2021.6.27 の週報掲載の説教

<2020年2月2日の説教から>

『人は何によって生きるのか』

       ルカによる福音書4章1節~13節

牧師 三輪地塩

イエスが荒れ野で誘惑を受けた有名な話。ここで疑問が沸いてくる。「石をパンに変えること」や「神殿の上から飛び降りること」がなぜ誘惑なのだろうか。ここで考える必要があるのは、この場面の「誘惑」とは、行為の中に存在する「意味」の方である。「悪魔が言っているから誘惑なのだ」と単純化してしまえば簡単だが、それだと聖書が語ろうとする本質に触れることが出来なくなる。つまりこれらの誘惑の内容は全て、「聖書が語る誘惑とは何か」を示している。言わば「誘惑の本質」の明示である。

一番目は、「貧しさの中で起こる誘惑」、二番目は、「富・支配への欲求の中で起こる誘惑」、三番目は、「宗教・信仰の中に起こる誘惑」である。誘惑は、「自覚的行為」と「無自覚的行為」に大別される。我々は、後者に注意しなければならない。「空腹だから石をパンに変える」こと自体は悪くない。むしろ素晴らしい奇跡かもしれない。政治力を得ることも社会に還元出来るのだから悪くない。神殿から飛び降りる行為も悪くない。重要なのは、誘惑が「堕落の中」にではなく、自身と過信の中に存在することにある。ここで示される「誘惑」は、落ちてもいないし、堕落もしていない。エデンの園でアダムとエバは蛇に何と言われたかを思い起こしたい。「この木の実を食べると堕落し悪魔のようになれるよ」とは言われなかった。これを食べて「神のようになりたくないか」と言われたのだった。アダムもエバも堕落を求めなかったし、悪を望んでもいなかっった。それをすると素晴らしいと思われることの中、すなわちよりよいものへと上昇したい心の内に起こっている。

この箇所でイエスを神殿の上に立たせた悪魔は何と言っているか。10節「というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じてあなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ち当たる事のないように、天使たちは手であなたを支える』」。つまり悪魔が詩編91編11~12節の言葉を引用しているのである。誘惑者はイエスに対し、聖書を引き合いに出して自分の言葉の正当化を謀る。宗教的な誘惑とは、自分の信仰心を誇り、時に神の言葉を引用し、神の言葉と偽ってこれを正当化することにある。もしかすると、真の信仰は迷いの中にあった方が神の義に近いのかもしれない。