2021.7.4 の週報掲載の説教

<2020年2月9日の説教から>

ルカによる福音書4章14節~30節

『故郷では歓迎されない』
牧師 三輪地塩

ユダヤ民衆はイエスに対して懐疑的な思いも持っていた。それは、ガリラヤ近くのナザレの大工、ヨセフの息子を「救い主」として受け入れるのが容易なことではなかったからだ。イザヤ書61章の言葉(ユダヤ人の解放、回復、自由)が、イエスによって実現したというのなら、イエスが「メシア」であることを証明して欲しい、というのである。旧約時代から、ノア物語然り、ギデオン物語然り、しるしを見ないと信じない、と言い続けてきたのがユダヤ人の(ひいては人間の)歴史である。

そこでイエスは「エリヤとサレプタのやもめの話し」と「エリシャとナアマンの話」を語った。両方とも、ユダヤ人ではなく異邦人が救われた話であるためユダヤ人は怒りに燃え、殺意を抱き、イエスを崖から突き落とそうとした。だが、イエスがこの2つの話をしたのは、単にユダヤ人の罪を曝くだけではなかった。この2つの話を分析すると、異邦人だけが救われる話ではないことが分かる。サレプタのやもめもナアマンも、信じて従う前に、しるしや保証の要求をしなかった。エリヤとエリシャに言われたからその通りにやった、それが神の恵みだった、という話である。

このことから考えると、イエスが引き合いに出しているこの二つの物語は、しるしを欲しがっているユダヤ人たちに対し、「しるしを見るから信じるのではなく、信じる時にしるしが与えられる」、ということを言おうとしているのである。イエスはユダヤの民衆を罵倒する目的で語っているわけではないし、異邦人が優遇されて救われる話を選んで敢えて当てつけのように語っているのでもない。むしろ「神の民であるとはどういうことなのか」「神の選びを受ける民とはどういうことなのか」を端的に示そうとして話されたのだ。神の救いをそのまま受け取とろうとしていないユダヤ人たちの態度、すなわち「しるしが無いと信じない」という態度を問い質している場面である。ヘブル書11章1節に「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」とあるが、果たして我々はどうか。目に見えるものを信じる信仰に拘泥していないか。信仰信仰と言いながら、その実、制度やルール、建物を信じる信仰に固執していないか。教会の危機が叫ばれる今、信仰者とは何であるのか、自己点検が必要である。