週 報 76巻 28号 2021.7.11
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。
(ルカによる福音書15章32節)
主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 三 輪 志 都
<神の招き>
招 詞 イザヤ書42章1節
*讃 詠 546
聖 書 創世記1章26節~27節 (旧約P. 2)
日曜学校説教「人間の創造と治めるつとめ」
済 陽 高 志
*讃美歌 454〔1-2〕
<神の言葉>
聖 書 箴言29章3節 (旧約P.1029)
ルカによる福音書15章11節~32節
(新約P.139)
祈 り 増 田 裕 子
*讃美歌 Ⅱ136〔1-2〕
説 教 「放蕩息子」 三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 213〔1-2〕
公 告
*主の祈り
*頌 栄 543
*後 奏
礼拝当番(今週)伊木美穂子
(次週)済陽高志
ライブ配信当番
(今週)新畑 信
(次週)小出 勝
2021.7.11~7.17 週報集会案内
2021.7.11~7.17 週報集会案内
本 日 2021.7.11 の 集 会
〇「教会員の生活」による学びの会 休 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 礼 拝 後
今 週 2021.7.11~7.17 の 集 会
◎祈祷題 「コロナ禍で生活に困窮している人のため」
〇聖書の学びと祈りの会は7月15日(木)~9月9日(木)まで
休会となります。
次 週 礼 拝
説教 「不正な管理人」 三 輪 地 塩
箴言26章28節
ルカによる福音書16章1節~13節
讃美歌 545A、79(1-2)、195(1-2)、239(1-2)、544
岩 本 道 子
*日曜学校礼拝は第2主日と第4主日に行います。
*礼拝時間が長くならないよう、日曜学校礼拝の無い時に
交読詩編を朗読します。
本 日 2021.7.11 の 集 会
〇「教会員の生活」による学びの会 休 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 礼 拝 後
今 週 2021.7.11~7.17 の 集 会
◎祈祷題 「コロナ禍で生活に困窮している人のため」
〇聖書の学びと祈りの会は7月15日(木)~9月9日(木)まで
休会となります。
次 週 礼 拝
説教 「不正な管理人」 三 輪 地 塩
箴言26章28節
ルカによる福音書16章1節~13節
讃美歌 545A、79(1-2)、195(1-2)、239(1-2)、544
岩 本 道 子
*日曜学校礼拝は第2主日と第4主日に行います。
*礼拝時間が長くならないよう、日曜学校礼拝の無い時に
交読詩編を朗読します。
2021.7.11 の週報掲載の説教
<2020年2月16日の説教から>
イザヤ書61章1節~3節
ルカによる福音書4章14節~30節
『神の恵みの年を告げるため』
牧師 三輪地塩
預言者イザヤは61章で、バビロン捕囚後の苦しむ民に対し、喜びの知らせを語っている。61章1節の後半、「私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。このようにイザヤ書61章は、慰め、自由、回復、解放というような実に明るく希望に満ちた預言が語られている。
だが2節には「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して」とある。明るく希望溢れた文脈の預言とは異なり、この部分は復讐心に満ちている。つまり、バビロン捕囚から解放された喜びと同時に、捕囚を行ったバビロンへの復讐の思いを込めて「私たちの神はあなた方を赦しませんよ、報復しますよ」というのである。なぜなら、神はイスラエル人の神であり、イスラエルを導き、祝福を与える神であるから。そのイスラエルに悪さをするバビロンは、報復されるのは当然であるとイザヤは語る。これが当時のイスラエルの民の神理解であり、罪と罰、祝福と呪詛の理解であった。
だが、ルカにおいてはイザヤ61章はまた違った光を当てられる。ルカ4章18節。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
ユダヤ教の会堂シナゴーグに入りイザヤ書61章を読んだ。だが、上記の通り、61章はイエスによって改変されている。注意深い人はこのことに気付くだろう。何を改変しているのか?それは「復讐の削除」である。イザヤ61章2節の「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して~~」の部分を削除し、解放、回復、自由、主の恵みのみを強調して伝えている。イエスは「復讐」の箇所を読まなかった。異邦人に敵対する全ての復讐心、報復の思いを取り除いたのだ。「報復は神のなさること。人間の業ではない」ということだろう。この世から、復讐や報復が取り除かれる日は、いつ来るのだろうか。
イザヤ書61章1節~3節
ルカによる福音書4章14節~30節
『神の恵みの年を告げるため』
牧師 三輪地塩
預言者イザヤは61章で、バビロン捕囚後の苦しむ民に対し、喜びの知らせを語っている。61章1節の後半、「私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。このようにイザヤ書61章は、慰め、自由、回復、解放というような実に明るく希望に満ちた預言が語られている。
だが2節には「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して」とある。明るく希望溢れた文脈の預言とは異なり、この部分は復讐心に満ちている。つまり、バビロン捕囚から解放された喜びと同時に、捕囚を行ったバビロンへの復讐の思いを込めて「私たちの神はあなた方を赦しませんよ、報復しますよ」というのである。なぜなら、神はイスラエル人の神であり、イスラエルを導き、祝福を与える神であるから。そのイスラエルに悪さをするバビロンは、報復されるのは当然であるとイザヤは語る。これが当時のイスラエルの民の神理解であり、罪と罰、祝福と呪詛の理解であった。
だが、ルカにおいてはイザヤ61章はまた違った光を当てられる。ルカ4章18節。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
ユダヤ教の会堂シナゴーグに入りイザヤ書61章を読んだ。だが、上記の通り、61章はイエスによって改変されている。注意深い人はこのことに気付くだろう。何を改変しているのか?それは「復讐の削除」である。イザヤ61章2節の「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して~~」の部分を削除し、解放、回復、自由、主の恵みのみを強調して伝えている。イエスは「復讐」の箇所を読まなかった。異邦人に敵対する全ての復讐心、報復の思いを取り除いたのだ。「報復は神のなさること。人間の業ではない」ということだろう。この世から、復讐や報復が取り除かれる日は、いつ来るのだろうか。