と聖書は伝えている。老いた夫婦が「子が授かる」と天使に言われても、信じることが出来ないのは当然であろう。ザカリアは、天使ガブリエルの言葉を否定するように18節で言う。「私は老人ですし、妻も年をとっています」。このように天使の預言を拒否した。これに対して天使は言う。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話す事が出来なくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」。

ザカリアの「口が利けなくなった」理由を、我々は「ザカリアの不信仰」と理解するだろう。信じなかったからための罰だと。勿論そのような意味もあったとも思うが、正確にはそうではない。19節「私はガブリエル。神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」。ここに「この喜ばしい知らせを伝えるために」と書あるが、直訳すると「これらを福音として知らせるために」となる。つまりガブリエルが伝えたいことは、「洗礼者ヨハネが誕生する」という誕生予告でなく、ヨハネの誕生自体の「福音性」にある。「キリスト誕生前に先立って歩む者、つまりキリストの準備をなす者」、これこそが我々に与えられる救いである」と言うのだ。これあザカリア一家に訪れた幸せにとどまらず、世に対する福音であると聖書は示す。

つまり、天使の言葉を信じなかったための「口閉じ」という単純なものではなく、「信じていない者の口から語られる福音は、語る事を許されない」という意味なのだ。神は信じる者の口から福音を伝えさせようとしている。もし信じないのなら、黙っていた方が良い。本当に福音なのかどうか疑う者は、語る必要はない。語ってはいけない。

天使が目の前に現われるなどという事は、現象的にはそうそう起こることではない。だが我々は「経験的に」起こり得ることを知っている。何も語れなくなるような時があり、熟慮が必要な時があり、「沈黙」が必要な場面がある。ザカリアはその時、沈黙を経て、語る者に変えられたのである。